手紙と石けん
エールフェルス公国は、世界地図の上では親指の爪ほどの大きさしかない。
四方を内陸の国々に囲まれ、その外側もまた別の内陸国に囲まれているため、この国の住人は海というものを生涯見ることなく死んでいく者が多かった。
しかし彼らが海を惜しむことはない。南から吹きあがる風は温かく、山脈の急斜面を伝って国土の隅々へ届いた。ブナとカラマツの森を揺らし、羊の背を優しく撫でる。
国土の大半を山が占め、その稜線は分水嶺となって東西を分かつ。雨はどちらへ落ちるかによって遥か遠くの異なる海へと辿り着いた。奇妙なことに分水嶺はあちらこちらに細かく分散し、隣り合う谷が全く異なる水系に属していることも珍しくなかった。地元の老人たちはこれを「神が境を引き直すのを忘れた」と笑う。
高地は伯爵領、低地は男爵領。ふたつの領主が一人の公爵のもとで収まっている。この国が発行する切手は周辺各国の収集家たちのあいだで細々とした人気を誇っており、図案は毎年変わる。今年は高地に咲くエーデルワイスの図案だった。
国家の治安を守る騎士警察が百人ほどいる。彼らは警官であり、郵便の護衛であり、また時に山岳救助隊でもある。腰には剣を佩いているが、それを抜くことはほとんどない。周辺の国家と細い糸で結ばれた小さな国の平和は、そういう静けさの上に成り立っていた。
✤ ✤ ✤
――羊と石けんと朝の仕事
マリカが石けんを作るのは、必ず月の変わり目だった。理由は特にない。ただ母親がそうしていたから、彼女もそうしていた。
十月の最初の朝、空気がまだ夜の冷たさを帯びているうちに起き出して、先月の秋祭りで絞めたイノシシの背脂を取り出す。脂は一度煮沸して不純物を取り除き、灰汁と合わせて長い時間をかけて掻き混ぜる。だんだんと腕が痛くなる。
途中で蜂蜜を少し入れるのはマリカが自分で考えついたことだった。
できあがった石けんは型に流し込んで固める。固まったら薄く切って風通しのよい軒下に並べ、数週間乾燥させる。それで一ヵ月分以上の石けんが揃う。余った分は市に持っていって売る。売れ残りは隣の農家に配る。それでも余ったら、騎士詰め所に届けた。
伯爵領の騎士たちは石けんを喜んだ。高地の水は硬く、市販の石けんでは泡が立ちにくいからだ。
マリカは今年でニ十歳の未婚の娘で、伯爵領の高地、標高千四百メートルほどの丘の中腹に牧羊犬のホルンとキルシュ、そして三十二頭の羊たちと共に暮らしていた。父は五年前に山で足を滑らせて亡くなり、母は一昨年、低地の男爵領に住む叔母を頼って移り住んだ。母が去る時、マリカは羊を手放したくなくてここに留まった。
羊の世話は早朝から始まる。囲いを開けるとホルンとキルシュが羊を追い、群れを東の草地へ連れていく。秋になると草は色褪せて短くなるが、羊たちは黙々と食む。マリカは丘の石の上に腰かけて遠くの稜線を眺めた。南風が頬を撫でる。こういう時間が、一日のうちで最も好きだった。
昼になると羊を囲いに戻し、今度はチーズの手入れをする。地下の貯蔵庫に並んだチーズを、塩水を染み込ませた布で丁寧に拭いてゆく。熟成の進み具合を確認しながら順番を入れ替える。夕方は羊毛の作業。刈り取ってあった羊毛を洗って梳かし、糸に紡ぎ、それを織る。今はベッドカバーを一枚織っている。
夜は石油ランプの明かりの下で針仕事をしながら一日の終わりを静かに待つ。
マリカの暮らしはそういうものだった。
✤ ✤ ✤
――郵便配達と甘い香り。
郵便が届くのは週に二度。火曜日と金曜日の朝に郵便馬車が麓の村までやってきて、そこから先は徒歩になる。
高地の集落への郵便配達はハンネ・フリックという若い女性が担っていた。彼女は男爵領の出身だったが、高地の地理を誰よりもよく知っていた。幼い頃に父親の仕事について伯爵領を歩き回ったからだ。
ハンネには弟がいた。マルセルという、十八歳の青年である。
マルセルは特定の仕事を持っていなかった。というより、あらゆる仕事を少しずつやっていた。ある家で薪を割り、ある家で屋根を直し、ある家の牧場の柵を修繕し、秋には収穫を手伝い、冬には雪かきをした。手が早く、文句を言わず、頼まれたことは最後までやり遂げる。それで食いつないでいた。
姉のハンネが体調を崩した十月の第一火曜日、マルセルが代わりに郵便を届けることになった。彼は郵便袋を肩にかけてリストを確認し、高地への坂道を登り始める。
マリカの家に着いたのは午前十時を過ぎた頃だった。
石けんを煮ていたマリカは木の扉をノックする音に気づいて顔を上げる。玄関口にいたのはハンネではなかった。細身で背が高く、茶色の短い髪をした青年が郵便袋を抱えて立っていた。
「マリカ・ビュッヘル様のお宅ですか」
「そうです」
「僕はハンネ・フリックの弟です。姉が熱を出しましたので、代わりに参りました。今日は一通あります」
彼は封筒を差し出した。マリカはそれを受け取り、差出人を確認する。ユリア・ビュッヘル――母からだった。
「ありがとうございます」
「いえ」
マルセルは踵を返しかけて、立ち止まる。奇妙に心に残る、華やかな香りがした。
「すみません、何か作っておられるのですか」
「ええ。石けんを……月の変わり目なので」
「いい香りですね。蜂蜜が入ってますか?」
マリカは少し驚いて彼を見た。
「よくお分かりですね」
「以前、似た匂いの石けんを使っていた人がいたので……。はは、うちの姉です。ハンネが作ってました。今は忙しくなって、作らなくなりましたが」
懐かしくて、つい。それだけ言って、今度こそ彼は道を戻っていった。マリカはしばらく扉のところで立っていた。母の手紙は封を切らないまま、石けんの鍋の横に置いた。
✤ ✤ ✤
――迷子の巡回騎士。
クラウス・ラインベルガーという名の騎士がいる。公都の騎士学校を出て最初の二年は低地の男爵領で勤めていた。二十三歳となる今年の春から高地の伯爵領に異動になった。理由は特に知らされなかったが、おそらく誰もが嫌がる僻地への配置転換だということは察していた。
高地の宿所には十人の騎士が詰めている。彼らの主な仕事は巡回と郵便護衛、たまに起こる家畜の盗難案件の処理だ。剣を抜く機会はほとんどなかった。しかしクラウスはそれをとくに不満に思わない。彼にとって剣は、抜かずに済むなら抜かないほうがよい重たい道具だった。
騎士は週に三度、高地の各集落を回る。道は整備されておらず、岩の多い斜面を地図と勘で歩く。秋になると霧が出やすく、稜線が見えなくなることもある。そういう時は分水嶺の向こう側へ迷い込まないよう注意が必要だった。沢の流れる方向を確認して、どちらの水系にいるかを判断するのだ。
クラウスが初めてマリカの家に立ち寄ったのは巡回の途中だった。立ち寄ったというよりはようやく発見したような有様だった。地図によればその先に小さな集落があるはずだったが、霧で道を見失い、農家の明かりを頼りに近づいたのだ。
扉をノックすると、羊飼いの少女が顔を覗かせる。
「失礼、道を教えてもらえないか。霧で……少し、迷ってしまって」
マリカは彼の装備を見て騎士だと判断し、素直に道を教えた。それから少し考えて言った。
「この霧では夜のうちに集落に着くのは難しいと思います。もしよろしければ、今夜はここで休んでいかれますか。納屋がありますから」
「ありがたい。ご迷惑でなければ」
「騎士の皆様にはお世話になっていますから、どうぞ」
彼女の申し出に甘えてクラウスはビュッヘルの納屋で一夜を過ごした。藁の上に横になり、羊の吐息と風の音を聞いて眠る。こんなにも静かな夜は久しぶりだった。
翌朝、マリカは朝食を出してくれた。黒パンとチーズ、熱いハーブティー。クラウスはそれを受け取りながら、食卓ではないところから香る蜂蜜の匂いに気づいた。
「これは、石けんだろうか? いい匂いだ」
マリカは少し俯いておかしそうに笑う。
「先月も同じことを言った人がいました」
宿所に戻ってから、クラウスは入浴所で同じ香りを嗅いだ。
✤ ✤ ✤
――石けんと手紙、それぞれの行方。
十月も半ばを越えて終わりに近づく頃、山は色を鮮やかに変えた。ブナの葉が金色になり、稜線に最初の雪がうっすらと積もった。風は依然として南からくるが、夜の冷え込みは増してくる。マリカは羊のために囲いに藁を敷いてやり、ホルンとキルシュの小屋に毛布を足した。
郵便はハンネがくる週とマルセルがくる週が、なんとなく交互になっていた。ハンネは徐々に回復しつつあったが、体の弱い患者が高地の集落にいて、自身の療養も兼ねて週に一度見舞いに行くようになっていた。その時はマルセルが代わりに高地を回った。
マルセルは配達のたびに少しずつマリカと話すようになった。最初は郵便の話だけ。やがて天気の話になり、山の話になり、牧畜の話になった。ある日、マリカが織っているベッドカバーを見て「きれいな模様ですね」と言った。
「古い模様です。母から教わりました」
「お母様は今、低地においでですか」
「そうです。叔母の家に。月に一度か二度、手紙がくるんです」
「返事は書かれますか?」
「……書こうとして、いつも途中でやめてしまうんです」
マルセルはそれ以上は聞かなかった。母と娘の関係性は、男には理解しがたいものがある。彼は姉を見てそれを知っていた。
次の火曜日、マルセルはいつもの郵便に加えて小さな包みを持ってきた。
「これは、僕からではありません。低地の薬剤師から預かりました。石けんに混ぜると手荒れに効く草の蒸留液だそうです。高地の方に合うかもしれないと言ってました」
「薬剤師様から?」
「えっと、姉が患者さんのお見舞いで低地に行った時に、あなたの話が出たようです」
マルセルは自分でも少し言い訳がましさを感じながら「石けんを作ってるそうなので」と続けた。
「ありがとうございます。中で少し休んでいきますか?」
マリカがそう問うと、「お言葉に甘えて、是非」と答えるマルセルはどこかホルンとキルシュに似ているような気がした。
✤ ✤ ✤
――高地の事件、騎士の仕事。
十一月の始めに高地で小さな事件があった。羊が三頭ほど行方不明になったのだ。マリカの羊ではなかったが、隣の牧場主からの届け出を受けてクラウスが調査に当たった。
足跡を追い、証拠を集め、その過程でクラウスはマリカの証言を聞きにきた。
「あなたの羊が無事でよかった。先週の金曜日の夕方、東の草地から羊を戻す際に、見慣れない個体を見ませんでしたか」
「いいえ。ただ、東の草地の奥、分水嶺の辺りに足跡がありました。大きな犬か、小さな羊か……」
「なるほど。では分水嶺の向こうへ抜けてしまった可能性がある」
「谷が深くて私には確認できませんでした」
クラウスはノートに書き留めた。手が大きく、文字は意外なほどに丁寧だった。
「羊飼いの方が分水嶺を確認できない場所とは、どの辺りですか。案内してもらえればありがたいが」
「はい」
マリカはホルンとキルシュを連れて、クラウスを東の草地へ案内した。秋の午後の光が斜めに射し、枯れかけた草を金色に染めあげる。分水嶺は特に標識があるわけでもなく、ただ地形の微妙な傾きによって示されていた。
「ここから水が分かれます。右の水は南の川へ、左の水は北の川へ」
クラウスはしゃがんで地面を見た。足跡があった。おそらくは行方不明の羊のものだ。
「放牧中に迷ったようだ。国境を越えてしまっていたかもしれない」
分水嶺は国境でもある。ただしその線はほとんどの場合、あまり認識されない。半ばため息でもつくようにクラウスが訊ねる。
「ここで暮らしていると、国境というのはずいぶん曖昧に感じませんか」
「そうですね。でも……手紙が届くか届かないかが、確かに変わります。それが一番大きな境に思えます」
クラウスは立ち上がって、制服についた草を払った。
「手紙が家の証明」
「ええ。切手が違う。消印が違う。それだけで、どこに属しているかが決まる」
流れている川がどこの水系からきたものか、ほとんど意識はしない。それでも、確かに高地と低地は違っている。そしてマリカはこの場所にいる。
結局、いなくなった羊たちは谷の反対側で呑気に草を食んでいたところを騎士たちに捕獲され、無事に主のもとへ届けられた。
✤ ✤ ✤
――冬支度と、残ること。
冬に向けて準備が忙しくなった。
マリカはまずホルンとキルシュを連れてマーモットを仕留めた。秋の終わりに巣穴に入る前のマーモットを捕まえ、丁寧に捌く。脂の多い肉は塩漬けにして保存する。骨からは出汁をとって煮込み料理に使う。毛皮は手袋と帽子になる。何一つ無駄にはならない。
石けんも新しいものを作った。今回は草の蒸留液を少し混ぜてみた。出来上がりが滑らかで、泡立ちがよかった。軒下に並べた石けんをマリカはしばらく眺める。
マルセルがきた金曜日、彼女は一つ取り分けておいた石けんを彼に渡した。
「薬剤師様へのお礼に」
「でも、これはあなたの生業のものでしょう」
「市に持って行く分は分けてありますから」
マリカは自分が少し早口になるのを感じた。
「余ったら、あなたもお使いください」
受け取った石けんは蜂蜜と、何か草の匂いがした。
「あの、草の蒸留液を入れました。あなたが持ってきてくださったものです」
「すごく、好きな香りです」
外では風が吹いていた。今日は頬に当たる風がやけに冷たく感じる。
「姉が言っていました。来春から、高地の郵便ルートが変わるかもしれないと。新しい道ができれば、馬車がもう少し上までこられるようになる」
「それは便利になりますね」
「はい。でも、僕が高地までくる用事は減ってしまいます。それで……」
用事がなくなる前に聞きたいことが、とマルセルはそわそわしながら続けた。
「何でしょうか?」
「お母様への手紙は、書き終わりそうですか。途中でやめてしまうとおっしゃっていたので」
マリカは少し面食らった。それは彼女が予想していた質問ではなかった。
「……それを聞きたかったのですか?」
「あ、あと、もう一つ。来春も、僕がここへきても構わないでしょうか。用事がなくても」
風が不意に止んだ。囲いで羊が鳴くのが聞こえ、ホルンとキルシュが駆けていった。
「どうぞ、いつでも。……母への手紙も、書いてみます」
✤ ✤ ✤
――騎士の手紙。
十二月。クラウスは公都へ報告書を送った。
高地の状況、巡回の記録、羊の失踪事件の顛末、分水嶺近くの地形調査の結果。騎士の仕事とはつまり、そういう地道な記録の積み重ねだった。
報告書を書きながら、クラウスはふと考える。マリカが言ったことが頭に残っていた。
切手が違う。消印が違う。それだけで、どこに属しているかが決まる。
彼女は海を知らない。分水嶺の向こう側へ行ったこともない。しかし彼女は、手紙がどこを通って届くかということを肌で知っていた。それは地図を見ているだけでは得られない実感だった。
クラウスは報告書の端に小さな余白を見つけて、ほとんど日記のように書きつけた。
高地の住民は国境を実感として理解している。それは行政的な線引きではなく、手紙の切手と消印によって確かめられる日常的な事実として。
上官はその余白をさして気に留めずに読み流すだろう。
冬の詰め所は静かだった。雪が積もると定期的な巡回は減る。ただし雪かきに駆り出される機会が増える。クラウスは空いた時間に溜まった報告書を書き、本を読み、そして時々は窓の外を眺めた。東の方角に丘がある。あの丘の中腹に、石けんを作る娘が暮らしている。
おかしなことだが、それを知っているというだけで、今年の冬の静けさが暖かな色に染まるように見えた。
✤ ✤ ✤
――春のマーモットの切手。
年が明けるとエールフェルス公国は新しい切手を発行した。
図案は今年も変わった。エーデルワイスから、マーモットに。高地の岩場に座って明後日の方向を見るマーモットと、その後ろに雪を被った稜線が描かれた。小さな切手の中に、国土が凝縮されている。
ハンネはすっかり回復し、元気に高地の郵便を届けていた。新しい道はまだ完成していなかったが、工事が始まっていた。マルセルは相変わらず、あらゆる仕事を少しずつこなしている。そして火曜日には時々高地まで歩いた。用事はなかったけれど、それでも歩いた。
ある火曜日の朝、マリカはマルセルに一通の封筒を渡した。
「これを届けてもらえますか」
封筒の宛先には低地に住むユリア・ビュッヘル母の名があった。
「書き終えたんですね」
「はい、どうにか」
マルセルは封筒を受け取り、郵便袋に丁寧にしまった。表には新しい切手が一枚、丁寧に貼られていた。マーモットの切手だった。
必ず届けますと彼が言うと、マリカはそっと頷いた。
✤ ✤ ✤
――帰属の証明、消印のある日々。
高地の春は殊更にゆっくりと訪れる。麓ではとっくに花が咲いても、標高千四百メートルの丘にはまだ霜が降りていた。羊たちは草の芽を探してあちこちを歩き回り、犬たちはそれを追いかけ、マリカは石の上に腰かけて遠くの稜線を見る。
月に一度か二度、低地の母から、時に叔母から手紙が届く。マリカはそれに返事を綴る。もう途中でやめはしない。
春の新しい道を通って、麓の集落までマルセルが届ける。そこから郵便馬車が運ぶ。どこかの駅で消印が押される。その消印が、マリカの暮らしを遠く離れた場所に告げてくれた。
クラウスは今年も高地の詰め所にいる。新しい異動の話はこなかった。本人がそれをどう思っているかは、報告書には書かれない。ただ巡回の頻度が少し増えて、特に東の草地の方向への巡回が増えたという記録だけが詰め所の帳簿に残された。
マリカは今年も月の変わり目に石けんを作る。蜂蜜と草の蒸留液が入っている。軒下に並ぶ白い石けんに南風が当たる。
静かに、確かに、続いてゆく日々の暮らしに新しい消印が増えていった。




