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短編ホラー

消えてほしい

作者: 川浪 オクタ
掲載日:2026/03/05

 陸上部の練習で、また自己ベストを更新できなかった。


 走っても、走っても、誰かに追いつけない。


 いつも一緒に帰るミサキは、今日は委員会で残っているらしい。一人で歩く帰り道は、少しだけ世界が遠かった。


 公園の自販機で、コーラのボタンを押した。


 硬貨が落ちる音のあと、出てきたのは見覚えのない小さな缶だった。大人が飲む缶コーヒーより一回り小さい。色も模様も、どこか決めきれない曖昧なデザイン。


 きっと補充を間違えたのだろう。家も近いし、喉の渇きを我慢して置いて帰ろうかと、レンガの縁に置こうとした。


 そのとき、缶の側面の文字に気づいた。


 《これを飲んで選ばれたら、あなたに不思議な力が生まれます》


 夜の公園には、誰もいない。


 ドッキリにしては雑だし、カメラもない。お金は払っている。飲まなければいい。そう思って、せめて匂いだけでもとプルタブを開けた。


 その瞬間、頭の奥を強く掴まれた。


 喉の渇きとは別の衝動が、一気に込み上げる。


 飲みたい。今すぐ。


 考える前に、私は一気に飲み干していた。


 味は、思い出せなかった。甘いとも苦いとも言えない。ただ、身体の中に何かが戻ってきた感覚だけがあった。


 もう一本欲しい。


 そう思った瞬間、視界が暗転した。


 ◇ ◇ ◇


 目を覚ますと、朝だった。自分の部屋のベッド。


 帰ってきた記憶はない。


 母は言った。「普通に帰ってきてたよ。夕飯も食べずに寝ちゃって」


 鏡に映る自分に、違和感があった。顔つきは同じなのに、輪郭だけが妙に際立って見える。


「……お酒だったのかな」


 そう言い聞かせて、シャワーを浴びた。


 日常に戻れると思っていた。


 ◇ ◇ ◇


 最初の死は、ニュースだった。


 リビングのテレビに映る政治家。傲慢な口調、人を見下したような目。


 嫌だな、と思った。


 ただ、それだけ。


 消えてほしい。


 三日後、その人物は心臓発作で亡くなった。


 偶然だと、思おうとした。


 ◇ ◇ ◇


 夜、公園の前を通った。


 自販機の灯りが、やけに強く見えた。


 怖かった。でも、喉は渇いていないのに、足が止まらなかった。


 ボタンを押す。


 また、あの缶が出てきた。


 迷わず飲み干した。


 前よりも、ずっと、満たされた。


 そのとき、ふと思った。


 ——この力、便利だ。


 世界が、少し静かになる。


 次の瞬間、吐き気がした。


 私は何を考えた?


 ◇ ◇ ◇


 翌週、同じクラスの子が事故で亡くなった。


 学校中が騒然としていた。


 私は自分の机で、ただ手を握りしめていた。



 ミサキは、まだ話しかけてくれた。


「最近、大丈夫?」


 靴箱の前で、誰もいない時間。


「無理しないでね。私は味方だよ」


 その優しさが、ひどく重かった。


 放っておいてほしい。


 心の奥で、一瞬だけ思った。


 嫌だ。消えてほしい。



 三日後、ミサキは学校に来なかった。


 事故だと聞いた。


 葬式には行けなかった。


 泣く資格がないと思った。


 ◇ ◇ ◇


 誰も、私に近づかなくなった。


 噂は、事実だった。


 夜、屋上の柵を越えた。


 もう、これ以上、誰も殺したくない。


 存在するだけで人を殺すなら、消えた方がいい。


 身を投げた。



 目を覚ますと、病院だった。


 ほとんど怪我はなかったらしい。


 なぜ、死ねない。


 ◇ ◇ ◇


 精神病院に入れられた。


 私の話は妄想として記録された。


 ある夜、検温に来た看護師の名札を見てしまった。


 名前を、読んでしまった。


 三日後、その人は急変して亡くなったと聞いた。


 若いのに、と誰かが言っていた。


 ◇ ◇ ◇


 前から、視線を感じていた。


 月に一度、必ず来る「知人」。


 ある日、初めて対面した。


 落ち着いた声、整った顔立ち。


 彼は、私の名前を呼ばなかった。


「あの夜、君が缶を飲むのを見ていた」


 空き缶を拾い、残りを舐めたこと。


 自分にも力が生まれたこと。


「君を、死なせない力だ」


 だから、何度も引き戻した。


「缶は、もう出てこない」


「だから、君を見ていた」


「君を見ると、満たされる気がした」


 私は、何も言えなかった。



 逃げても、隠れても、終わらない。


 それなら——


 私は彼を見て、はっきりと思った。



「嫌だ。消えてほしい」



 何も起きなかった。



 三日経っても、一ヶ月経っても。


 彼は生きていた。


 彼は、笑った。


「やっと、こっちを見てくれた」


 窓の外は、相変わらず灰色だった。

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