消えてほしい
陸上部の練習で、また自己ベストを更新できなかった。
走っても、走っても、誰かに追いつけない。
いつも一緒に帰るミサキは、今日は委員会で残っているらしい。一人で歩く帰り道は、少しだけ世界が遠かった。
公園の自販機で、コーラのボタンを押した。
硬貨が落ちる音のあと、出てきたのは見覚えのない小さな缶だった。大人が飲む缶コーヒーより一回り小さい。色も模様も、どこか決めきれない曖昧なデザイン。
きっと補充を間違えたのだろう。家も近いし、喉の渇きを我慢して置いて帰ろうかと、レンガの縁に置こうとした。
そのとき、缶の側面の文字に気づいた。
《これを飲んで選ばれたら、あなたに不思議な力が生まれます》
夜の公園には、誰もいない。
ドッキリにしては雑だし、カメラもない。お金は払っている。飲まなければいい。そう思って、せめて匂いだけでもとプルタブを開けた。
その瞬間、頭の奥を強く掴まれた。
喉の渇きとは別の衝動が、一気に込み上げる。
飲みたい。今すぐ。
考える前に、私は一気に飲み干していた。
味は、思い出せなかった。甘いとも苦いとも言えない。ただ、身体の中に何かが戻ってきた感覚だけがあった。
もう一本欲しい。
そう思った瞬間、視界が暗転した。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、朝だった。自分の部屋のベッド。
帰ってきた記憶はない。
母は言った。「普通に帰ってきてたよ。夕飯も食べずに寝ちゃって」
鏡に映る自分に、違和感があった。顔つきは同じなのに、輪郭だけが妙に際立って見える。
「……お酒だったのかな」
そう言い聞かせて、シャワーを浴びた。
日常に戻れると思っていた。
◇ ◇ ◇
最初の死は、ニュースだった。
リビングのテレビに映る政治家。傲慢な口調、人を見下したような目。
嫌だな、と思った。
ただ、それだけ。
消えてほしい。
三日後、その人物は心臓発作で亡くなった。
偶然だと、思おうとした。
◇ ◇ ◇
夜、公園の前を通った。
自販機の灯りが、やけに強く見えた。
怖かった。でも、喉は渇いていないのに、足が止まらなかった。
ボタンを押す。
また、あの缶が出てきた。
迷わず飲み干した。
前よりも、ずっと、満たされた。
そのとき、ふと思った。
——この力、便利だ。
世界が、少し静かになる。
次の瞬間、吐き気がした。
私は何を考えた?
◇ ◇ ◇
翌週、同じクラスの子が事故で亡くなった。
学校中が騒然としていた。
私は自分の机で、ただ手を握りしめていた。
ミサキは、まだ話しかけてくれた。
「最近、大丈夫?」
靴箱の前で、誰もいない時間。
「無理しないでね。私は味方だよ」
その優しさが、ひどく重かった。
放っておいてほしい。
心の奥で、一瞬だけ思った。
嫌だ。消えてほしい。
三日後、ミサキは学校に来なかった。
事故だと聞いた。
葬式には行けなかった。
泣く資格がないと思った。
◇ ◇ ◇
誰も、私に近づかなくなった。
噂は、事実だった。
夜、屋上の柵を越えた。
もう、これ以上、誰も殺したくない。
存在するだけで人を殺すなら、消えた方がいい。
身を投げた。
目を覚ますと、病院だった。
ほとんど怪我はなかったらしい。
なぜ、死ねない。
◇ ◇ ◇
精神病院に入れられた。
私の話は妄想として記録された。
ある夜、検温に来た看護師の名札を見てしまった。
名前を、読んでしまった。
三日後、その人は急変して亡くなったと聞いた。
若いのに、と誰かが言っていた。
◇ ◇ ◇
前から、視線を感じていた。
月に一度、必ず来る「知人」。
ある日、初めて対面した。
落ち着いた声、整った顔立ち。
彼は、私の名前を呼ばなかった。
「あの夜、君が缶を飲むのを見ていた」
空き缶を拾い、残りを舐めたこと。
自分にも力が生まれたこと。
「君を、死なせない力だ」
だから、何度も引き戻した。
「缶は、もう出てこない」
「だから、君を見ていた」
「君を見ると、満たされる気がした」
私は、何も言えなかった。
逃げても、隠れても、終わらない。
それなら——
私は彼を見て、はっきりと思った。
「嫌だ。消えてほしい」
何も起きなかった。
三日経っても、一ヶ月経っても。
彼は生きていた。
彼は、笑った。
「やっと、こっちを見てくれた」
窓の外は、相変わらず灰色だった。




