第6話 硝子の涙、届かぬ指先
あきほは洗面所へ向かうと、乱暴に蛇口をひねった。
水流の音が、静寂を切り裂く。
彼女はクレンジングオイルを掌に取り、顔を覆った厚塗りのファンデーションを、まるで罰でも与えるかのように強く、痛々しいほど強く擦り始めた。
黒いアイラインがドロドロに滲み、不健康な色の頬紅が洗い流されていく。
排水溝に吸い込まれていくのは、彼女が必死に纏っていた「強い女」の仮面だ。
顔を上げ、鏡の前に立ったのは、僕が愛したあきほだった。
けれど、その頬は以前よりも随分と痩せこけ、目の下には濃い隈が張り付いている。
唇はカサつき、血の気が失われていた。
「……最悪」
鏡の中の自分を睨みつけ、彼女は吐き捨てた。
その言葉は、自分を捨てた世界への呪詛のようにも聞こえた。
彼女は濡れた顔をタオルで拭きもせず、リビングへと戻った。
そして、買ってきた缶チューハイをプシュッという音と共に開け、喉へ流し込む。
まるでガソリンでも注ぎ込むような飲み方だった。
祭壇の前へ、どさりと座り込む。
アルコールの匂いと、線香の匂いが混じり合う。
それはひどく不健全で、退廃的で、どうしようもなく悲しい匂いだった。
彼女は僕の遺影を見上げた。
その瞳に、じわりと涙が溜まり、表面張力の限界を超えていく。
さっきまでの冷え切った瞳ではない。
今にも壊れそうな、寂しがり屋で、泣き虫なあきほの瞳だ。
「ねえ、かえで」
彼女が震える指で、遺影のガラスに触れた。
「私、頑張ってるよ。かえでがいなくても、ちゃんと笑ってるよ。新しい出会いだって探してる。……偉いでしょ?」
嘘だ。
やめてくれ。
そんな言葉、僕は望んでいない。
無理をして笑う君なんて、一秒だって見たくない。
「でもね……全然楽しくないの」
言葉が決壊した。
一度溢れ出した嗚咽は、もう止まらなかった。
「うぅ……っ、うあぁ……!」
彼女は遺影を両手で抱きしめ、額を強く押し付けた。
冷たいガラスの感触を、僕の体温だと錯覚しようとするかのように。
「寂しいよ……会いたいよ……。なんで私を置いていったの? ずっと一緒にいるって言ったじゃん。守るって言ったじゃんか……!」
彼女の慟哭が、狭い部屋の壁に反響する。
子供のような泣き声。
誰にも見せないつもりで、毎晩繰り返してきたであろう、魂の叫び。
その声は、僕の存在そのものを引き裂くようだった。
僕は彼女の隣に座り、震える背中を抱きしめようとした。
けれど、僕の腕は虚しく彼女の体をすり抜ける。
パーカーの布地の感触さえ掴めない。
彼女の温もりを感じることはできない。
こぼれ落ちる涙を、指先で拭ってやることもできない。
『ごめん……ごめん、あきほ』
僕は謝ることしかできない。
彼女の言う通りだ。僕は嘘つきだ。
一生守ると約束したのに、先に死んでしまった。
そして今、こんなにも近くにいるのに――呼吸が触れ合うほどの距離にいるのに、たった一言の「愛してる」さえ届けることができない。
「かえでの……馬鹿……」
彼女は泣き疲れたのか、遺影を抱いたまま、床に突っ伏した。
浅く、速い呼吸。
アルコールが回っているのだろう。意識が混濁し始めている。
僕はただ、眠りにつく彼女の髪に触れようと手を伸ばし続けた。
決して触れられない距離にある、一番大切な人を守るために。
その夜、僕は幽霊としての無力さを骨の髄まで味わいながら、彼女の寝顔を見守り続けた。




