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僕の心臓が止まった日  作者: 秋山 冬夏


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第5話 時が止まった部屋

タクシーを降りたあきほは、コンビニで強い酒を数本買い込むと、見慣れたアパートへの道を歩き出した。


築三十年、鉄骨造の二階建て。

錆びついた外階段の、カン、カン、という乾いた音。

ドアノブの塗装が剥げかけた、二〇五号室。


そこは、世界で一番温かい場所だったはずだ。

僕とあきほが三年かけて作り上げた、二人だけの「城」。


鍵を持っていないことに気づき、僕は一瞬立ち止まる。

だが、あきほが鍵を開けて吸い込まれるように入っていくのを見て、覚悟を決めた。


ドアへ体を沈める。

水の膜をくぐるような、あるいは氷の霧の中を歩くような不快な感触。

次の瞬間、僕は部屋の中にいた。


「……ただいま」


誰もいない暗闇に向かって、あきほが呟く。

「お帰り」という返事が返ってこないと知り尽くしている、諦めの滲んだ声だった。


部屋の空気は、死んでいた。


かつてこの部屋に満ちていた、洗いたてのカーテンの匂いや、出汁の香り。

二人が生きて生活していた証拠である「体温」が、ごっそりと抜け落ちている。


代わりに鼻を突いたのは、線香の灰の匂いと、よどんだアルコールの臭気。

まるで、ここだけ時間が腐ってしまったかのようだ。


あきほは電気もつけず、靴を脱ぎ捨ててリビングへ入っていく。

僕は暗闇に目を凝らしながら、その後を追った。


家具の配置は変わっていない。

僕たちがイケアで言い争いながら選んだソファも、少し脚がグラつくローテーブルも、そのままだ。


ただ、一つだけ決定的に異質なものがあった。


部屋の隅。

かつて僕が趣味のレコードプレーヤーを置いていた一角が、小さな祭壇に変えられていた。


白い花。

線香立て。

そして、黒いリボンが掛けられた額縁。


写真の中の僕は、自分に明日が来ないことなど微塵も疑わない顔で、馬鹿みたいにピースサインをして笑っていた。


「……死んだのか、本当に」


自分の遺影と対峙して、ようやく実感が遅れてやってきた。

心臓が止まった日。

その事実が、鋭利な刃物となって胸の奥を抉る。


僕はもう、この部屋の住人ではない。

あきほの隣で笑う権利を失った、ただの異物。


その絶望的な認識が、幽霊である僕の足を、鉛のように重くさせた。


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