第4話 ネオンの檻、拒絶の刃
僕は、自分の死を突きつけられた直後に、最愛の女が他の男とホテルへ向かう背中を見ることになった。
これ以上の地獄が、果たしてあるのだろうか。
男とあきほは、駅前のタクシー乗り場には向かわなかった。
濡れたアスファルトに、毒々しいピンクや紫のネオンが反射する。
欲望と惰性だけで構成された、安っぽいホテル街。
「あきほちゃん、少し休もうか。酔い冷ましにさ」
男が耳元で囁く。
粘着質なその声が、僕の鼓膜ではなく、脳神経を直接逆撫でする。
あきほの腰に回された手が、爬虫類のように背中を這い回っていた。
やめろ。
その肌は、僕のものだ。
その匂いも、その体温も、全部僕が守ってきたものだ。
『触るな……殺すぞ、離れろ!』
僕は罵声を浴びせ続ける。
けれど、亡霊の咆哮は夜気に溶け、白い呼気にもならずに消えていく。
あきほは抵抗しない。
されるがままに、糸が切れたマリオネットのように歩いている。
その瞳は、ネオンの光を映しているだけで、どこも見ていなかった。
二人がホテルの入り口に差し掛かる。
自動ドアがウィーンと無機質な音を立てて開く。
その奥に広がる、薄暗いロビーの生温かい空気。
男が強引に彼女の肩を抱き寄せ、境界線を越えようとした――その時だった。
「……無理」
雑踏のノイズにかき消されそうな、小さな声。
けれど、そこには明確な拒絶の響きがあった。
あきほの足が、敷居のタイル手前で縫い付けられたように止まる。
「ん? どうしたの?」
「ごめん、やっぱ無理。……吐き気がする」
彼女は男の手を振りほどいた。
その勢いでよろめき、コンクリートの壁に手をつく。
「吐き気」という言葉は、比喩ではなく本音に聞こえた。
「はあ? ふざけんなよ。散々高い酒飲ませてやったのに」
男の声色が豹変する。
猫なで声が消え、暴力的な苛立ちが露わになる。
「金なら払うから」
あきほはバッグを乱暴にまさぐり、しわくちゃの一万円札を数枚掴み出すと、男の胸に押し付けた。
「これでいいでしょ。もう二度と話しかけないで」
「おい、待てよ!」
男が腕を伸ばすより一瞬早く、あきほは踵を返した。
ヒールが悲鳴を上げそうな速度で、彼女は逃げ出した。
一度も振り返らない。
まるで、汚らわしいものから全力で距離を取るように。
男は地面に散らばった札を拾いながら、「なんだあの女、陰気くせえ」と唾を吐き捨て、ホテルの奥へと消えていった。
残された僕は、安堵でその場に崩れ落ちそうになった。
守れたわけじゃない。
彼女が自分で踏みとどまっただけだ。
それでも、最悪の結末だけは回避された。
『あきほ!』
僕は慌てて彼女を追いかけた。
大通りに出た彼女は、震える手でタクシーを止める。
「……西新宿の交差点まで」
運転手に告げる声は、嗚咽を堪えるように震えていた。
彼女が後部座席に乗り込む。
僕も滑り込むように、その隣に座った。
シートに深く沈み込んだ彼女は、膝を抱え、小さく身を縮めていた。
さっきまでの攻撃的な虚勢は、もう欠片も残っていない。
街灯の光が流れるたび、その横顔に浮かぶのは、迷子の子供のような心細さだけだった。
『怖かったね。よく逃げたね』
僕は彼女の隣で、何度もそう語りかけた。
届かないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
車内には、タイヤが路面を噛む音だけが、寂しく響いていた。




