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僕の心臓が止まった日  作者: 秋山 冬夏


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3/11

第3話 幽霊の指先

――スカッ。


手に伝わるはずの、粗い生地の感触がなかった。

僕の右手は、あきほの肩を、その下にある温かいはずの肉体を、何の抵抗もなくすり抜けてしまった。


「……え?」


勢い余って、僕は路上によろめいた。


自分の手を見る。

透けてはいない。血管も、指紋もある。

生きていた頃と何も変わらない手だ。


恐る恐る、もう一度手を伸ばす。

今度は男の腕を掴もうとする。

 

やはり、掴めない。

まるで陽炎かげろうに触れているように、僕の手は男の体を通過する。

男は眉一つ動かさない。


あきほも、男も、僕の存在になど微塵も気づいていない。

目の前で僕が手を振り回しても、叫んでも、瞬きひとつしない。


僕は、この世界の解像度から外れてしまっている。


「ねえ、なんか今、冷たい風吹かなかった?」


あきほが身震いをして、コートの襟を合わせた。


「そう? ビルの風だろ。早く行こうか、温めてあげるから」


男がいやらしい手つきで彼女の背中を撫でる。

あきほは一瞬だけ、虚ろな目で宙を見つめた。

僕が立っている場所を。


「……気のせいか」


彼女は小さく呟き、男に促されて歩き出す。

僕はその場に縫い付けられたように動けなかった。


理解したくなかった。

けれど、事実はあまりにも冷徹に、僕の前に突きつけられていた。


半袖なのに寒くない体。

触れられない恋人。

季節外れの景色。

そして、変わり果ててしまった彼女。


僕は、あの病院で死んだのだ。

そして季節が変わるほどの時間が過ぎ、彼女は僕を失った悲しみで壊れてしまったのだ。


『待ってくれ……』


遠ざかる背中に、声を絞り出す。

涙声になっても、もう彼女には届かない。


『置いていかないでくれ、あきほ……僕はここにいるんだ……!』


雑踏の中、彼女の背中だけが、鮮明な痛みとして僕の目に焼き付いていた。


守りたかった。

一生一緒にいると誓った。

その約束を果たせないまま亡霊となった僕は、ただ彼女の後を追うことしかできなかった。


凍てついた冬の夜空に、誰にも聞こえない慟哭が吸い込まれていく。

僕の心臓が止まった日は、今日だったのかもしれない。


そう思えるほどの絶望が、そこにあった。


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