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にせもの  作者: 他力本願寺
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その五

 教室に突入寸前だった分隊の四名が、一斉に視線と一体化した銃口を悲鳴が聞こえた方向に向ける。まだ悲鳴の主の姿は見えない。おそらく廊下の先の曲がり角の奥にいるのだろう。

 

 玉木1曹は上原3曹に後方、つまり悲鳴が聞こえたのとは逆方向を警戒させると、少しだけ現在位置で待機する決心をした。罠かもしれないからだ。おそらくは民間人なのだろうが、それに見せかけて我々を待ち構えているかもしれない。

 

 足音が聞こえてきた。鈍い音で、走っている足音。おそらく裸足だ。分隊の緊張感が増す。身元の保証がない足音が更に大きくなる。


「責任は俺がとる。訓練通りいこうや」


 玉木1曹が分隊に声を掛ける。命令や指示ではない。気遣いの声掛けだ。敵だと思って民間人を撃ってしまった場合のことを言っているのだ。

 

 人は、人を殺すことを躊躇う。何故なら生命は尊いものだからだ。ゲームや映画や小説の中の話とは違って取り返しがつかないことだからだ。人は死んだら終わり。人はリスポーンしないし異世界に転生しない。ただただそれで終わり。その終わりを他者に強制的に与える。それに対しての恐怖を人は皆持っている。

 自衛官は任務によっては人を殺すかもしれない。だが、誤って罪の無い人を殺してしまったら。想像するだに恐ろしい。

 

 

 そして、阿河は今躊躇っていた。しかし人を殺すかどうかではない。その前の段階、つまり角を曲がって姿を現し、迷いなくこちらに走ってくる足音の主を見て敵か民間人か判断しかねていた。

 

 痩せた若い女性だった。20代前半だろうか。身長は、171cmの阿河よりやや小さいくらい。赤いセーターにジーンズ、裸足という出で立ち。FかGカップであろう大きな胸を揺らしながらこちらに向かって走ってくる。

 阿河は女性に対して違和感を覚えたが、その正体はまだ自分でもわからない。何かがおかしい気がするが、状況がそもそもおかしいからそう感じているだけなのか。阿河の違和感に構わず女性は、たすけてと叫びながらこちらに向かって走ってくる。阿河達との距離は50mほどしかない。


「止まってください!」


 玉木1曹が大きな声で呼び掛ける。女性はそれを無視しているのか認識できていないのか、更に近づいてくる。距離は30mほどになり、玉木1曹が大きく息を吸う。


「止まれ!!」


 これまで聞いた人間の声の中で、文句なく一番大きな声量で玉木1曹が叫ぶ。これで止まらなかったら、対処しなければならない。武器を隠し持っているかもしれないからだ。そう思いながら89のグリップを握り直したとき、女性は立ち止まった。阿河たちとの距離は10mほどになっていた。

 

 深呼吸した後、玉木1曹が優しい声に切り替えて呼び掛ける。


「お怪我はありませんか?」


「たすけて!」


 会話が成り立たない。相当なパニック状態なのだろう。その後も、中学生が初めて考えたコントのような状況が続く。


「お名前は?」


「たすけて!」


「他にどなたかいますか?」


「たすけて!」


「ここで何があったのですか?」


「たすけて!」


「落ち着いて。我々はあなたの味方です。私の質問に答えてくれませんか?」


「たすけて!」


 会話にならない会話を聞きつつ、阿河はもう一度女性を観察した。冬の朝暗さで気づいていなかったことに気づいて、鳥肌を立たせる。先ほど覚えた違和感の正体に。セーターが濡れている。あれは赤いセーターが濡れたものではない。あれは元々は白とか別の色のセーターだ。あぁ、あれはたぶん血だ。返り血とかいうレベルではない、大量の血を吸ったせいで真っ赤になったセーターだ。

 

 玉木1曹にすぐ報告しようと思った。が、できなかった。大きな違和感がまた頭に出現してそれに邪魔され報告できなかった。

 

 あのセーターの血を見る限り、彼女の身にはとても凄惨なことが起こったのだろう。精神的なショックは大きいのは理解できる。だがパニック状態に陥っていたとしても、ここまで会話が成立しないものなのか?受け答えが微妙にずれてる程度ではない。全く成立していない。それには何かパニック以外の、別の理由があるんじゃないのか?


 そして。上手く言葉にできない。だがまだ引っかかる。一番引っかかる一番大きなものが残っている。自衛官として、レンジャー隊員として、部隊格闘指導官として、そして人としての勘が訴えている。この女はおかしい。それは間違いないはずだ。何かがおかしい。重大な何かが。何がおかしい。手袋の中が蒸れてきた。くそ、背中がかゆいが防弾チョッキでかけないのがうざい。でも考えろ。観察して考えろ。俺ならわかるはずだ。異常者は異常なことをするから異常者なのだ。であるならば、その兆候は必ず現れる。ナイフを隠し持つために真夏でも上着を着るといったような。あるはずだ。その兆候が。




 頭に昔のアニメ映画がよぎった。子供のときよく観た映画だ。今でも人気で、たまにテレビでも放送される。なんでこんなときに。一拍置いて気づく。なんでこのアニメ映画が今、頭をよぎったか。とあることで話題になったからだ。とあるミスで。そしてそれこそが、この女に感じている最大の違和感の正体。




 

 作画ミス。





 この現実を受け入れるのは本来、時間がかかるのだろう。ありえない。マジか。この広い世間にはそういう人もいるのか?わからない。しかし今はそんなことはどうでもよくて、隣にいる玉木1曹を横目に見ながら声を掛けた。


「玉木さん」


「どうした?」





「あの女、両方右手じゃないですか?」





 ちらっと見た玉木1曹の横顔は、何を言っているんだと言っていた。だが0.5秒程度が経過すると、その横顔が意味するものは驚愕へと変わっていた。本田2曹の目が険しくなり、後方を警戒していた上原3曹も一時的に振り返ったあと、あ、という呟きを口から漏らす。右手は普通だった。だが、左手も右手だった。


 

 玉木1曹が、声量こそ小さいものの威圧感ある声で女に話し掛ける。



「お前、何者だ?」



 女が白目を剥き、髪が勢いよく抜ける。髪が抜け切った頭の毛穴から紫色の体液が流れ始めると同時に、女の大きな胸が蠢き始め、セーターを突き破って胸からもう一本手が生えてくる。生えてきた手にはめちゃくちゃな方向に曲がっている指が10本ほどあり、掌にはまばらに歯が生えた口があった。

 

 

 人だったものがこちらに向かって歩き始め、掌の口が言った。



「なかぁまにぃなろぅ」


 

 人は、人を殺すことを躊躇う。では相手が人じゃなかったら。見たこともない怪物だったら、人はどうするのだろう。




 少なくとも阿河は、呼吸するかのような無意識かつ自然な動作で、慣れ親しんできた道具の安全装置を解除した。





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