悪役女王に転生したので断罪回避のために弟に嫌われようとしたけれど、失敗しました
「アンネリセ。今日からおまえの弟になる、エルベルトだ。……彼の母親には昔、世話になっていた。これからは姉として、エルベルトを慈しむように」
父である国王は尊大な態度でアンネリセに言って、「おまえの姉になる、アンネリセだ。ご挨拶なさい」と柔らかい声で少年に呼びかけた。
金色の髪はぐしゃぐしゃで、深い青色の目はどこかぼんやりとしている。王城に来る前に体を洗って上質な衣服を着せられたのだろうが、それでもどこか薄汚れた感じがしているし表情が死んでいる。
エルベルト、と呼ばれた少年は何も言わず、ぼうっとアンネリセを見ている。だが国王は「緊張しているのだな」と笑顔で言って、彼の肩を親しげに叩いた。
……そんな目の前の光景に、王女アンネリセは呆然としていた。
(エルベルト? わたくしの、弟? ……あ)
ぱちん、と頭の奥で何かがはじけたような感覚がした。まるで、静電気が発生したときのようで――
(え? 静電気って、何? いや、待って。わたくし……私、は……?)
「まずは、ゆっくり休むとよい。それからアンネリセ、エルベルトの指導を……お、おい、どうした、アンネリセ。アンネリセ!?」
いつもアンネリセに対して素っ気ない父が、珍しくも慌てた声を上げている。
目の前がぐるんぐるんする感覚に襲われて意識を飛ばしながら、アンネリセは思った。
(ここは……もしかして、『聖印の王』の世界!?)
「私」はかつて、日本という国で暮らしていた。
雑居ビルが建ち並ぶ場所に職場があり、自宅のアパートと職場を行き来する日々。事務員としての仕事はものすごく辛いわけではないけれど、胸躍るような経験をすることもない。
そんな私はある日古本屋で、『聖印の王』という小説を見つけた。金髪碧眼のイケメンが表紙を飾るその本がちょうど半額セール対象商品になっていたので購入して、寝る前に読んでみることにした。
虐げられていた不遇の王子・エルベルトが再起し、心強い仲間と共に悪を打ち倒すという王道ストーリー。キャラクターは敵だろうと味方だろうとバンバン死ぬし理不尽なイベントも多く、わくわくするというより主人公たちの境遇に胸を痛めっぱなしの展開続きだった。
最後には悪の女王を討ち取りエンディングを迎えたけれど、その女王にも悪に染まらざるを得なかったというエピソードがあり、憎みきることができない。
正義とは一言で語れるものでない、ということがよく分かる物語だった。
……そしてどういうことか、私はこの『聖印の王』の世界にいた。
私には、トレース王国アンネリセ王女として生きた十九年間の記憶がばっちり残っている。でも今はそこに、別の世界、別の人間として二十数年間生きた記憶もあった。
……だから、分かってしまった。
「私、エルベルトをいじめて最後には討ち取られる、悪の女王じゃん!」
うわぁ、とベッドに突っ伏して思いっきり叫ぶ。人払いをしているから、多少変な行動をしようと見とがめられることはない。
今朝、私は父である国王に呼び出された。私の父親でありながらいつも素っ気ない父が私と朝食を共にしたがった時点で、おかしいと思っていた。
そうして会話ゼロの朝食を終えた直後、国王は貧相な少年を「弟」として私に紹介した。そこで私は頭の中がパーンとはじけて気絶し、部屋に運ばれたようだ。
アンネリセ・トレースは、小説『聖印の王』における悪役で、ラスボスだ。主人公であるエルベルトの血のつながりのない姉で、いきなり国王の養子となったエルベルトを執拗にいじめてくる。国王はエルベルトをかばったがそんな王もアンネリセによって殺され、王位を簒奪される。
女王となった姉に殺されそうになったエルベルトは命からがら逃げ出して、復讐を胸に各地を放浪する。彼は頼りになる仲間たちを得て、悪政を敷いていたアンネリセを討ち取って国王になって、めでたしめでたし……というストーリーだ。
つまり、このままだと私はエルベルトに殺される! それも、国民たちの「女王を殺せ!」コールの中、エルベルトの剣の一閃によりスパーンと首を落とされて死ぬ!
「嫌だ嫌だ嫌だ! 主人公にスパーンと首を落とされるとか、絶対に嫌だ!」
ふっかふかの毛布に拳を打ち付けて嘆いていたけれど……ん? 待ってよ?
エルベルトが悪の女王アンネリセを討つのは、彼女にいじめられていたし女王として失格だったから。
……だったら、さっさとエルベルトに王位を渡してしまったらいいんじゃないの?
……ということで。
「こんばんは、国王陛下。王位、わたくしに譲ってくださいな」
「……何を言っている、アンネリセ」
夜のとばりが下りた、国王の寝室にて。
私がナイフを片手に微笑んで言うと、ベッドから上半身を起こしていた国王がしゃがれ声で唸った。
エルベルトが王になるためには、まずこいつを排除しなければならない。ということで私は寝込みを襲い、交渉を持ちかけることにした。
……これまでのアンネリセは、自分を見てくれない父王に苛立ち、憎み……それでいて愛していた。いつかわたくしを見てくれるはず、と願っていた。
でも、そんな日は絶対に来ない。
来ないと、私は知っている。
「あなたには、隠したい秘密があるでしょう。それを暴露されたくなければ、すぐにわたくしに王位をお譲りなさい」
最初は苦々しげな表情をしていた国王だけれど、やがて薄い笑みを浮かべた。
「……私の秘密、とな。それで、弱みを握ったつもりか? おまえは知らぬだろうが、私はおまえの出生の――」
「知っています。……私は、お母様と愛人との間に生まれた子。私の体には王家の血は一滴も流れていない」
「……。ふん、気づいていたか。だがそれを明かせばおまえは――」
「それから。……あなたが養子としたエルベルトは、ただの『恩人の子』ではない。あなたと『恩人』である聖女との間に生まれた、不義の子。……そうでしょう?」
私が静かに言うと、国王は息を呑んだ。父親が取り乱した姿を、私は初めて見た。
……そう、エルベルトはただの「恩人の子」ではなくて、国王の実子。これは、『聖印の王』終盤で明かされる真実だ。
父を殺して女王となったアンネリセだけれど、彼女は王妃が愛人との間に産んだ子。逆にエルベルトは、国王と聖女の間に生まれた子。
国王はずっと、実子のエルベルトを王にしたがっていた。でも私の母である王妃が存命の間はエルベルトを引き取ることができず――去年お母様が亡くなり喪が明けてすぐ、エルベルトを養子にした。
国王にとって、アンネリセは不要どころか邪魔者になった。既にアンネリセを王太子として指名しているので、アンネリセが死ななければエルベルトを国王にすることができない。だから彼は小説で何度もアンネリセのもとに刺客を送ったけれど、逆に彼女によって殺されてしまう。
エルベルトは自分や姉の出生の秘密を、物語終盤に国王が遺した手紙で知る。そこで読者も、なぜアンネリセが父親殺しをしたのかを知ることになる。物語でのアンネリセは、最後まで母の不貞を知らなかったけれど。
私はナイフを手にしたまま、言葉を続けた。
「でも、それも全てはあなたのせいだ。あなた――おまえは、お母様よりも先に不貞を働いた。純潔でなければならない聖女に手を出しただけでも大罪なのに……エルベルトの出生を隠すために、彼の年齢をさば読んだ。……あの子は本当は十八歳ではなくて、二十歳でしょう?」
「……」
「自分が先に不貞を働いたのを隠すためにエルベルトの年齢をごまかし……彼だけを我が子にするために、お母様のところに愛人を仕向けたのでしょう」
そう、王妃の不貞も全ては国王のせいだ。
こいつが自分の不貞を隠しつつ聖女だけを愛するために、お母様の閨に自分と髪と目の色が同じ男を潜り込ませた。夫から愛されていないお母様はその男に心を開き――私が生まれた。
お母様はずっと、罪悪感と戦っていた。愛人がどうなったのかは知らないけれど……お母様は私が不義の子であることを隠すため、必死になっていた。
それもこれも、こいつのせいだ。お母様がいつも悲しそうに私を見ていたのも、心を病んで死んだのも、小説でのアンネリセがゆがんでいたのも……全て。
じり、と国王が動く気配がしたので、薄く笑ってやる。
「……私もあなたも、爆弾を抱えている。お優しい国王陛下としてその生涯を終えたいのなら……今すぐ、王位をわたくしに譲りなさい」
「……。……エルベルトを、どうするつもりだ」
あきれた。こんな状況でも一番に気にするのは、最愛の女性が産んだ息子のことなのね。
私の中でほんの少しだけ残っていた、アンネリセの父を思慕する気持ちがしゅんっと消えていった。
「ご安心を。わたくしが姉として、とーっても可愛がって差し上げるから」
「貴様っ……!」
「あら、いいの? ここでわたくしを殺して……もしかすると、おまえの秘密がばらまかれるかもしれないわよ?」
これは、半分は賭けだ。小説の内容を知っているにしても程度はあるし、脅せる材料が無限にあるわけではない。
……でも、「こいつはもしかしたら、もっととんでもない情報を持っているかもしれない」と思わせるだけでも意味がある。
案の定、国王はぐうっと唸った後に沈黙し――そして、ゆっくりとうなずいたのだった。
かくして国王は表面上とても平和的に退位し、私は表面上とても平和的に女王として即位することになり、ひとまず私は若い宰相を補佐として任命して政治は彼に任せることにした。
……そして。
「……ご、きげんよう、姉上――」
「無礼者。わたくしは今日、女王になった。わたくしのことは陛下、と呼べ」
「……」
「よいな、エルベルト!」
「……かしこ、まりました。陛下……」
廊下ですれ違ったエルベルトに一喝して、しゅんっとなった彼に向かって尊大に鼻を鳴らしてやる。そうしてドレスの裾を翻しながら通り過ぎると、後ろの方で「エルベルト殿下、大丈夫ですか?」と側近が彼を慰める声が聞こえてきた。
……うんうん、いい感じだ!
私は今、「エルベルトにやんわり嫌われようキャンペーン」を実施している。企画・私、参加者・私である。
私の最終目標は、エルベルトを国王にすること。でも彼は王家の人間ではない……ということになっている。
そんな彼が王になるには、「王位継承権を持つ人間が他にいないこと」と「エルベルトが王として認められるだけの才覚を持っていること」の二つが必要だ。
小説でもエルベルトは悪の女王であるアンネリセを倒して国民の支持を得て、国王になる。その際、新たな王朝を立てて自分がその初代国王となることでトレース王国を生まれ変わらせるのだ。
だから私のことを「この女が王だとろくなことにならない」と皆に思わせて、立派に成長して国民の信頼を得たエルベルトに嫌われることで、私に退位を迫らせる。
よほどの暗君でなければエルベルトも恩情を掛けるだろうから、退位後の私に蟄居命令を出してくれるはず。……もしだめだったらなりふり構わず命乞いでもする。
そうして私はまったり隠居生活を送ることができて、二つの条件を満たしたエルベルトが国王として即位できるはずだ。
『聖印の王』とはかなりストーリーが変わるけれど、あれはとにかく死者が出すぎるし「ストーリー上仕方ないけれど、ぶっちゃけ無駄なイベント」も多かった。でも私がマイルド弟いじめをするだけでやんわりエルベルトに嫌われる程度だったら、死者が出ることもない。
ただ今のエルベルトはまだ、王城に来て日が浅い。マナーも知識も不十分で味方も少ない今の彼を、王にすることはできない。まだ、王女として生きてきた年数だけは長い私の方がましだと思われるくらいだ。
だから彼が王として成長するまでの間、私は「つなぎ」の女王になる。彼が王としての器を備えることで、私みたいなぽんこつ女よりエルベルトの方がずっと王にふさわしい、と皆に思わせる。そうして……首スパーンなどではない、やんわりとした方法で彼に王位を譲り、隠居生活を送る。
ということで私は政治は宰相にぶん投げ、キャンペーンという名のエルベルトいじめをすることに精を出していた。
「おや、まだナイフの一つもまともに持てないのか?」
「ほーら、おまえにはわたくしの食べ残しの処理係がお似合いだ」
「ああ、すまないな。おまえの頭に大きな虫がいたからつい、叩いてしまった」
「ああ嫌だ。わたくしの弟が、こんな貧相な体だなんて。さすが、泥臭い平民育ちだこと」
おほほ、と笑いながらいじめる私を、エルベルトは静かに見つめていた。
今の彼は身長は私よりほんのちょっと高い程度で、体もガリガリに痩せている。磨けばかなりのものになり最終的には『聖印の王』表紙イラストのような美形になるのだけど、今の彼は実際には私より年上の成人男性だとは思えないくらい貧弱だった。
だから私が理不尽にいじめた後は、宰相たちにその分のフォローをさせる。また私は宰相に命じて、エルベルトに側近を付けさせた。いずれ王となるエルベルトを支えるにふさわしい、優れた人柄の者たちばかりだ。
彼らによってエルベルトのテーブルマナーを鍛えさせ、おいしい食事をたくさん食べさせ、寝床をふかふかにして、香水や男性用化粧品などの使い方も教え、女性の扱い方も習得させる。
宰相は、「私たち経由にせずとも、ご自身でなさればいいのに」とブツブツ言いつつも私の命令に従い、エルベルトのサポートをしてくれた。これでエルベルトは宰相を信頼するし、側近たちとの絆も深まって後の彼の治世をよく支える忠臣になるはず!
そういうことでちまちまとした嫌がらせをしつつもエルベルトの成長を綿密に計画してサポートを入れさせることを続けて、しばらく。
「……なんだか、あまり手応えがない?」
キャンペーンの計画書を書きながら、あれ? と私は首をひねった。
エルベルトをいじめるようになってしばらく経つけれど、彼の反応はものすごく薄かった。
元々無口な人間ではあるけれどそれにしても口答えをしないし、私のむちゃくちゃな命令を素直に受けるし、帝王学や剣術などをとても真面目に受けているし……。
エルベルトだけではない。私の魔の手からエルベルトを守るべき側近たちでさえ、「エルベルト殿下から、陛下に」と笑顔で贈り物を持ってきたりする。
なおエルベルトの贈り物センスは抜群で、小物も菓子も装飾品も全て、私の好みにぴったりだった。エルベルトや側近の前では「このようなものをわたくしに送りつけて、ご機嫌取りか?」と理不尽にキレたけれど、彼からもらったものは全部大切に使い、食べ、保管している。だってせっかくの弟からのプレゼントだし。
ということで、いくら私がいじめてもエルベルトたちはこれといった反応を見せない。それどころか、「エルベルト殿下は、陛下のことを大切に思ってらっしゃるようです」という噂も流れるくらい。
こ、これはいかん!
なぜならエルベルトに嫌われなかったら、私が退位できないからだ!
私はエルベルトにやんわり嫌われ、国民からもやんわり嫌がられた末にやんわりと退位を迫られる予定だ。エルベルトに殺されて王位を簒奪される道を避ける以上、そうしないと私は生きたまま女王の座から降りることができない。
それなのにこのままだと私は退位することを許されずずっと女王の位にいて、ウキウキ隠居生活を送れないんじゃない?
いや、無理無理無理。今だって政治は宰相に丸投げ状態なのに、女王としてやっていけるはずがない。「無能女王」として認識されたいのだけれど、宰相はそこまでの細かい調節はしてくれないようだ。
……これは、どうにかしないといけない。
席を立って、ガウンを羽織る。
「女王陛下、どちらへ?」
「エルベルトをからかいに行ってくる」
部屋付きのメイドに問われたので尊大に答えると、メイドは「あらまあ」と言いたげに微笑んだ。
そこは止めるべきなのでは、と思いつつ廊下に出て、エルベルトを探す。
今の時間なら、訓練場で剣を振るっているはずだ。彼にみっちみちのスケジュールを詰めさせたのは私だから、一日の予定もちゃんと分かっていた。
エルベルトはちゃんと、訓練場にいた。シャツを脱いで上半身裸になり、真剣な様子で木刀を振っている。
彼の指導をしていた騎士が私に気づき、こちらを見て一礼した。エルベルトもまた剣を下ろし、私に向かって頭を下げる。
「ごきげんよう、陛下」
うんうん、挨拶もなめらかに言えるようになったね。よしよし。
……おや、前に見たときよりも筋肉が付いているみたいだ。ボディビルダーにはほど遠いけれど、城に来た当初は肋骨が浮くほど痩せていたのに今ではほどよく肉が付いている。
彼にはこれでもかというほど料理を食べさせているから、体重も増えたようだ。よきかなよきかな。
私は扇を広げ、それで口元を覆った。
「……ふん。ああ、むさ苦しい場所だこと。おまえはよくこんな場所でいられるな。さすが泥まみれの王弟殿下、といったところか」
別にそこまで臭くないしむしろ汗を流すエルベルトは爽やかだけど、わざとそう言った。
案の定騎士は顔をしかめたけれどエルベルトがさっと腕を伸ばして彼を制し、恭しく頭を垂れた。
「これは、失礼しました。すぐに湯を浴び身なりを整えて参ります」
「馬鹿者! おまえには夕方までここで鍛錬をしろと言っただろう! さては、訓練をサボる言い訳だな?」
自分でも理不尽だと分かっていつつ罵声を浴びせると、エルベルトはきょとんとした後に表情を引き締め、うなずいた。
「……陛下のおっしゃるとおりでした。訓練の手を抜くつもりは、一切ございません。陛下のお目汚しをして大変申し訳ありませんが、このまま鍛錬を続けさせていただきます」
「……お、おう」
あ、つい変な声を上げてしまった。
どう考えても私の言い分は筋が通っていないのだから、もっと嫌そうな顔をするとか理路整然と言い返すとかすればいいのに……。
変なところで真面目というか……むしろこの主人公、超が付くほど鈍感なの?
思わずしげしげとエルベルトの顔を見ていると、彼は気まずそうに視線をそらした。おっ、にらめっこは私の勝ちだ。
「……その、陛下。あまりそのようにじっと見ないでいただきたいです」
「ん、何だその態度は。おまえはわたくしの弟、つまり優秀な下僕だ。ご主人様が下僕の様子を見るのは当然のことだろう」
ハイ出た、アンネリセの理不尽な文句! さすがに周りの騎士たちもざわざわしている。
でもエルベルトはしばらくの間口元を手で覆ってから、小さく笑った。
「……なんだ? 下僕の分際で、文句でもあるのか?」
「……陛下は、うら若くてお美しい可憐な女性です。姉といえどそのような麗しい方に体を見つめられたら……私も恥ずかしくなってしまうのです」
「……」
……。
……ええと。今、この男はなんと言った?
私が、うら若くてお美しい? 可憐で麗しい?
……あ、だ、だめだ。
前世でもこんな褒め言葉を言われたことがなかったから耐性がなくて、顔が、熱く――!
「なっ、何を言っているっ、この無礼者が!」
「申し訳ありません。つい、正直な気持ちを……」
「ばっ、もう黙れ!」
これはいかん、と逆ギレした私は撤退しようときびすを返したけれど……長いドレスの裾を踏んづけてしまい、がくっと体が揺れた。
「きゃっ……」
「姉上!」
地面にぶつかる! と反射的に両手を突っ張ったけれど、私の手のひらがゴツゴツした地面に触れることはなかった。
なぜならがっしりとした腕が私の胸の下に回り、倒れないように抱き寄せてくれたから。
「大丈夫ですか、姉上」
「……え?」
恐る恐る振り返ると……そこにあったのは、心配そうに目を細める美青年のご尊顔が。
まだ、『聖印の王』表紙イラストほどの精悍さはない。でもめきめきと力を付けつつあるエルベルトは上半身裸ということもありすさまじい色気を放っていて……しかもやけに熱っぽい目でこちらを見てくるものだから、脳みそがボーンと爆発するかと思った。
「ひゃっ!? な、何するのよ!?」
「姉上が倒れそうになっていたので、僭越ながら支えさせていただきました。……お怪我
はございませんか?」
「え、ええ、ないわ。ありがと――じゃなくって! 離しなさいっ、この無礼者!」
つい会社員だった前世の癖で礼を言いそうになったけれど今のポジションを思い出し、慌ててエルベルトの裸の胸元をぐいっと押した。
彼は離れたけれど、そっと私の腕を引いて優しく立たせてくれた。何だこの気遣い!
「お、おまえ、わたくしのことをまた姉と呼んだな!」
「失礼しました。つい……」
「つい、とはどういうことだ! まさかおまえ、心の中ではわたくしのことを姉呼ばわりしているのではないか? 王家の血の一滴も流れていない平民の分際で、わたくしと同じ王家に名を連ねた気分でいたのだな!」
なんとかいつもの調子を取り戻してエルベルトを詰るけれど、彼はしばらくの間黙った後に、ふと真剣な顔になった。
……どくん、と心臓が高鳴る。
「私は……俺は、あなたのことを姉だと思ったことは、一度もない」
「……え?」
「あなたはお可愛らしくて、おっちょこちょいで、素直になれない恥ずかしがり屋な女性です。未熟者で卑しい俺のことを鍛えて、よき王弟になるよう指導してくださるあなたのことを……俺は心からお慕い申し上げております」
そう言ったエルベルトは優雅な所作で膝を折り、ぽかんとする私の右手を恭しい仕草で取ってそっと手の甲にキスを落とした。
……周りで騎士たちが、「よかったですね、殿下!」「ようやく陛下に想いを告げられましたね!」と大喜びしているけれど……これは、どういう状況?
なぜ、アンネリセを憎むはずのエルベルトが私の前で跪いて手の甲に敬愛のキスをして――少しとろけたような深い青色の目で、こっちを見上げてくるの?
どうしてそんな、照れたような顔をしているの?
どうして――『聖印の王』終盤で憎しみを込めて「あなたのことを姉だと思ったことは、一度もない」と告げていた台詞を、そんな情熱的にささやくの?
……ええと、ええと。
私が、アンネリセが、悪役らしくするためには――
「……こ、このっ……」
「はい」
「……無礼者ーっ!」
空いている方の手で思いっきり、エルベルトの頬をひっぱたいた。
パン、と乾いた音が、訓練場の空に響いた。
その後も私はちまちまとした嫌がらせを続けたのだけれど、あの訓練場での出来事以降、エルベルトは何かに目覚めたようだ。
これまでは私が嫌がらせをしても黙って受け入れるだけだったのに、「また陛下はそのようなことをおっしゃって」と笑顔で受け止め、「おやめください。陛下の繊細な御手を痛めてしまいます」と私の暴力を止めさせ、「陛下がくださるのでしたら、全てが馳走になります」と私のかじりかけの野菜を嬉しそうに頬張った。やめてくれ。
私が何をやってもエルベルトは悲しんだり怒ったりするどころか、ガンガン好感度が上がっていく。あ、これはやり方を間違えた、と気づいたときには、既に遅し。
いつの間にか王城の者たち皆が、「王弟殿下は女王陛下のことを心からお慕いしてらっしゃる」と評判になっていて、姉弟の禁断の恋だの何だのと話は膨れ上がっていく一方。
そして……ある日、エルベルトが私の部屋に押しかけてきた。彼はどうにかして自分や私の出生の秘密を知り得たらしく、とてもすがすがしい笑顔で私の両手を取った。
「私と陛下に血のつながりがないとはっきり分かって……本当によかったです。もしかすると母親違いの実の姉弟なのかもしれない、と危惧しておりました」
「よかったねぇ」
「ご安心ください。この秘密を国民に喧伝することはございません」
「それはよかったわぁ」
エルベルトにがっしりと手を握られた私は、考えることを放棄していた。
今やエルベルトはすっかり成長して、私ではこの細マッチョから物理的に逃げることができなくなっていた。
「そして……陛下は前々から、ご自身の退位を願われていましたね」
「あー……ええ、そうねぇ」
「陛下は女王であらせられることに重責を感じてらっしゃいました。あなたのお心を痛めるのは私としても本望ではございませんので、私の帝王学教育が終わり次第、陛下には退位をお願いしたく思います」
「あ、ああ、それは非常に助かる。よろしく頼むぞ」
ここはきちんと聞かなければ、と思い私がうんうんうなずくと、なぜかすごくいい笑顔でエルベルトは私の顔をのぞき込んできた。
「そして……私が即位した暁には、あなたを王妃としてお迎えします」
「……。……ん?」
「ご安心を。あなたが退位すること、そしてそんなあなたを私が妃に迎えること……それらを国民に受け入れてもらえるよう、私は努力を惜しみません。そして、結婚した暁には妾妃などを持つことなく王妃一人だけにこの愛を捧げることを誓います」
「…………んんん?」
おかしい、この子は一体どういう方向に話を持って行っているんだ?
女王の退位と国王の即位という、非常に大切な話をしているんじゃなかったのか?
「あ、あの、エルベルト。おまえの話には、ちょっと無理があるような……」
「そうですか? ……ああ、これは失礼しました。先に申し上げるべきことがありましたね」
「そうだろう!」
「……好きです、陛下……いえ、アンネリセ様。どうか私と、結婚してください」
そう言って私の手を離したエルベルトは、どこからともなく立派な花束を出して差し出してきた。
……えええええ!? 申し上げるべきことって、それ? というかその花束、どこから出したの? 手品もできるの!? 私の弟、すごいね!
私の前に跪いたままのエルベルトは、笑顔だ。
『聖印の王』の人物紹介では「あまり感情を顔に表さない、少し冷めた性格」って書かれていた主人公が、頬をほんのり上気させて花束を差し出してきている。
……え、ええと、ええと。
なんて言えば……あ、そうだ!
「……あ、あの、エルベルト」
「はい」
「い、今だから言えるけれど……私、ずっとあなたに意地悪をしていたの。ごめんなさい。これまでのは教育的指導じゃなくて、本当に、あなたの心や体を傷つけるためのいじめで……申し訳、ありませんでした……」
「ああ、やはりそうなのですね。知っておりましたよ?」
「……え?」
知っていた?
自分が姉からいじめられているって、分かっていたの?
「ですが私は同時に、あなたが私をいじめるときにいつも辛そうな顔をされることにも気づいておりました。皆の前では私の贈り物を貶しても、部屋に持って帰ったら大切にしてくださることも。私が王弟として成長できるよう、教師や側近の手配をしてくださったことも。……いずれ私に王位を譲るつもりで、そのために悪人のふりをしていることも」
「……」
ばれていた。
私のキャンペーン、本人にばれていた!
そして、超ポジティブ解釈をして受け入れられていた!
硬直する私を見つめ、立ち上がったエルベルトはぽんっと花束を私に押しつけてから微笑んだ。
「……まだ陛下からの愛と信頼を勝ち得ていないのは、承知しております。ですから……いつかあなたの口からも『好き』と言ってもらえるよう、私はこれからも頑張ります。いずれ王となり、あなたを王妃として迎えられるよう……頑張ります。だから」
「ひぇっ」
「……他の男に浮気をせず、待っていてくださいね?」
身をかがめて私の耳元でそっとささやいてから、エルベルトはきびすを返して部屋を出て行った。
その場に取り残された私は、呆然と腕の中の花束を見下ろした。白やオレンジ、水色といった可愛い色合いの花を集めた、花束。悔しいくらい、私の好みにぴったりだ。
「浮気、って……何よ。何様なのよ……」
口では文句を言うけれど、顔はむちゃくちゃ熱い。心臓は前世の学生時代に体育で千メートルを走らされたときのように、すごい速度で拍動している。
『待っていてくださいね?』
耳元で色っぽくささやかれた声が頭の中によみがえり――うわーっ、と叫びたくなる。
こんなはずじゃ、なかったのにっ!
トレース王国第九代国王アンネリセは即位して三年目、二十二歳の春に退位を発表した。その理由については、「女王としての重責に堪えられなかったから」というものだった。
彼女に代わって即位したのは、アンネリセの弟であるエルベルト。
王家の血を継がない彼だが王弟時代に培った能力とその穏やかな人格は多くの国民からの支持を得ており、アンネリセが退位して王位継承権を持つ者がいなくなった今、彼の即位に反対する者はいなかった。
そして同時に彼は、婚約を発表した。その相手は、今退位したばかりである姉のアンネリセだったが、そのことに驚いた者はごくわずかだった。
王族でないエルベルトが王家の姫を娶ることであるし二人の間には血のつながりがないため倫理的にも問題なく、むしろ「これで王家の血が続いていく!」とものすごく歓迎された。
なお、彼にがっちりと肩を抱かれた元女王アンネリセの表情は死んでいたという。
婚約してからのアンネリセは「婚約破棄させてやる!」と息巻いていたが、そんな婚約者をエルベルトは「いじらしくて放っておけないお姫様」と呼び、キャンキャン吠える元姉を手なずけていた。
婚約から一年後に結婚してからもアンネリセは「離縁したいと言わせてやる!」と息巻いていたが、そんな王妃を国王は「おっちょこちょいで可愛い奥さん」と呼び、逃げる妻を楽しそうに追いかけていた。
そんなトレース王国第十代国王夫妻だったが、彼らは死ぬまでの数十年間を連れ添ったし愛人の一人も持たなかった。
そして王子二人、王女三人の子宝に恵まれたことからも、なんだかんだ言って仲のいい夫婦だったのだろう、ということになったのだった。
Q:「宰相は、こうなることは予想していましたか?」
宰相:「最初から分かっていました」