第九章 聖女の決断(3)
僕の足では、ランディオに教えてもらったポイントに着くまでに、六時間ほどかかった。すでに日は沈みかけていて、夜通し歩くことになるかもしれないと感じた。
秘密の入り口はただの岩肌で、周囲には反乱軍も狂戦士もいなかった。僕は人の気配がないことを確かめてから、どうやって開けるのかを探ろうとしたけれど、その必要はないことを知った。指輪を嵌めた手で岩肌に触れようとしたら、そのまますり抜けたからだ。念のため、指輪を外して裏から岩肌を触ると、なるほど、ただの岩の感触があった。指輪がないと、ほぼ見つからない通路というわけだ。僕は感心した。通路は岩肌をくりぬいたそのままで、地面も土のままだ。明かりは灯っておらず、なだらかな下りのスロープになっていた。
久々の単独での探索に、僕はいつも以上に慎重な足取りで坂を下った。通路は古い苔の匂いがしていて、空気には湿気があった。
鎧がないため無理はできない。僕はそれを肝に銘じてじゃりじゃりと小さな音がする地面を踏みしめた。
坂は何度か折り返しながら深く深くへと降りて行っている。小動物の気配はあったけれど、レインカースの生物をすべて把握しているわけではない僕には正体は分からなかった。
やがてスロープは終わり、やや広い空間に出た。そこには水が溜まっていて、その中央に古い石の橋が架かっていた。橋は空洞の反対側に開いた横穴へと続いている。
僕は地面の小石を一つ拾うと、橋に向かって投げた。小石が石畳を打つ音が空洞に響くと、水面からではなく、頭上から何かの触手のようなものが伸びてきた。
下ではなく上だったか。
僕は複合弓を引き絞り、空洞の天井に張りついたそれを狙った。一見天井から下がったつらら石のように見える体から、無数の触手が伸びている。ローパーだ。見た目通り固い体を持っていて、矢は弾かれるだろう。けれど、ローパーには口や目もあるはずで、そこを狙えれば倒せるはずだ。
地面に低く張り付き、ローパーの様子をうかがう。暗がりに開く目が見えた。僕は瞬時に矢を放った。久々に射た矢は、僕の不安を打ち消すようにローパーの目に深々と刺さった。大きな音を立ててローパーが橋の上に落ちる。ローパーはそれっきり動かなくなった。
僕は弓を腰のうしろにしまうと、剣を抜いてそろそろとローパーに近づいた。僕がすぐそばに近づいてもローパーは動かなかった。僕は奇妙なその生物を聖神鋼の剣で斬り刻んで、水中に沈めた。
水中からは何の生物の反応もなかった。
橋を歩いて渡る。橋の途中にスパイクの罠があったけれど、近くを探ると丁度ランディオから預かった指輪の形のくぼみがあり、そこに指輪を当てて回すと、罠のロックがかかったようだった。
空洞を後にして、通路をさらに進む。地面は土に戻っているけれど、足場は比較的平らだ。あくまで脱出路のため、その辺はしっかり考えられているようだ。
しばらく進むと、縦穴の脇を回り込むように下っている場所に出た。脇から下を覗くと、縦穴は深く続いている。通路はそれを螺旋状に下っているように見えた。
上を見る。天井はなく、薄闇の空が見えた。岩陰に蝙蝠が五匹。種類までは分からない。念のため一匹を弓で射落とすと、残りはキイキイ鳴きながら逃げて行ってしまった。
襲ってこない、ただの蝙蝠だったかとほっとしながら弓を仕舞って進もうとすると。
突然縦穴の下から、轟くような咆哮が聞こえてきた。続いて、ものすごい勢いで炎が吹きあがって来た。僕は慌てて通路を戻り、焼け付く空気をやり過ごした。何かがいる。恐ろしく狂暴な何かが。
縦穴は竜が潜むには狭すぎる。けれどこれだけの炎を出せる何かだ。相当危険な代物が縦穴に潜んでいることは確かだった。
羽音が聞こえる。虫のものではない。縦穴には戻らずに僕は縦穴の様子を伺った。
何かが上がってくる。ゆっくりと羽ばたきながら上がって来たそれは、獅子のような体の生物だった。
けれど、ただの獅子ではなかった。頭は醜悪な人の顔のようで、背には蝙蝠の翼があり、尾は蠍の尾だ。マンティコア。鎧がない状況でまともに戦うのは危険すぎる相手だ。けれどなぜこんな脱出路に。僕は首をひねった。これではだれも出入りできないはずだ。ひょっとすると、長らく使われていないだけでなく、整備されてもいなかったのかもしれない。僕は自分がモンスターの巣窟に飛び込んだことを理解した。つまるところ、可能な限り安全を確保しながら進んでおかなければ、帰りはシーヌの身が危ないということだ。マンティコアをどうするか、僕は困り果てた。
接近戦は牙も爪も尾の毒も致命傷になりうる。遠距離戦は炎を吐いてきて危険。ただ縦穴を螺旋状に回る通路には太い石柱も多く、身を隠しながら戦うことは可能かもしれない。マンティコアの体では、石柱の間を抜けて通路に入ってくることもないだろうと思えた。
それしかない。僕は覚悟を決めると、通路に背負い袋を降ろした。火が付くと危険だからだ。弓やバックラーも木製だけれど、こういったものはある程度の防火加工がしてあるものだから、直接炎を浴びなければ大丈夫だろう。そして燃えやすい布製の服を脱いで皮製の腰巻だけになると、螺旋通路の最初の太い石柱の裏まで、床を這って進んだ。
何とか見つからずに辿り着いて、縦穴を伺う。マンティコアは少しずつ降りて行こうとしていた。
まずは一射目。それはマンティコアの胴体に当たり、マンティコアが大きくぐらついた。
天に向けて、マンティコアが苦し紛れに激しく炎の息を吐きだす。石柱の裏に隠れた僕にも熱気は届いたけれど、ダメージを受けるようなものではなかった。
マンティコアがまた上昇してきて、石柱の向こうで穴の中を見回している。まだ見つかっていないようだ。
「いまいましい」
マンティコアが吐き捨てるのが聞こえた。マンティコアは人語を解し、知能も高い。不用意に攻撃すれば間違いなく見つかるだろう。
当然太い石柱の裏に誰かが隠れているということも想像できる知能がある。床に這いつくばって隠れている僕の上で、左側から、右側からと、探るように長い尾が空を切った。
「どこかにいるはずだ。このどこかに」
つぶやきながらマンティコアは離れて行った。十分に離れたことを確認し、こちらに背を向けたタイミングで、僕は二射目を射た。
それは角度が悪く、当たらなかった。矢はすぐ下の方の石柱の間を抜け、通路に音を立てて転がった。
その音に反応したマンティコアが下へ降りていく。僕はすかさず立て続けに二本の矢を連続でマンティコアの背中に叩き込んだ。
「ガアッ!」
大きく語ら着いたマンティコアが落ちていく。けれどまだ最下層までは落ちて行かないだろうと僕は思った。僕はすぐに石柱の裏から床を這って移動した。そろそろあの石柱の裏は危険だ。
マンティコアから見えるかもしれない状況では動かないように、そろりそろりと進んでいく。
思った通り、僕がさっきまで隠れていた石柱の裏に、マンティコアは何度も執拗に尾を突き立てていた。その間に、僕は次の太い石柱の裏に辿り着くことができた。
今回携行してきた矢は二四本だ。つまり、矢は残り二〇本。そのほかにファイヤーアローが三本あるけれど、これは見つかった時の最後の手段として温存しておきたかった。
マンティコアは、最初の石柱の裏にはもういないと判断したのか、また僕を探し始めた。
また同じように床に這いつくばって離れていくタイミングを待つ。そしてそのタイミングが来たところで、またもう一度矢を射る。それは外れて、マンティコアの頭上超えて向こう側の石柱を鳴らした。
僕はまだ這いつくばって石柱に隠れて。
「そこか」
という声を聞いた。
次の瞬間、激しい羽ばたきが聞こえ、マンティコアがすぐそばの細い石柱に体当たりをする音が響いた。僕は慌てて弓を床に転がす。
剣とバックラーを手にして、起き上がった。
石柱を突き破り、マンティコアは上半身だけ通路に突っ込ませてきた。
ゆがんだ笑みを浮かべた人の口が開く。僕は瞬時に床を転がってマンティコアの顎の下にもぐりこんだ。頭の上を猛烈な炎と熱気が通り抜ける。炎で焼かれるのは免れたけれど、それでも体のあちこちに焼け付くような痛みがあった。服と荷物は外してきて正解だった。もし持っていたらこの時点で全身大やけどを負っていただろう。
気にせず、炎が止まった瞬間に顎の下から剣を突き立てる。痛みに暴れるマンティコアの爪が、僕の鱗を何枚か剥ぎ取り、肉を浅く裂いた。
僕は剣をマンティコアの顎から引き抜き、もう一度突き立てた。
その一撃を僕が引き抜くと、マンティコアは、恐ろしい絶叫を上げて、縦穴の底へ落ちて行った。
そして縦穴のはるか下から、獣の体が床に激突して潰れる不吉な音が届いた。それを最後に縦穴は静かになり、僕はぐったりと床に転がった。
治癒呪文で傷を癒す。その間も、全身がずきずきと痛んだ。今日はもうこれ以上進めないだろうというほど、僕の体は疲れ果て、傷ついていた。
僕は引きつる体に鞭打って、剣とバックラー、弓を拾うと荷物の所に戻り、何度か治癒の魔法を自分に掛けた。そして、これから夜本番で、夜は僕の時間だというのに、荷物の横の壁に背中を預けると、泥のように眠った。