第九章 聖女の決断(2)
ランディオがテントを出て行ってから、まるで針の筵のような空気が満ちていた。僕がシーヌ奪回に赴くことに賛成している空気は誰からも感じられず、本当に大丈夫なのかという不安だけがひしひしと伝わって来た。
「本当に聖宮からシーヌを救出することができると思っているの?」
「実のところ、分からない。見取り図の情報如何では諦めざるを得ないかもしれない」
僕は正直に言った。フェリアが口の中で、
「なら、もう諦めるでいいじゃないですか」
そうぶつくさとつぶやいているのが聞こえる。彼女がシーヌを諦めたいわけではなく、僕のコンディションを心配しているのだということも良く分かるから、僕には苦笑することしかできなかった。
「でも僕はシーヌも救われるべきだと思うんだ。だから、これはもうどうにもならないなという判断が確定しない限り、僕は彼女を助けるよ」
「言われなくても分かってます。シエルだけ残って、私もついて行くって選択肢があればいいのに」
気持ちは分かる。けれど、昨日の戦いだって、二人そろっていても戦死者が大勢出たのだ。どちらか一方が欠けても大丈夫ということは言えない。
僕がそう考えているところへ血相を変えてランディオが戻って来た。
「すこし状況が変わった。意見が聞きたい」
テントに入るなり、彼は言った。何かあったらしい。
「この村から南方のペール平原で、シーヌ様が率いる狂戦士部隊が目撃された。数は二〇騎程と多くはないが、間違いなくシーヌ様が率いていたそうだ。昨日同様泥人形の可能性は否定できないが、現状確認する手段がない。君の意見を聞きたい。我々はどう対応すべきだと思う?」
それでも見取り図は持ってきてくれたようだった。それを抱えながら言う彼の顔には、動くべきなのか、それとも静観すべきなのかの迷いが見て取れた。
「それは十中八九偽物の泥人形だ。接触してこない限り無視したほうがいいだろう。見取り図を見せてほしい」
僕はランディオに答えた。彼は深く思案している顔をしながらも、見取り図をテーブルの上に広げてくれた。
「まず、見取り図を見る前に教えてほしいのだが、なぜそう偽物だと断言したのだね」
「早すぎるんだ。昨日の今日で本物を出せる状態になっているとは考えにくい。それに、泥人形でさえ僕たちとの接触を毛嫌いした奴らが、こんなに分かりやすく僕たちに聖女様を接触させる危険を冒すとも思えない。だから、僕たちが今一番やっちゃいけないことは、たぶん本物か偽物かを疑って、接触を待って静観することだ。それは奴らに時間を与えるだけで、奴らの思うつぼだ。そう考えると、取れる対応は二つだと思う。一つは出てきている聖女様にこちらから接触を取ること。ただ、僕が思うに昨日と同じように泥人形を処分されるだけで、またすぐ次が出てくるだろうから、結局静観と大して変わらない結果になるだろう。いい対応だとは思えない。つまるところ、僕が思うに、潜入されたくないという意図を感じるし、それなら僕はやはり潜入すべきなんだと思う」
「うむ」
ランディオは頷いた。それから彼は少しだけ間をおいてから、
「私と同じ意見か。それを聞いて安心した」
と、もう一度頷いた。
そして、僕たちは見取り図に視線を移した。エレサリアにも一緒に見てもらい、聖宮と離宮のことを僕は聞いた。
「まず、牢獄があるとしたら、本宮のほうだよね」
「ええ。本宮の地下よ」
エレサリアはさすがに雨を降らせているものの手掛かりを求めて、聖宮内の大捜索を行っただけあって、聖宮内のことについては詳しかった。彼女が持っている聖宮施設の知識は、僕にとってとてもありがたかった。
「離宮のほうに、狭い階段があるけれど、これが秘密の通路への入り口かな」
「そう。その隣が聖女の私室になっているわ。これは軍部の一部だけが閲覧可能な防衛資料だから載っているけれど、通常の見取り図では壁として記載されているの」
エレサリアの説明に僕は少し思案した。
「そちらの見取り図は、聖宮長も見ているのかな」
「ええ……そうだけど」
怪訝そうにエレサリアが答える。彼女にはピンとこないようだけれど、僕はおそらく、と考えた。
「とするとたぶん秘密の通路は発見されているな。こんなあからさまな空白、見逃す者がいる方がどうかしている」
僕が唸るように言うと、エレサリアは、
「でも」
と、疑問の声を上げた。
「特殊な鍵がないと開かない仕掛けになっているの」
「そんなもの」
そうれはそうだろう。けれど、それは何の慰めにもならない。少し考えれば分かる話だ。僕は、ため息をつきながら告げた。
「聖女様本人が囚われているんだ。聖女様が持っていないなんてことは考えられない。とっくに身体検査されて取り上げられているよ」
「そんな言い方をしなくても」
エレサリアは少し機嫌を損ねたようにもごもごとつぶやいた。空気は重く、ぎずぎすしている。僕も含めて。
理由は分かっている。皆それだけこの救出が困難なことだと感じているのだ。
「秘密の通路の地図もあるんだね」
エレサリアに反論する代わりに、僕はランディオに話しかけた。僕はテーブルの上に広げられた見取り図の中に、おそらく秘密の通路のものだろう地図を見つけて手元に引き寄せた。
「うむ。これも都防衛部隊である我々のみが持っている情報だ。聖宮長も閲覧権限は持っていない」
ランディオが頷く。
僕はその地図をまじまじと見つめながら思案に耽った。構造は単純で、ちょうど丁字路の構造になっている。丁の字の右と左はそれぞれ本宮と離宮につながっているようだ。丁の字の下方に延びた通路は何か所か小部屋がありはするものの、まっすぐな一本道になっている。そちら側の出口付近はゲートが付いた小さなスペースが左右に並んだ部屋になっているらしい。
「これは厩?」
僕がそのスペースを聞くと、ランディオが、
「うむ」
と頷いた。
通路は複数の小部屋ごとに落とし門がつけられていて、追っ手を阻むのに使うのだろうと思われた。速やかに脱出が図れる構造になっていて、脱出後は馬に乗って少しでも遠くに逃げられるように備えられているということだ。
「兵を配置できる場所が多いね。見つからずに侵入することはまず不可能だろう」
僕は地図を指でなぞった。ランディオとエレサリアは黙って僕を見ている。僕は聖宮側、離宮側の狭い階段を降りてすぐの場所が他より狭いことに気が付いていた。
沈黙が流れる。やはりそうか。僕はもう一度ため息をついた。
「参考になった」
それだけ言うと、僕はランディオに頷いた。僕たちは、敢えて詳細は言わなかった。彼は無言で指輪を貸してくれた。これは口に出していい情報ではないから僕たちは口には出さない。
つまるところこれは見つかってもいい通路で、むしろ“敵に見つけさせる”ための通路だ。もちろん敵に見つかる前に脱出できるのなら、普通に脱出経路としても使われるのだろう。
何故僕がそう気が付いたのかと言えば、その通路には脱出するための設備しかないことだった。生き残るための備えが全くないのだ。
場合によっては通路の中で何日間か隠れていなければ脱出できないこともあるのに、そういう想定が全くされていない。しかも構造的に速やかに逃げることが可能な構造で、裏を返せば敵にもうすでに逃げたと思わせることが可能な構造になっている。おそらく馬も繋がれていないはずだ。ゲートを開ければ走り去れるようになっているのだろう。それも逆に言えば遠隔でゲートを開けることさえできれば馬に乗って逃げたように見せかけることができるということでもある。
おそらく落とし門もこの通路の中だけでなく、遠隔でも開閉できるのではないかと思う。つまり、この通路のほかに、さらにもう一つ隠された通路があるのだろうと、僕は考えたわけだ。そちらには籠城の備えもしてあって、逃げ出してから数日間生き延びられるような物資も備蓄されているはずだ。本宮や離宮の不自然なスペースが隠しきれないなら、いっそのこと見つけさせてしまおうという設計思想だ。
ランディオはレインカースの地図を出すと、そのポイントを教えてくれた。そこは何もない湿地の真ん中で、そばには村すらなかった。見つかってもいい通路の出口からはかなり離れているらしい。
「どういうこと?」
全く状況が呑み込めていないエレサリアだけが、困惑の声を上げていた。ひょっとしたら防衛隊だけが知っていて、聖女自身も知らないことなのかも知れない。
僕の侵入経路は、それで決まった。そちらの秘密の通路の鍵は防衛隊ののみが持っているようで、ランディオが鍵である指輪を貸してくれた。
僕はランディオからさらにバックラーをもらい、レデウを発った。フェリアとシエルはまだ不安げだったけれど、僕が二人に、
「エレサリアたちを頼んだよ」
と告げると、しっかりと頷いてくれた。