第八章 ふたたびのレインカース(2)
シエルの存在もあり、ランディオに陣営への立ち入りを許可された僕たちは、軍の司令部テントにそのまま招かれた。
シエルは市民たちや兵士たちに囲まれながら、しばらく彼等の話を聞くといって、その場に残った。いきなりの都陥落で不安な夜を迎えようとしている彼等を少しでも勇気づけたいと、彼女は言っていた。
その他、ムイムも一時的に別行動を許可した。今度こそ戦力として必要になるはずだと、ラクサシャを連れてくることになっていた。
そのため、ランディオに司令部テントに案内されたのは、僕、エレサリア、フェリアの三人だった。
陣営の規模は大きく、市民が使用しているものも合わせると、テントの数は一〇〇を超えていた。急な襲撃があったにもかかわらず、しかも市民を守りながら、よくこれだけ持ち出せたものだ。おそらく軍の士気と練度が非常に高いのだろう。
「現状、脱出できた兵は二〇〇、市民を合わせると五〇〇の者がこの陣営にいます」
ランディオがエレサリアに状況を説明している。よくそれだけ脱出させられたものだ。大規模戦闘には明るくないので、実際にどれだけ頑張ったと言えるのかは僕には分からなかったけれど、たいしたものだと舌を巻いた。
「夜通しの行軍は市民には危険なため陣を敷きましたが、明日には陣をたたみ、都から二番目に近いレデウの村周辺に本格的な砦を設ける予定です。都から最も近いキウガはあまりにも都から近く、防衛体制を整える前に攻め入られる恐れがあるため避けます。キウガの村民も今後の戦に巻き込まれるおそれがあるため、できるだけの物資を持ってレデウに避難するよう、すでに連絡の兵を走らせています」
「そうなると兵が大幅に足りませんね。半数は休ませねばならぬことを考えると、市民を守り切るだけでも戦力が足りません」
エレサリアが唸った。ラクサシャをムイムが連れてきたとしても、一日中実働させるわけにもいかない。そう考えると四〇の戦力も焼け石に水だ。
それに、レインカースはぬかるんでいるとはいえ、ほとんどが平地だ。敵の足を止めるものがほとんどないことを考えると、非常に危険ではないかという印象を受ける。
「敵の数は?」
僕は聞いてみた。それ次第ではエンタングラたちに来てもらうという選択肢も考えていた。
「正直のところは分かっていない。反乱軍は一〇〇。市街戦だったため侵略軍の正確な数は把握できていないが、おそらく敵兵の数は五〇〇から一〇〇〇だろうと予想している。敵の本陣が見えんため、総戦力はもっと多いはずだ。正直想像もできん」
ランディオはそう教えてくれた。圧倒的な戦力差だ。
「とはいえ、こちらにもまだ、都に残った兵がここにいる兵と同数ほどいる。彼等がひとりでも多く生還することを今は期待するばかりだ」
確かにその戦力を失うのは致命的だ。一人でも多く生還させる必要があるだろう。
「おそらく明日までに脱出できなければ、脱出はできないと考えた方が妥当だろうね。下手に脱出をめざすよりも、逃げ遅れた市民たちと一緒に地下にでも籠城していてもらった方が安全だろう。明日、僕たちも」
都に向かい、脱出に協力しよう、僕が言いかけた時だった。
ゆらり、と僕の頭の上で、フェリアが立ち上がった。
「あ……あれ」
フェリアが戸惑いの声を上げる。
よろよろと蛇行しながら飛び、エレサリアのほうに近づいていく。そして、彼女の武器である針を振り上げて。
「か、体が、いうことを……何、やめて。嫌です、やめて……やめ、なさい!」
落ちた。作戦会議用のテーブルの上に倒れた彼女は、なんとかといった風に自ら針を放り出して、転がった。
「うう……何かが。師匠……ごめんなさい。私を、陣営の外に」
「何が……?」
僕が戸惑っていると。
「私は、半分、インプだから。私より高位な悪魔だと、思います。たぶん、何かが、私のインプを、操ろうと。自分で、止められているうちに。連れ出してください。陣営の、外。危険、です」
フェリアは苦しそうに言った。そういうことか。僕はフェリアを掴むと、陣営から出るために駆け出した。
シエルが注目を集めてくれているおかげで人は少ない。僕は大急ぎで陣営の外に向かって走った。その間もフェリアは苦しそうな声を上げながら、自分の体が勝手に動こうとするのに抗っていた。
テントの先に暗い湿地が広がっているのが見えた。僕はぬかるみの泥を跳ねながら走り、テントから十分に距離をとったところで速度を緩めた。
手の中ではフェリアが荒い息をしながらぐったりしている。意識があるのかないのか、僕が呼び掛けても彼女は反応しなかった。
僕は念のために陣営にはすぐには戻らず、フェリアを両手で支えながら、しばらく湿地を歩くことにした。
頭上には星空が広がっている。僕は歩きながらフェリアの半分が悪魔なのだということを、深く考えていなかったことを反省していた。インプは悪魔族で最下級の存在で、他の悪魔に使役される立場だ。悪魔族はより高位の悪魔からの干渉を受け、支配されやすいという。まれに逆に下位に逆に支配され、力を奪われる悪魔もいるという話も聞くけれど、それはかなりまれな例で、最下級の悪魔の魂しか持たないフェリアは悪魔たちにとって格好の操り人形なのだ。
フェリアは敵に悪魔がいた場合には、今回のように操られてしまうおそれがあることを、僕はしっかり考えていなかった。それは間違いなく僕のミスだった。今回フェリアが支配にあらがえたのは、彼女の精神力と、彼女のフェアリーの魂が、おそらく相手の支配を上回ったからに過ぎない。
フェリアをどうするべきか。
僕は見つからない答えを探しながら、ぬかるみの中を、行先も決めずに歩いた。
しばらくすると、フェリアが僕の手の中で、ぴくりと動いた。それから彼女は上半身だけを起こして、僕の顔を見上げた。
「大丈夫?」
と聞きながら、手の上のフェリアを見下ろして、息をのむ。
彼女の目は不気味に赤く輝いていて、薄い緑色の綺麗な髪と対照的に生えている、歪にねじくれた角がどす黒く変色していた。綺麗な青色の蝶の翅は不吉な紫に染まり、彼女の両手が、角と同じどす黒い殻のようなもので覆われていた。両足もサンドランドで用立てたブーツを破って、両手と同じどす黒い殻が覗いていた。
僕はその不気味な姿に思わず彼女を放り出してしまうところだった。なんとかその衝動をこらえて、彼女にもう一度声を掛ける。
「フェリア? 大丈夫なの?」
「はい、大丈夫です。師匠が思っているより、ちゃんと師匠の弟子のフェリアです。少しだけ、待ってください。馴染むのに、時間がかかりそうなので」
大きく息を吐くと、フェリアは答えた。彼女はゆっくりと僕の手の上に立ち上がった。
「やってやりました。私は支配権争いに勝ちましたよ、師匠。うふふ。ただのインプとは違うってこと、思い知らせてやったんです」
「まさか、取り込んだの?」
僕は呆然と聞いた。フェリアは少し翳のある笑顔を見せると、
「初めてなので、少し練習しますね」
と、僕の質問に答える代わりに言った。
僕は答えられなかった。状況が理解できないので、口の出しようがなく、フェリア本人の意思に任せることにした。
「まず何から試しましょう。いきなりできることいっぱい増えちゃって迷っちゃいます」
フェリアが少し考えこんでから、無造作に片手を振った。見た目には何も起こらない。僕が首をかしげると、フェリアは笑いながら忠告してきた。
「あ、師匠。危ないから動かないでくださいね。すごく危ないです」
それから、フェリアはもう一度片手を振った。やはり見た目は何も起こらない。フェリアは言った。
「もう動いても大丈夫です。次はっと」
何度かそうやってフェリアは楽しそうに何か魔法なのか能力なのかを試していたけれど、どれ一つとして僕に見えるものはなかった。だんだん彼女が幻覚を見ているのではないかと心配になってくる。
「僕には何も起こってないように見えるんだけど」
そう声を掛けると、フェリアはくすくすと笑った。
「見えてたらそのほうが怖いです。穢れた死の霧を発生させれば見えなくもないんですけど、誰かいたら死んじゃうかもしれないからやめときます。それじゃ、最後にひとつ師匠にもみえるやつをやりますね」
フェリアはまた笑うと、両手を突き出して目を閉じた。泥濘から次々と泥の塊が隆起して、不格好な人形のような形をとっていく。それはぎこちなく歩いて、陣営とは別の方向を向いて整列した。マッドゴーレムだ。
「とりあえず三〇体作っときました。たいした強さじゃないですけど、ないよりマシでしょう」
彼女はまた声を上げて笑った。
邪気の含みをもつ笑い声に、僕は顔をしかめた。