第八章 ふたたびのレインカース(1)
僕が部屋から自分の装備を取ってきたころには、フェリアもすでに戻っていた。もっとも、フェリアは僕と違って鎧を着こむ必要がないから、僕より早く支度が済むのは予想ができていた。
「行こう」
僕が告げるのと同時に、ムイムが次元の亀裂を開く。僕たちはそれを抜けてレインカースへ向かった。
レインカースの雨は止んでいた。星明りが瞬き始めた空の下、軍用のテントを設営し続けているガーデン軍の陣営の隅に、僕たちは到着した。
僕たちが次元の亀裂から現れるのを目ざとく見つけた見張りの兵士が、武器を手に数人駆け寄ってくる。兵士はすべてニューティアンだった。不審極まりない一団が、一般市民も収容している陣営のそばに虚空から現れたら警戒するのは当然だ。
「エレサリア様をお連れした。聖女様が敵の手中にある今、君たちの陣営の士気や規律を崩壊させないために必要だろうお方だと僕は考えている。どうか君たちの陣営に迎え入れてあげてはくれないか」
兵士たちが僕たちを取り囲むより早く、僕は兵士たちに声を掛けた。兵士たちが顔を見合わせる中、エレサリアが僕の前に進み出た。彼女は兵士たちに頭を下げた。
「都の市民を脱出させるために尽力してくれたこと、本当に感謝しています。今も都では残った兵士が逃げ遅れた市民を逃がすため、命を賭して戦ってくれていることも、把握しています。都、そして聖宮の陥落という失態、現聖女に代わり、先代聖女として、深くお詫びいたします。私はすでに五年も前に聖女の座を退いていますが、もし許されるならば、皆と共に、このガーデンの危機に立ち向かいたいと馳せ参じました。微力なこの身にできることは多くはありませんが、どうか皆のため、私にも何かお役目をいただけないでしょうか」
「本物だ。エレサリア様だ」
兵士の一人が、口にした。
「誰か司令部に伝令を。エレサリア様が見えられて、我らと共にいてくださると」
一番後ろにいた兵士が、即座に陣営の奥に走り去っていく。その声に、近くにいた兵士や市民たちも集まって来た。
「エレサリア様だ」
「先代の聖女様だ」
多くの兵士や市民の目が希望と期待の目でエレサリアを見ていた。けれど、中にはそうでない者ももちろんいるのが見えた。
「俺の村は守ってくれなかった」
「聖宮の連中の暴挙を黙っていたお飾りだろ」
おそらくは聖宮の腐敗の被害にあっている村の出身者だろう。彼等の目は冷めきっていた。彼等の声はエレサリアにも届いたらしく、彼女はすぐに彼等に向かって深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ないことしました。聖宮はすべての民のためにつつがなく動いていると信じ切り、現実を見抜けなかった愚かな私をどのようにも罵ってください。無知の罪で多くの村を苦しめてしまったこと、幾人もの娘たちの命を奪ってしまったこと、平に謝ることしかできません。すべて私の罪であり過ちです。今更知ったからと言って、あなたたちの慰めにならないことも分かっています。けれどもう一度私に機会をいただけるなら、今度こそ、村への不正な搾取をやめさせ、聖宮の罪として、罰を受けたいと思っています」
エレサリアを冷めた目で見ている村人たちは、
「今更謝られてもどうにもならんし、今はそういう時でもない」
「とはいえ、この状況、お飾りでもいないよりましだろう」
と、悪態と激励が半々の言葉を吐いて去って行った。
入れ替わりに、身なりのいいニューティアンが大急ぎで走って来た。
「エレサリア様! おお、エレサリア様!」
エレサリアよりも鮮やかな色をしている。見るからに軍属と分かる、紺色のサーコートを着ていて、腰には細身の長剣を佩いていた。
「まあ、ランディオ! 無事だったのね。あなたが無事なら部隊運用には問題ないのですね」
そう言ってから、エレサリアが僕を見て、
「都の警備部隊の指揮官のランディオよ。彼が生きていてくれたのは朗報だわ。誰よりも都での市街戦に強いはずよ。守りの要所、責める場合の弱点、すべて把握している心強いひとなの」
と紹介してくれた。彼女はランディオにまた新線を戻して聞いた。
「この駐留部隊を指揮しているのもあなた?」
「はい……この者たちは? ガーデンでは見かけぬ生物ばかりのようですが」
ランディオと呼ばれたニューティアンが、僕たちを見回して、エレサリアに問いかけた。奇怪な一団、といった目ではあったけれど、エレサリアを連れてきたことの報告も受けているのか、敵意のない目だった。
「ガーデンの雨を止めてくださった方々よ。この、ちょっと怪しい蜥蜴人が、私が占いで聞いていた、聖騎士、の肩書をもっているひと、ラルフ。そのそばにいる格好いい蜥蜴人が、ボガア・ナガア。ラルフの上にいる、虫の翅を生やしている子が、フェリア。そのうえで浮いている黒いのがムイムで、その隣の白いのが……え? ひょっとして、あなたシエル?」
エレサリアが僕たちを逆にランディオに紹介していき、最後のシエルを見て初めて気が付いたように驚きの声を上げた。それにしても僕とボガア・ナガアの紹介に随分差がある気がするのは気のせいだろうか。
「はい、ボガア・ナガアにもそうだと言ったはずなのですが……」
困惑した声でエレサリアに答え、シエルが僕を見下ろしてきた。なるほど、視線の意味を理解した僕はエレサリアに聞いた。
「あーっと、ごめん、一つ聞かせて。こんな時になんだけれど、ガーデンにも天上崇拝の信仰はあるのかな?」
「え? ええ……あなたたちの国にもあるということ?」
質問の意図が理解できないながら、エレサリアはそう答えてくれた。天上崇拝の信仰があるならば、戦闘中の混乱を避けるためにも先に披露しておいた方が無難だ。
「ありがとう。うん、僕たちの国にも天の神々に対する信仰はあってね。それで、シエルは普段騒ぎにならないよう、人形フォルムをとっているんだけれど」
と、僕はシエルを見上げて頷いた。
シエルは僕の頭の上から離れて、光の中で本来の姿に戻った。悠然と六対の翼を広げるシエルの姿を眺め、エレサリアも、ランディオも、兵士や市民たちも、ついでにボガア・ナガアまで呆気にとられた顔をしていた。
「君たちに伝わっている姿と同じでないのかもしれないけれど、シエルは天の神々の使いだ」
「え……え?」
エレサリアが僕を見て、シエルを見て、また僕を見た。その顔にはまさしく、聞いていない、と書いてあって、酷く狼狽えているのが分かった。
「天使様?」
「て、天の……神々の?」
「天上の?」
「なんと神々しいことか」
「穢れなき虹の翼だ」
周囲にざわめきが伝播していく。テントの中からもニューティアンたちが出てきて、皆シエルの姿を見つめていた。
「天使様が」
ランディオが突然大声を張り上げた。
「天使様が、我々を救いに降臨してくださった! 兵士たちよ! 市民たちよ! 清廉なる有難い御姿を見よ! 我々の明日はまだ死んではおらぬ!」
その声に、エレサリアの時よりも多くのニューティアンが殺到してきた。皆シエルの姿に驚愕と崇拝の表情を浮かべ、涙を流すものさえ少なくなかった。
シエルは彼等に微笑みかけ、
「希望を捨てず、平穏な暮らしのために団結するのです。苦難と悲しみの中にあっても、絶望してはなりません。私もできうる限りの力を尽くしましょう。約束します」
と、丁寧に応えていた。天使が語りかけてくれる、ということが分かると、さらに多くのニューティアンたちが集まってきた。
「ちょっと、え、何なのこれ」
エレサリアが僕に詰め寄って来た。
「何がどうなっているの? シエル? 本当にシエル?」
「そうだよ。君たちは天使と呼ぶんだね。僕たちは天盤の使者と呼んでいる。それが彼女の種族だったんだ。彼女が考えていることは僕にも完全に理解できるとはいいがたいけれど、シエルは彼女が必要だと思ったことをやってくれている。それは確かだ」
僕は笑った。ニューティアンたちの話を聞き、答えているシエルの姿を眺めながら。
「あれがシエルだ。彼女は自分を思い出しただけで、シエルだということは変わっていないよ」
「でもちょっと遠い存在になっちゃった気がします」
と、僕の頭の上でフェリアが言った。