第七章 ミスティーフォレスト(8)
アンティスダムたちの街に入ると、僕たちはまっすぐ宿に向かった。とりあえず前金で三日分の金額を払い、部屋を確保する。レレーヌから教えてもらった手掛かりを資料館や次元目録で調べる時間が欲しかった。
気が付けば、もう日が傾いている。昼食を取り損ねた僕とフェリアは、ようやくのように、自分たちがひどく空腹だということに気が付いた。
それで僕たちは、部屋に荷物を置くと、すぐに前日のように食堂に集まった。相変わらず代わり映えのしないサンドランドの質素な料理がなぜかひどく美味しく感じる。それは僕だけではなく、フェリアもそう言って食べていた。
僕だけが席に座り、テーブルの上にフェリア、人形の姿のシエル、そしてムイムが並んで座っている姿は、他人から見たら奇妙に見えたかもしれない。けれど、相変わらず食堂にはほかの客はいなかった。
黙々と料理を食べる僕とフェリアを、シエルとムイムは眺めていた。しばらくは静かなものだったけれど、食事の途中で、いきなりムイムが立ち上がった。
「何かあったようです。ボガア・ナガアに呼ばれました。少し様子を見に行ってきます」
そう告げると、彼は次元の亀裂を開け、その中に消えて行った。ボガア・ナガアに呼ばれたということは、行先はレインカースだ。大変なことになっているという話でなければいいけれど、と心配になった。もっとも、エレサリアに拒絶された僕が、首を突っ込んだところで彼女は喜ばないだろう。
ムイムの帰還は早かった。行って数分もしないうちに、テーブルの脇に次元の亀裂が開いて、ムイムが出てくる。彼は珍しく後ろ向きに出てきていて、
「ゆっくり。無理をさせないように」
と声を掛けていた。彼が声を掛けた先、亀裂の中から二人の人物が出てきた。一人はボガア・ナガア、もう一人はエレサリアだった。
エレサリアは傷だらけで、ボガア・ナガアに肩を支えられ、彼に寄りかかりながら、足を引きずるように現れた。彼等の背後で、亀裂が消える。
僕が席を立とうとすると、シエルが、
「大丈夫、私がやります」
と言って、エレサリアのそばに飛んで行った。彼女がランスを持っていないほうの手をかざすと、一瞬でエレサリアの傷が消えてなくなった。
ボガア・ナガアはエレサリアを僕の向かいの席に座らせると、崩れるように床に座り込んだ。エレサリアに気をとられていて見落としていたけれど、彼も脇腹から血を流している。シエルも気付いていなかったらしく、慌ててボガア・ナガアにも手をかざして、傷を癒した。
「ありがとう。ん、誰? 俺知らない」
ボガア・ナガアは礼を言ってから、初めて見る姿のシエルに、逆に彼女と気が付いていない様子で困惑していた。
「私です。シエルです。お帰りなさい」
シエルが名乗ると、ボガア・ナガアは面食らったように首を傾げた。
「シエル。俺の知ってるシエル違う」
「はい、そうですね。その話はまたあとでゆっくり」
シエルはテーブルの上に戻ると、僕の顔を見上げた。
「先生、あとはよろしくお願いします」
「うん」
僕はシエルに頷いてから、視線をボガア・ナガアに移した。ボガア・ナガアは僕を見上げて、あいまいな唸り声を上げた。
「ボス、俺やっぱりボスにも来てほしい」
「とりあえず、何があったのか次第かな。それと」
と、僕は向かい側の席のエレサリアをちらっとだけ見た。彼女は押し黙っていて、何を考えているのか、それとも、何も考えることができないのか、はっきりしない視線をじっとテーブルに向けていた。何があったかは知らないけれど、肉体的に傷だらけだった以上に、相当精神的に参っているように見えた。彼女が僕に助けられてもいいと、もう一度言ってくれるなら、できたら助けてあげたいのが、僕の本音だった。
「エレサリアが、僕も手を出してもいいと言ってくれるなら、だね」
僕の言葉に、エレサリアが顔を上げた。泣き出しそうな、悔しそうな顔をして、彼女は僕を見た。
「あなたが」
そして、震える声で言った。
「あんなことさえ言わなければ……!」
かすれた、とても悲痛な、絞り出すような声だった。けれど彼女の視線はすぐに沈んだものになって、声は自責の響きに変わった。
「……ごめんなさい。違うわね。それはただの八つ当たりに過ぎないわ。あなたの助けを拒否したのは私。あなたはただ、それが自然な環境もあるという話をしただけ。それを感情的になって理解しなかったのも私……」
「その話はもうやめよう、エレサリア。その話は、僕がモンスターで、君が人類だというだけの話で、もし理解はできたとしても、たぶん共感はできないというだけの話なんだ。そして、僕が知りたいのは、君がそれを理解できるかという話ではなくて、今からでも、もう一度、君を助けるチャンスを、僕がもらってもいいかという話なんだ」
僕はエレサリアに向かって真っすぐに視線を向けた。ごまかしはなし、言い訳もなしだ。あれだけ傷だらけになっていたのだ、どう考えてもただごとではない。危険で困難な話になることも分かりきっている。それでも彼女が助けてほしいと望んでくれるなら、僕はもう一度レインカースに行って、危険に飛び込む覚悟はできていた。
「お願いしてもいいの? 私はあれだけあなたを拒絶の目で見たというのに。あなたは許してくれるの?」
エレサリアの目が、後ろめたそうに泳いだ。そんなに気にする必要はないというのに。だから、僕は彼女にそれを伝えようとした。
「許すとか、許さないとか、僕はそんなことは考えていないんだ。君は何も間違ってはいなかったし、君が許されなければいけないようなことは何もなかったんだから。そして、許すのはむしろ君で、僕ではないんだ。だって僕の意志はもう決まっているんだから。僕は許されるなら君を助けたい。君がそれを僕に許してくれるかだ。僕は君の意志が知りたい」
僕は僕の思いをすべてエレサリアに話した。それから、不意に彼女がフェリアやシエルに言っていた言葉を思い出した。そうだ。そんな風に難しく考えることはなかった。僕は言いなおした。
「君は救われなければいけない。僕にとっては、それ以外の問題は全部些細なことだ。だから僕が君を救うことを許してほしい」
「ありがとう」
エレサリアは、頭を下げた。
「よろしくお願いします。力を、貸してください」
「良かった。僕で良ければ、いくらでも」
僕は少しだけ笑って、それから、エレサリアとボガア・ナガアに言った。
「状況を教えてほしい。まずは何をする必要があるかを考えよう」
「ええ。たった一日でそんなに変わるものかと思うかもしれないけれど」
エレサリアはため息交じりに話し始めた。無力感と敗北感の滲んだ声には深い苦悩が混じっていて、まるで救いのない沼にはまり込んでしまったように、彼女の目は暗く沈んでいた。
「都が見たこともない軍隊に、攻撃されているの。ガーデンの軍も抵抗は続けているけれど、聖宮長はじめ、彼の息がかかっている者たちまでもが、ガーデンに対し反乱を宣言し、侵略者と同調してガーデン軍を攻撃していて。ガーデン軍は侵略軍と反乱軍の挟撃にあっているの。都はすでにほぼ陥落したわ。それでも、今も、彼等はなんとか市民を一人でも多く都から脱出させようと戦っているの。私たちもそれに協力しようとしたのだけれど、私には自分の身を守ることもままならなくて。挙句にこのひとまで私をかばって怪我を」
それはエレサリアの役目ではない。僕はそう感じた。彼女がやるべきことはほかにある。
「シーヌは?」
念のため聞いてみる。
「分からない。聖宮まではとても辿り着けないわ」
「なら、君のやるべきことはひとつだ。まずそこから手を付けよう。ムイム、おそらく脱出に成功したガーデン軍は、どこかに市民を収容し、守りながら夜を明かすための仮陣営を設けているはずだ。そこへ行ける?」
ムイムに確かめると、彼は造作もないと頷いた。
「お安い御用で」
「私にできるかしら」
エレサリアは何を求められているのか分かっているようだった。もともと聡明な女性だ。今がどういう時かを考えれば、当然分かるだろう。
「聖女シーヌが敵の手中にある今、君以上の適任者はたぶんいないよ」
僕はエレサリアに告げると、皆を見回した。
「装備を取ってくる。フェリアも自分の装備の用意を頼む」