第七章 ミスティーフォレスト(5)
軍を動かしてくるという情報をエドガーから聞いた僕たちは、せっかく設営はしたけれど、もう一度テントを仕舞うことにした。残して行くわけにもいかないからだ。
テントを仕舞い終わったころ、ムイムがラクサシャを連れてきた。僕は特に彼等を迎撃のための配置はせず、僕らの周りにいてもらうことにした。それからしばらくして、エンタングラたちも到着した。数は三〇人ほどだ。彼等にも一緒にいてもらうことにした。
人間の街の領主が現れたのはそれからすぐだった。二〇人の兵士を連れており、思いのほか少ない戦力に僕は驚いた。僕たちのために一〇〇も一〇〇〇も動員することはないだろうとは思っていたけれど、たったこれだけとは。
兵士たちは胴鎧を付けている。領主と思われる男だけは防具を着ておらず、貴族風の黒いコートを身に着けていた。
「私がこの近辺を統治している者だ。そちらの代表と取引がしたい」
男はやせ型のやや高齢の男だった。白髪交じりの黒髪に、黒い目をしていて、肌が病的に白い。兵士たちの後ろにいて、前には出てこなかった。
「僕が代表だ。取引の内容次第では応じるが、最初に断っておく。ドリアードは渡せない」
僕はラクサシャやエンタングラを後ろに控えさせて立っていた。僕のすぐ後ろにはレレーヌがいて、その周りを、ムイム、フェリア、シエル、ドネが守っている。
「こちらにはドリアードを治療するための用意がある。貴様らモンスターにはそのような術はないだろう」
領主はそう言い張った。なるほど、普通に考えればそうだ。けれど実際には僕等がいることでその前提は覆っている。
「生憎だがこちらにもその用意はある。確かにエンタングラたちにはなかったようだけれど、僕が保護したことによってその状況は変わっている。無論人間が手を貸してくれればそれだけ早く治療できることは間違いない。けれど、そうでないのであれば君達との交渉には一切応じられない」
僕はきっぱりとそう告げた。領主の顔が憎々しげにゆがんだ。
「コボルド風情が。モンスターごとき、全員叩き殺しても良いのだぞ」
「し、しかし領主、彼我の戦力の差では」
横にいる部隊長らしき、他の兵士より飾りの多い鎧を着た男が領主に小声で進言していた。正しい判断と言えるだろう。
「どうしても連れ帰ると主張するのか?」
僕はその会話は聞き流し、続けた。
「当然だ。モンスターなどに任せられん」
と領主が答えるのを聞いて。
「まずはドリアードのレレーヌ本人の意思を確かめることにしよう」
そう言って、僕はレレーヌを横目で見て頷いた。僕の後ろで、レレーヌが口を開く。
「あなたたちにこの森の命とわたくしの身を預けるくらいなら、わたくしはこの地を去ります。さようなら」
レレーヌが言い終わると、急速に周りの木々が萎れはじめた。事前の予定通り、レレーヌが自ら森とのつながりを断ったのだ。
「これは……何をした!」
領主が森の異変を見て叫ぶ。僕はレレーヌの代わりに答えてやった。
「彼女から聞いたとおりだ。レレーヌはここを出て行く。彼女の加護がなければこの森はとっくに枯れ果てていたんだ。それを顧みず森を痛めつける君たちに愛想をつかしたんだよ」
「戻せ」
と憎悪まみれの目で領主が僕たちを睨んだ。それから、兵士たちに向かって叫んだ。
「ドリアードをやつらのから奪回しろ! このままでは私の森が消える! ドリアードさえいれば森は戻る! ほかのモンスターはすべて退治してしまえ!」
兵士たちは互いに顔を見合わせ、戸惑っていた。その中で、一人の兵士が口を開いた。エドガーの声だ。
「御免被る。どうやったって負け戦だ。女房子供守るためなら死んでも文句ないが、死んだ森のために犬死には俺ぁ御免だね」
戸惑っている兵士たちをかき分けて前に出てくる。隊長格の兵士が何かを言いかけると、エドガーは彼を睨み返して言った。
「なあ、隊長さんよ。そうじゃねえのかい。これは俺たちが命を張るような戦か? 街を守る戦か? 俺にはどうもそうは思えねえな」
「しかし、領主様の命令に歯向かうのは重罪だぞ。命令違反で捕縛する。そいつを捕らえろ」
隊長が兵士たちに命令すると。
「どうぞご勝手に」
エドガーは人間の兵士たちの前にどっかと座った。すると、数人の兵士がエドガーに並んで座り始めた。彼等は隊長を見上げて嘲るような声を上げた。
「隊長、ご自分でご勝手にどうぞ。なんなら俺も捕まえてください。どうせ命令に従ったって死ぬんなら、こんなくだらないことで戦いたくないね」
それを聞いて、さらに座り込む兵士が増える。二〇人いた兵士のうち、一〇人が座り込んでしまい、隊長含めても半数の一〇人しか領主の味方がいなくなっていた。
好機だ。僕は後ろ手に、シエルに、やっていい、とサインを出した。
それを見たシエルの行動は早かった。僕の頭上を通り過ぎ、やりすぎなくらいにまばゆい光を発した。
「人間たちよ」
シエルが人間たちに声を掛けた時には、彼女は本来の姿に戻っていた。六対の翼を広げ、神々しく輝きながら、彼女は人間たちを見下ろしていた。
「己の欲を顧みず自然を汚しておきながら、なおも己の行いこそが正義と憚らぬ、己の姿を直視できぬ哀れな罪人たちよ。己の醜さと愚かさを知る時が来た」
人間たちはあんぐりと口を開いてシエルを見上げている。誰かがつぶやいた。
「天盤の使者だ」
シエルはしばらくの間言葉を切り、ただ彼等を見下ろしていた。翼を大きく広げ、ミスティーフォレストの薄霧の中でなお、厳かに輝いていた。
インディターミネート・レジェンダリーであることは間違いないのだから、嘘はついていないのだけれど、少しやりすぎな気がしないでもない。
少し手加減してあげろと言おうとすると、ドネが僕の前に来て、小声で言った。
「今の彼女にはそれを語らねばならない使命が本当にあるのです。これは、嘘でも、誇張でも、演技でもないのです」
正真正銘、彼女は今人間たちにそういう存在として語りかけているということか。僕は言葉を失い、シエルを見上げた。彼女が自分よりずっと高次元の存在なのだということを、僕はやっと理解した。
「神々の代弁者としてこの者らの罪深さを量ろう。審判の時である。ドリアード、レレーヌ。自らが被った被害と、自らの望みを彼等に伝えるがよい」
シエルは人間たちと僕たちの双方が見える場所に、空中を移動すると、レレーヌに向かって頷いた。
「はい。わたくしはこの者たち人間の強欲さにより森を傷つけられ、死を覚悟するまでに追いつめられました。そして、人間たちはその無自覚により、わたくしの不信を気にもせず、その傲慢さにより、わたくしを捕らえようとまでし、わたくしの心を恐怖で塗りつぶしました。わたくしはもう彼等の影におびえる森ならばいりません。彼等にはわたくしの森は失われたものとして諦め、わたくしに関わらないことを望みます。また、それにより彼等が被る不利益は自らの行いの罰として受け入れることを望みます。それを彼等が受け入れられないというのであれば、また、受け入れておきながら約束を違えるというのであれば、わたくしは、彼等の討伐を望みます」
レレーヌは、そう語った。シエルはもう一度レレーヌに頷くと、人間たちに顔を向けた。
「罪人たちに傷つけられた哀れな娘の願いは述べられた。罪人たちよ、選択の時である。ドリアードの願いを受け入れ、二度とかの者に近づかぬことを誓うか」
シエルの言葉は厳格で、どこか慈悲深い響きがあった。宣誓を破るとどうなるのかは分からないけれど、おそらく楽しいことにはならないのだろう。それでも、宣誓が守られる限り、彼等は許されるのだろう。
ただ、その慈悲深さは領主には届かなかったようだった。
「何が天盤の使者だ! 所詮は異界のモンスターだ! 隊長、我々の暮らしを脅かすモンスターの討伐を命じろ!」
それはまさしく小物の言葉で、権力にものを言わせることしか知らない道化の姿だった。そしてその言葉に従う者は最早いないようだった。
「天盤の使者に弓引くとは正気ではない」
さすがに隊長も領主の言葉に狼狽していた。彼はシエルの前に跪くと、
「ようやく目が覚めました。天盤の使者様。我ら、罪を認め、ドリアードには二度と関わらないことを約束いたします」
と、選択の答えを口にした。
「貴様!」
領主が隊長につかみかかり、
「取り押さえろ」
と隊長に命じられた兵士たちの手で組み伏せられた。その様子を、シエルは静かに見下ろしていた。
「選択は成された。宣誓が破られたとき、断罪の光が汝等を打ち、汝等は討伐されるであろう。では、街へ戻るがよい。人間たちよ」
そして、領主が完全地面に組み伏せられたのを見届けると、人間たちにそう語った。
兵士たちはシエルに首を垂れると、領主を引きずるように去って行った。領主だけが、いつまでも悪態をつき、反省の念を最後まで見せなかった。