第七章 ミスティーフォレスト(4)
それから、シエルは急に小さな銀の球になり、フェリアよりもさらに小さい人型になった。
その顔にはひし形に開かれた双眸だけがあり、瞳はなかった。ドレスともコートともとれる服装をしているような不思議な格好をしていて、右手にはランスを持ち、左手には何も持っていない。背中にはやはり六対の羽を持ち、けれどそれは翼というよりも、のっぺりとした板のようだった。
「先ほどの姿は私たちの本来の姿ですが、各地の神殿に神の使いとして描かれていることが多いことから、騒ぎを避けるために、普段はこのような姿が好ましいみたいです」
呆気に取られて彼女を眺めている僕に、シエルは言った。彼女の声は落ち着いていて、今まで通り、シエル、と呼んでいいのか迷うくらいだった。
「シエル、ですよね?」
フェリアも同じ感覚だったらしい。おっかなびっくりな声で、シエルに声を掛けた。
「大丈夫です、フェリア。今も変わらず、私がははさまの娘、シエルであることは変わりません」
「はは、さま?」
いやそんな呼び方はしていなかった、と言いたげな顔で、フェリアが困った顔をした。
「急激に変わりすぎて理解が追い付かないですか? そうでしょうね、ごめんなさい。けれど、これが本来の私です。それでもフェリア、私はフェリアを大事な友達だと思っていることに変わりはないし、フェリアの友達でいたいということも変わっていません。受け入れてもらえたら、うれしいです」
フェリアはそんなフェリアに深い慈しみの声で答えた。シエルは小さな体を確かめるように僕の頭の上を一周回った。
「この大きさだと、フェリアの顔がよく見えます。とてもうれしい。これからも、仲良くしてもらえませんか?」
「はい、驚いたりして私こそごめんなさい。シエルはシエルですよね」
と、フェリアが頷いた。二人は頷きあうと、一緒に笑い声をあげた。
「先生」
それからシエルが僕を見下ろして、言った。
「もし人間たちが本当に軍を率いてきて、無理を通そうとしたら、本来の姿で少し脅かしてもいいですか?」
「え? あ。うん、いいけど」
僕は人間たちを少しだけ気の毒に思い始めた。神の使いに怒られたらさぞや生きた心地がしないだろう。
「あんまりやりすぎないようにね」
「はい。それは心配には及びません。自分たちの行いに見合うだけの戒めを与えるだけです」
シエルは頷いた。ただ人形のような眼だけは、狡猾そうに輝いているように見えた。
最初は面食らった僕たちも、しばらくするとシエルの新しい姿に慣れ、すっかり普段通り対応できるようになった。口調が丁寧になり、言動もしっかりしたシエルだったけれど、話してみればいつもの優しいシエルだということに変わりがないことが分かったからだ。
そして、僕たちが、今のシエルにすっかり打ち解け治せた頃、僕たちのキャンプにまた訪問者があった。比較的体格の良い人間の男で、鉄製の胴鎧を着ていた。肌が浅黒く、短い黒髪と黒い瞳をした男だった。長剣を腰に佩き、背中には背負い袋を背負っている。
「すまん、回答ではないんだが、少し邪魔したい」
その声はレレーヌたちと対峙た人間たちの中で、僕たちと話をしていた人物の声と同じだった。その顔には濃い苦悩が浮かんでいて、何かのっぴきならない話をしに来たのだということが読み取れた。
男が近づいてくると、レレーヌは僕の陰に隠れた。僕はそのほうが安全だろうと思い、彼女には隠れるままにさせておいた。
「何かな。と。何か腹を割って話し合うことがあるようだから、まずは名乗り合おうか。僕はラルフ・P・H・レイダークという。見ての通りコボルドだ」
立ち上がることなく僕がそう告げると、男は短く、
「俺はエドガーだ」
と名乗った。確か領主直属の兵士だったはずだ。僕は彼に座るように促した。
「まあ、座って話そうじゃないか。エドガー。領主直属の兵士が何の用かな」
エドガーは僕たちの近くに座ると、おもむろに背負い袋から瓶を出した。見るからに酒瓶だった。目の前に酒瓶を置くと、エドガーはそれから銅製のタンブラーを取り出した。
「ラルフ、あんたも飲むかい?」
「いや、僕は酒は飲んだことがないし、まだ人間の年齢で言うと一四歳くらいの子供だから、まだ早いと思う」
僕は断った。エドガーが笑う。
「マジメだな。人間の冒険者だったらそろそろ酒の味を覚えてる年齢だぜ」
「酒飲みの雑談をしに来たわけではないんだろう? 君は飲みながらでもいいから本題に入ってもらえるか」
僕はため息をつきながら言い、エドガーの顔を眺めた。
「随分参っているように見える」
「ああ、その通りだ。いや、参ってるどころじゃないな」
エドガーはタンブラーに酒を注ぐと、憂さを晴らすように飲み始めた。
「まずこれだけは伝えておく、領主の奴が軍を動かした」
「領主様、じゃないんだな」
その様子が少しおかしくて、僕は声を上げて笑った。職務を離れれば、という奴か。
「たぶん軍を出してくるだろうと思っていた。よほど欲の皮が突っ張ったやつが領主でもなければ、もっと早くに森の環境保護に乗り出しているはずだ」
「見抜いてたか。いや、お見事。コボルドにも先が読めるやつなんているんだな」
エドガーの言葉に僕は一応言葉だけの礼を言っておいた。
「それはどうも。それで? その軍の一員の君がこんなところにいていいのかな?」
「当然良くないが領主のやつのろくでもなさよりはましだ。そう思っといてくれ。奴はお前さんの案に乗る気はない。さらにお前さんがドリアードを連れ去り森を枯らそうと企ててるという名目で捕縛するつもりだ。もちろんあいつはドリアードの心配なんざしちゃいない。薬漬けにしてでも無理やり森の寿命を延ばそうと考えてる程度がオチだ」
エドガーはタンブラーの酒を飲み干すと、次を注いだ。相当腹に据えかねている様子に見える。彼はまた酒を飲み始めると、相談の内容を話し始めた。
「そこで相談だ。なんとしてでも、やつの筋書きを壊して、ドリアードを逃がしてやってほしい。そいつがいれば別の場所でまた森が復活するんだろう?」
「もとよりそのつもりで準備を進めている。けれど、そこまで分かっているのなら領主を逆に捕らえるか追放するかできないのかな。話を聞く限りでは君たちにとっても十分不利益な領主に聞こえる」
僕が首をひねると、エドガーは言った。
「今の段階じゃ難しいな。軍の中にゃ確かに今の領主は倒すべきだってやつも多いが、日和見してるやつらも結構いる。まあ、領主に忠誠誓ってるやつはいねえが。日和見連中の目を覚まさせにゃ、軍が二分しかねん。ま、いずれにせよそれは俺たちが何とかせにゃならん話だ。お前さんはドリアードの安全だけを優先してくれりゃいい」
「分かった。ただ、君たちの街の人間の行動範囲内に新しい森を作ることは確約できない。それだけは了承してくれ」
僕の陰にいるレレーヌをちらっと見た。彼女は怯えた表情でエドガーと視線を合わせないようにしていた。相当人間に恐怖心があるようだ。僕は彼女に、
「大丈夫だよ」
と小さく声をかけて、エドガーに視線を戻した。
「正直、君が持ってきた話は言われるまでもない話だ。僕はレレーヌを守る。だからといって、君を信用できる証拠も現時点ではない。だから僕たちは僕たちの思うようにやらせてもらう。君に頼まれたという意味では、拒否させてもらう。君の思惑に乗るつもりはない」
「ああ、それでいい。徹底抗戦とか玉砕覚悟とか言い出さなけりゃこっちとしては問題ない。ありがとうよ」
タンブラーの酒を飲み干すと、エドガーは酒瓶とタンブラーを背負い袋にしまって立ち上がった。
「だが領主が軍を起こした話は本当だ。それだけは用心してくれ」
「分かった」
頷く。僕もそれは嘘のない情報だろうと思った。
「邪魔したな」
エドガーは片手を上げて挨拶すると、去って行った。