第六章 レインカース(7)
僕たちは、一旦シエルの次元跳躍で都の近くまで飛び、そこでエレサリアと別れた。
報酬の約束もしていないし、お礼を受け取るつもりも初めからなかったから、水の精霊を解放したら、そのままサンドランドに戻るためにだ。エレサリアはレインカースに残るつもりと言ったので、離宮に連れて行くわけにいかなかった。
エレサリアは最後にひとことだけつぶやいた。
「いい子だと思ったのに」
ある一点でも相違があって、それがお互いに譲れない価値観だった場合、人の心を幻滅させるのには十分なのだと知ってはいたけれど、現実にそれが起きると申し訳ない気分になる。
けれど僕たちにはやるべきことがあったから、深く考えないで済んでいた。
僕はボガア・ナガアにエレサリアの元に残るかと意思を尋ねたところ、
「エレサリアには、また会いに来る」
迷っていたようだけれど、彼はそう言って、僕についてくることを選んだ。
シエルが次元の亀裂を開き、僕たちを理由の中に運ぶ。そこは一見何もない八角形型のホールのような部屋だった。部屋には大きな両開きの金属の扉があった。壁は白く、磁器のように滑らかだった。
シエルは皆の前に一歩進み出ると、もう一度次元の亀裂を開いた。次元跳躍と違うのは、わずか一メートル先にも同じ亀裂があることだ。
「トンネルを開いた。これで入れる」
シエルの言葉に促され、僕たちは亀裂を潜り抜ける。すると、部屋の景色が一変した。
背後で亀裂が消える。部屋の中にはさっきまではなかった棚や机が並んでいた。机には一冊の紙束が置いてあって、どうやらそれは誰かが残した書置きのようだった。
部屋の中央には台座があり、その上に水の球体が浮かんでいた。球体は淡く明滅していて、部屋の中を照らしていた。
「この中はいわばマテリアル界とアストラル界のはざまです。会話をしていても外に漏れる心配はありません」
と、ムイムに言われ、僕は息苦しさから解放された気分で頷いた。書物を手に取り、読んでみる。
最初のページには、次世代の子供たちへ、と書かれていた。ページをめくってみると、いつの世代かまでは分からないけれど、聖女の一人が書いたもののようだった。
内容は要約するとこうだ。
干ばつの対策のために水の精霊の力を借りることにした。精霊の力を悪用する者が現れることも考えられるため、現世と幻界のはざまに匿うことにする。万が一自分の身に何かあり、精霊を解放できなかった場合には、のちの世に解放してあげてほしい。
書物には丁寧に解放のための合言葉まで残されている。僕たちはそれを読みながら顔を見合わせた。
「なるほど、そういう真相だったわけですか」
と、ムイムが言った。
「かつての聖女にアストラル界を感知できる者がいたってわけですね。そして精霊による干ばつ対策を考えた。しかし干ばつを回避できたはいいが、おそらく彼女に何かが起きて精霊を解放できなかった。彼女はその時のために対処法を残したものの、他のニューティアンがアストラル界を感知できないことを、忘却したか、知らなかったかで、他のひとには見えない場所に書置きを残してしまった。それで今日まで見つからなかった、と」
「すぐに解放してあげよう」
そんなことが原因で五〇年もここに閉じ込められている方は堪ったものではないはずだ。僕は本を手に、水の球体に近づいた。そして、そこに書かれていた合言葉を読み上げた。
「約束の時は過ぎた。水の精霊ドネよ、目覚めよ」
水の球体の中で、ぼこん、と大きな音がして、無数の泡が生まれる。それから球体は表面を大きくうねらせて、僕たちの前で水でできた魚に形を変えた。
「ありがとう。ようやく解放されました」
水の魚は、僕たちにも分かる言葉を発した。
「わたしは水の精霊、ドネ。初めまして、トカゲ殿」
「初めまして。僕はコボルドのラルフ・P・H・レイダークです。五〇年も捕らわれていたんだよね? どこか調子が悪いとかいうことはない?」
僕が名乗りながら心配の声をかけると、ドネは満足そうに笑い声をあげた。
「おお、これは。心配してもらえるのですか、ありがとう。随分長いこと力を使い続けていたので、少し疲れてはいますが、大丈夫。大事ないですよ」
「この本に書かれている内容からすると、君をこの場所に匿った聖女の思い違いみたいなもので、解放する方法も、ここにいることも、ニューティアンたちに見つけられなくなっていたのだと思ったのだけれど、どうなんだろう?」
書物をめくりながら、僕はドネに聞いた。ドネはまた笑い声をあげた。
「なんと。あの子は、ほんとうに仕方のない。ゆがんだ結界の中に本が残されていたのですか。どおりで誰も来ないはず。おや?」
それから、宙に浮いた水の魚はずいっと、シエルの前に近づいた。
「インディターミネート・レジェンダリーを連れているとは珍しい。あなたはどこの生まれでしょう。エターリング? テクノグランド? シルバーハイ? ……おお、なんという。コアがないではないですか」
「オールドガイアで生まれたんだ。どこかから卵のまま持ち込まれたらしい。レジェンダリー・スピリットは生まれた時から外されていたらしく、彼女が自分の故郷を思い出す決心ができるまでは僕が預かっているんだ」
僕が説明すると、ドネは、なるほど、と頷いてから、シエルにまた話しかけた。
「ひょっとしたら君は今自分には何もできないと思い悩んではいませんか? 大丈夫ですか? もしそれが当たりなら、君は怖がらなくていい、コアを付けるべきです。コアは種族の記憶。君に何ができるかは、すべてコアが教えてくれます。今すぐには難しいかもしれません。考えてみてください。君の力の使い方は、すべてコアが知っています。それだけ、覚えておいてください」
「わかった」
シエルが答える。相変わらず顔には表情がない。その顔を見て、ドネは静かに言った。
「なんてひどい顔なのでしょう。随分苦しんでいるのですね。君は悩まなくていい。大事なことはたった一つだけ。君はコアの中にいます。難しいことは覚えなくても大丈夫、君はただコアの中の自分と出会う決心さえつければいいのです」
「うん。インディターミネート・レジェンダリーを知ってるの?」
シエルがドネに向かって問いかけた。
ドネは静かに、
「もちろん」
と答えて、シエルと同じように翼を持った女性の姿に、形を変えた。ただシエルと違って、やはり水でできていて、向こうが透けて見えていた。
「君たちは水の精霊と、土の精霊、火の精霊の力が混ざり合って生まれた霊的種族です。そのほとんどが崇高な精神を持ち、神々の天盤に近い次元に住んでいます。形のない伝説的種族、のその名の通り、本来君たちはいかなる次元内の問題にもほとんど介入することがありません。そこに介入するには君たちの力は大きすぎるものなのです。次元によっては、君たちの訪れは、天啓、または、天罰を意味します。そういった意味でも、君はコアの記憶を早めに見ることをお勧めします。君自身が争いの火種になる次元もあるということを、どうか覚えておいてください。君はそういう存在です」
それからドネは僕たちを見回して言った。
「雨は上がりました。これ以上ここにいるのはよくないかもしれません。とはいえ、わたしはまだ行く先がないので、いったん君たちと同行させてもらえますか? もちろんいつまでも一緒というわけにはいきませんが、この子、シエルの助けにはなってあげられると思います」
「そうだね。僕も異論はないよ。行こうか。ムイム、頼めるかい?」
僕はドネの言葉を歓迎し、それから、ムイムに次元の亀裂を作ってくれるよう声を掛けた。
「本はお持ちになるので?」
ムイムに聞かれて、自分がまだ本を持ったままだということに気づく。僕は机に本を戻すと、ムイムに礼を言った。
「ありがとう。持ち去るところだった。置いて行くよ」
「それがいいでしょう」
ムイムは言った。
そして、彼は無造作に右手を宙に向け、亀裂をいつも通りに出した。
「ありがとう」
もう一度僕が礼を言うのを合図に、皆サンドランドに向けて亀裂をくぐった。