第六章 レインカース(5)
ムイムが偵察に出てから、僕は静かに本を開いていた。
ムイムに人選を任せたら、ボガア・ナガア、フェリア、シエルを連れて行った。ボガア・ナガアと次元跳躍役のシエルは最初から分かっていたけれど、フェリアまで連れて行ったのは少し意外だった。ムイムの話では、魔法使いとして修業を積むのなら、フェリアも少しアストラル界に慣らしておいた方がいいとの考えのようだった。
僕は待っている間、サンドランドで買った魔法書をめくっていた。魔法についてはほとんど専門外なのだけれど、読んでみると意外に興味深い。
「ふむふむ、こんな感じか」
頭の上に火の玉を浮かべながら、僕は満足して頷いた。火の玉には破壊能力はなく、ただあたりを照らせるだけだ。触っても燃えることもない。
実はこの火の玉は照明魔法である光の玉を出そうとしたら出たものだ。実体がない火だけれど、僕の思いのまま変形させられるので思ったより楽しい。一番楽なのは小さな竜の形をとらせることだった。
練習中なので皆にはまだ披露していないけれど、僕もフェリアと同じように魔法の練習をしていた。
アンティスダム達が魔法を使う時の技法なので、オールドガイアの術とは若干違うのかもしれないけれど、問題なく理解はできた。
指を振って火の玉を消す。
続いて同じように白く輝く球を浮かべる。
火の玉の逆で、今度は冷気の球だ。僕には、火の球よりこちらの方が維持は楽だった。火の玉同様好きなように形が変えられるけれど、やっぱり竜の形にしておくのが一番楽だった。
僕が竜の眷属だからかもしれない。火の球は少し暖かくて、冷気の球は少し涼しいという程度の効果しかない。役に立たないと言えばそれまでの魔法だ。
いったん冷気の球を消し、それから、一気に両方出してみる。両方同時に出すと綺麗だ。それ以上の効果はない。合体させると巨大化して暴れ出すとかいうことも、エネルギーをまき散らして消滅することもない。ただ重なるだけだ。
けれど、この二つの魔法は、薄く板状にして重ねた時だけ、特別な効果が確かにあった。
うっすらと誰かの影が映るのだ。
僕の魔法の技術が低すぎるのか、黒っぽい影のようにしか見えたことはない。何か喋っているのは分かるのだけれど、最初はただの雑音にしか聞こえなかった。練習を繰り返しているので、それでも昨日の時点では何とか声らしいものが聞こえてくるようにはなっていた。あと一息といった感じだ。
今回も同様に薄く重ねてみる。やはり黒い影が映り、何かをしゃべり始めた。
僕の様子を見ていたエレサリアが口を開いた。
「すこし厚さがずれているようね。何か枠になるようなものに挟んで試してみたらどうかしら。基準があれば合わせやすいのではないかしら」
「なるほど」
思いつかなかった。僕は頷いて、矢筒から矢を二本抜き、それを両手に一本ずつ持った。矢をぴったりと合わせ、その間に火と冷気を棒状にして挟み込む。それから、僕はその間に薄い膜が張るのをイメージして、矢と一緒に二枚の板を引き延ばした。
「こんにちは。やっとしっかり見えました」
女性が映っている。雪のように白い肌と白銀に輝く長い髪。瞳は凍てつくように青く、耳たぶが薄い耳。少しだけとがった耳先で、相手がエルフの女性なのだと知った。
「あなたは?」
「ごめんなさい。まだ名乗れません。あなたにはまだ私の名前を知る準備ができていないのです。ですが、あなたのことは知っています。ラルフ・P・H・レイダークの名も。護符は役に立っていますか?」
そう言われて、はた、と誰を相手にしているのようやく知った。まさかこんな風に話をすることになるとは。全く予想していなかった状況に、僕は混乱した。
「え? あ。これはあなたが? その。僕はあなたのことを何も知らなくて。何故これをあなたがくれたのかも。未来にあなたと会うのだという話は聞きました。けれど実感もなくて」
「ええ、知っています。完全ではないですが、私も少しだけ未来を覗くことができるのです。あなたとこうして話ができる日を心待ちにしていました」
女性はそう言ってにっこりと笑った。本で読んだ。白銀の竜は若いエルフの女性の姿を好むという。彼女が僕に護符をくれた竜だとするのなら、きっと彼女は白銀竜なのだろう。
「お渡しした時は、竜の護符の力を説明する時間がなくて、あなたもどのような効果があるのかが分からず困っていることでしょう。ごめんなさい。それを今日は説明します」
「はい、ありがとうございます」
僕は、正直にそれはありがたいと思った。ところが、彼女は拗ねたように不満そうな顔をして黙り込んだ。
「……」
「あの?」
ぼくがおっかなびっくり声を掛けると。
「初めはそんな感じなのですね。あなたからすれば会ったこともない竜ですものね。仕方がないのでしょうけれど」
女性はそう言って、また黙り込んだ。彼女は話ができる時を楽しみにしてくれていたと言っていた。だとしたら他人行儀すぎるのも、彼女が夢見ていた時間を壊していることになるのではないか。僕は考えた。今僕は、彼女にとてもひどい仕打ちをしているのではないだろうか。
僕はコボルドで、彼女は竜だ。竜は僕たちにとって神にも等しい存在で、畏敬の対象だ。正直、怖い。けれど、それは僕たちの一方的な押し付けで、彼女がそれを望んでいないとしたら。
僕は、ひとまず、恐怖を飲み込むことに決めた。覚悟を決めよう。
「ごめん。君が、そういうのを嫌うかもしれないなんて、考えもしなかった。一方的に怖がられたら悲しいよね」
僕は言った。
口の中はカラカラで、心臓はバクバク言っている。今にも映像から竜の顎が伸びてきて、僕は頭から丸かじりにされるのではないかと頭もくらくらする。それでも口から出た言葉は戻らない。
「ありがとう」
彼女の顔はまだ悲しそうだった。それが僕も悲しかった。怖がっている顔で、緊張して言っている顔で言っても彼女が喜ぶわけがない。分かっているから、彼女にこう言わせてしまう自分が情けなかった。
「無理をしないでください。すごい顔をしています。寂しいけれど、今はまだ他人ですものね」
「ごめん、すぐに慣れるから。大丈夫。確かに僕はコボルドで、ドラゴンは怖いけれど。でもたとえ相手がドラゴンだからといって、女のひとにそんな悲しい顔を差せたままは駄目だ。自分のことならなおさら、それは我慢できない」
大丈夫だ。彼女は頭から丸かじりにしてくるようなひとではない、と自分に言い聞かせる。そんなひとがこれほど悲しい顔をするはずがない。
僕は大きく深呼吸をして。もう一度映っている女性を見た。エルフの姿の少女だ。はかなげで、華奢な少女だ。僕は初めて彼女が見えた気がした。だから、僕は笑って見せた。
「もう大丈夫だ。僕がいけなかった。気づかせてくれてありがとう。それと、竜の護符、助かっているよ」
「……」
彼女は、しばらく目を閉じて口元を震わせてから、目を開けた。
「やっとラルフに会えました。はじめまして、ラルフ。まだ名乗ることができないので、私のことは、どうかルーサと呼んでください」
「分かった。ありがとう、ルーサ」
僕は頷いて、それから仕切りなおすように、一度だけ、両手で自分の顔を打った。
「さあ、教えてほしい。竜の護符の効果が分からなくて困っているんだ」
「その護符には三種類の魔法が込めてあります。あなたに致命的なダメージを与えうる攻撃に反応して発動する光弾の魔法、敵意を持った攻撃をある程度防ぐ障壁の魔法、最後にあなたに敵対的な魔法に対する抵抗力を増強する魔法です。今はおそらく魔力が尽きて何も発動しないのではないかと思います。護符の魔力を回復させる方法がなかったので。ですからおそらく今はただ銀に見える板です」
ルーサはそう言って、また目を閉じた。それから目を開くと、彼女はうっすらと笑った。その笑顔からは、もう寂しさや悲しさと言った感情は読み取れなかった。
「今魔力を回復させました。今後は、こうしてお話ができる時に魔力を回復させます」
「ありがとう。可能な限りこまめに話す時間を作るよ。護符の魔力を回復してもらうためでなく、君のことを知るために。直接会える日を楽しみにしているよ」
気が付いたら、僕は自然にそう言っていた。なぜか本気でそう感じたから、言ったことに後悔はなかった。
スクリーンがゆがみ始める。魔法が切れる時間だ。僕はもう一度笑って見せた。
「僕の魔法が限界みたいだ。それじゃまた」
ルーサは何も言わなかったけれど、笑ってくれた。僕はそれがうれしかった。
そして、火と冷気のスクリーンが、消えた。