第五章 サンドランド(1)
細く息を吐く。
僕は胃の奥のむかつきと、背筋をチリチリと走る寒気を感じていた。
剣と盾を手に、相手を見据える。静かに、やや前傾姿勢に構えた相手の姿に、見つからない隙を探していた。
僕たちから少し離れたところに、フェリアとシエルがいる。フェリアは荒い息をしながら倒れていて、これ以上動けないことは明白だった。倒れている場所はシエルの膝の上で、シエルは心配そうにフェリアを覗き込んでいた。
向かい合った僕と相手の間を、時間と砂埃だけが過ぎていく。僕は、ふう、と息を一つ吐くと、頭上で悠然と浮かんでいるムイムに、声だけで伝えた。
「今日も引き分けかな」
ムイムは短く、
「ふむ」
と声を上げると、降りてきた。
「時間切れ、両者引き分けです」
その声がかかると、僕は腹の底から息を吐きだして、尻餅をついた。同時に、僕と向かい合って立っていた、ボガア・ナガアも同じようにハアハアと息をしながら座り込んだ。
「俺今日も動けなかった。ボス怖い」
「こっちもだよ。読み違えると首を飛ばされる気がして、どうにもならないね、これは」
こんな感じで、僕とボガア・ナガアはもう五日間も両者一歩も動けないまま引き分けを続けていた。
本来この時間は、フェリアの訓練の時間なのだけれど、フェリアは戦闘訓練以前に体力、特に持久力のなさが致命的で、基礎体力作りでギブアップを続けていた。その体力のなさたるやネズミ以下で、鍛えなければ大きめの蚊に刺されただけで失神しかねないありさまだった。ずっと捕まっていたのだ。それも仕方がないことなのだろう。
「あの」
疲れ果てて転がったフェリアが言う。
「コボルドって、本当に弱いんですよね?」
彼女に言われて、なるほど、と僕は苦笑した。確かにフェリアたちは、僕やボガア・ナガアといった、規格外のコボルドが戦うところしか見たことがない。
「うん、普通は投石が当たっただけで死ぬくらいには弱いよ」
僕も訓練していなかったらそうだった。
ボガア・ナガアは厳しすぎる実戦を通じて鍛え上げられた例だ。
「さて、シエル。やろうか」
僕がシエルに声を掛けると、彼女はこくんと頷いて、フェリアを片手に乗せて立ち上がった。それを見たボガア・ナガアが身軽に跳ねて立ち、小走りにシエルに駆け寄ると、彼女からフェリアを受け取った。
「大丈夫か?」
ボガア・ナガアが心配そうにフェリアを見下ろしている。彼は地面にしゃがみ込むと、
「ボスには内緒」
と、僕に聞こえているのも気にせず、着ている毛皮の服の懐から何かの葉を編んだ巾着状のものを出した。そして、中の花の蜜を指でひと掬いすると、フェリアの口元に持って行った。僕たちの次元にいた時分から、彼はいつも花の蜜を疲労回復用に持ち歩いていたのだという。
「元気になる」
「甘いです。ありがとうございます」
フェリアは素直にそれをなめながら言う。ボガア・ナガアが彼女を抱えている時に、毎日見られる光景だった。
「頑張る」
シエルが僕から少し離れた場所に立つ。彼女はここ数日浮かぶのはやめて、地面に立つようにしていた。
「お願いします」
彼女がぺこりとお辞儀をする。僕がそうするように教えたわけではないけれど、なんとなく、でそうしようと思ったそうだ。
「うん」
僕は手に剣をぶら下げて、無造作に立った。盾は背負ったままだ。安全のために剣は鞘に納めたままにしている。僕もシエルに一礼を返すと、彼女に声を掛けた。
「君のタイミングで、いつでもはじめて」
声をかけるなり、シエルが右腕を伸ばしてくる。速いけれど直線的なそれを僕は無造作に剣で弾くと、続けて伸びてきた左腕に飛び乗って走った。
シエルは瞬時に左腕を戻し、人型を保つのをやめた。少し浮かび上がった球体になり、矢継ぎ早に液化金属のスパイクを伸ばしてくる。
僕はそれを跳ねて渡りながら走った。そして、球体になったシエルを、剣の先でコツンと突いた。
「今日も浮いてしまったか」
僕がそう声を掛けると、シエルの声が球体から響いた。
「ごめんなさい」
実のところすぐに地面から離れてしまうのはシエルの弱点だ。こと戦闘中のシエルの空中での動きは速くない。地面を蹴って走ったり、翼を生やして飛行する分には申し分のない速さなのだけれど、戦っている最中に一度浮いてしまうと、何かの形態を保つのをやめてしまうので、移動速度が極端に落ちるのだ。
それに、彼女が伸ばすスパイクにも問題があった。速度はあるものの、すべて直線的で変化に乏しく、何となくで読めてしまうのだ。そのため、僕やボガア・ナガアのように身軽な者が相手だと、逆にいい足場を与えてしまうことになる。
「やっぱりあわててしまう?」
実戦経験も訓練経験もほとんどないのだし、無理もない話だと思いながらも僕が聞くと、
「ごめんなさい」
もう一度シエルは謝った。
「責めているわけじゃないよ。叱っているわけでもない」
僕はそう言って球体になっているシエルの上から飛び降りた。シエルはいつもの人型に戻りながら地面に降りて、苦悩のあまりしゃがみ込んでしまった。
「できない。わかってるのにできない」
彼女は自分に落胆したようにつぶやいた。
確かに攻防両面において彼女の癖は致命的な弱点だし、改善は必要なのだけれど、それは不定形生命体という特殊な生物特有の悩みで、僕にもいいアドバイスの言葉が思いつかなかった。
ボガア・ナガアが、シエルを眺めている。いつもそうだ。彼はシエルのことを気にかけているけれど、僕は、一度立ち会わせたきり、二人が打ち合うことを禁じていた。
わずか一秒。
ボガア・ナガアがシエルを切り崩すのに要した時間だ。アドバイスする前に心を木っ端微塵に打ち砕きかねない相性の悪さだった。最初のスパイクを伸ばす予備動作の時点で、ボガア・ナガアはシエルを打った。
「今相手がいる場所狙うの意味ない。自分で死角作るだけ」
その時にボガア・ナガアがシエルに掛けた言葉だ。そしてそれがシエルの乱調の始まりだった。常に先手を打つつもりで放った自分の攻撃を読まれるせいで、結果的に自分が後手に回ることになってしまうのだ。また、ボガア・ナガアの例は特殊としても、彼女は一度後手に回ってしまうとどうしていいか分からなくなるという弱点も抱えていた。
経験不足以前に彼女は平静さを保つことができない脆さを克服する必要があった。けれどそれは言葉で言い続けても分かるものではないし、逆に重圧を与えすぎてしまうことになるから、僕にもどうやって改善するかの答えが導き出せないでいた。
アンティスダムの次元に来てから五日間、毎日訓練を行うことで、フェリアはフィジカル面、シエルはメンタル面に大きな課題があることが顕著に分かっていた。
それでも彼女たちが付け焼刃程度にでも仕上がらないと、次元華の探索には出られない。僕たちはアンティスダムたちの次元で、彼女たちの訓練を行う時間を必要としていた。
ちなみに、僕とボガア・ナガアが立ち会っているのは、お互いに実戦の勘を鈍らせないためのものだ。フェリアやシエルを休憩させている間を利用して、そうやって僕たち自身も鍛錬しようというのが目的だったのだけれど、両者一歩も動けないという結果が続いていて、お互いに意味があるのか首をひねり始めていた。
イメージトレーニングにはなっているから全く役に立っていないということはないと思うけれど、体は鈍りそうで少し不安だった。
ムイムは僕やボガア・ナガアとの訓練は拒否を続けている。特にボガア・ナガアとの勝負を避けていて、彼曰く、
「天敵すぎて何をされたか理解できないうちに負けるだけで、得るものがまったくないので嫌です」
とのことだった。ことボガア・ナガア相手の場合、彼お得意の岩の鎧は、
「ハンデになりさえすれ、メリットは全くないです」
とのことだった。ボガア・ナガアがどうやってあの固い岩の肌を攻略するか見てみたいけれど、ムイムは絶対に嫌だと言って譲らなかった。
「一枚岩でもなければボガア・ナガアの急所狙いは止められません。一枚岩なら負けませんが、私も身動きできないので勝てもしません。転がってるだけの岩を誰が気にするんですか」
とだけ、ムイムは教えてくれた。