第三章 黒い涙、そして、小さな魂(6)
「ええと、どういうことですか? その」
フェリアは状況が呑み込めていない。その分黒い靄も出ていないけれど、それは問題が解決したということではなかった。
「なぜあんな無茶が必要だったんですか? こんな話はなかったはずですよね」
「そうだね。でも必要だと思ったんだ。間違いなくこれでいいはずなんだ」
僕は多くを説明しなかった。説明すればフェリアの心をさらに惑わせるだけだから。
「さて、フェリア。どうする? あとは君が君の魂を取り戻せば、シエルはきっと助かるよ。君が自分に甘えている限り、シエルは助からない」
「でも……」
フェリアはまた俯いた。彼女はまだ自分の中で閉じこもっていて、そこから抜け出せていないようだった。
「ならそうだね。一〇分待とうかな。その間に覚悟を決めようか。助ける覚悟か、殺す覚悟を。決めるのは君だ。頑張ってほしい。いいかな。僕から言えるのは、あとはこれだけだ、助けてくれるのは自分だけだ。いいね」
僕はそう言って、わざとフェリアを一人にした。
フェリアから離れると、背負い袋の上の光が、ブルブルと震えた。
「分かってくれるかな?」
と、僕がつぶやくと、
(勝つわよ、私の自慢の娘だもん)
そう声が聞こえた気がする。
「うん、たぶん」
それから、聞いた。
「どうするの? もう行くの? それとも、最後まで一緒に見届けてくれる?」
(ここままじゃちょっと逝けないわね。心配で化けて出そうよ)
と、彼女の魂がわずかに光を増した。
フェリアは一人、うずくまって黒い靄に包まれていた。
「やめて……やめて……シエルが死んじゃうんです……お願い」
これは思ったより時間がかかるかもしれない。一〇分は短かったかな、と少しかわいそうになった。
(長いほうが残酷よ。一〇分でも長すぎるくらいだわ。長くて五分、三分でちょうどいいかもね)
こっちはこっちで思ったより厳しいひとだ。僕は苦笑して、フェリアの様子を見守り続けた。
フェリアは泣きながら立ち上がろうともがいていた。そんな悲壮な思いでは駄目なのに。彼女が気づいてくれるときを、僕たちは待った。
「お願い、お願いだから。少しでいいんです。静かにして。時間がないんです。シエルが、シエルが死んじゃう」
可哀想だけれど、今は見守るときだ。今日までの僕だったら無理をしないでいいと言っていたところだろう。けれどそれでは何も解決しない時だってあるのだ。今も僕にはそれが分かる。優しさの答えは、いつも同じとは限らないというのは、たぶん、こういうことなのだろう。
「まあ、君と同じように僕が引っ張り出してもいいんだ。駄目だったらそうするよ」
(その場合には、フェリアに、あなたとシエルをどれだけ傷つけたのかを、ちゃんと叱ってね)
そう言われた。それはそれで責任重大だ。
フェリアは頭を抱えて泣いていた。彼女が懇願すればするほど、黒い靄は濃くなっていて、彼女から前を向く力を奪っているようだった。
「分かって……死んじゃうの……分かって」
それでも靄は消えない彼女は懇願することをやめて、ついに黙り込んでしまった。ここが分岐点だ。僕は息をのんで見つめた。さあ、どっちへ転がる?
「……ううっ……うう……」
嗚咽だけが漏れる。彼女の口からはもう言葉ではない声しか漏れず、彼女自身どうすることもできないでいる黒い靄が覆いかぶさって重くのしかかっていた。
彼女の転がる方向によっては、彼女は連れて歩けない。それは確かだった。彼女の中にそれが生まれない限り、彼女はどこかでひっそりと暮らすべきなのだと思う。
「もう……駄目……ごめんね……シエル」
彼女の口からつぶやきが漏れて。
ゆらり、と、フェリアは不格好にそれでも確かに、立ち上がった。
「違う!」
フェリアが、咆哮するように叫んだ。
「違う! 私は駄目でいい! そんなことは、どうだっていい!」
また彼女の体に黒い靄が生まれる。
「黙れ! うるさい!」
それを、彼女は力任せに引きちぎるように、叫びを上げて振り払った。たぶん彼女は自分が叫び声をあげていることにも気が付いていないだろう。
「私がシエルを助けるんだ!」
ふらつきながら、それでも、その目はしっかりとシエルを見ていた。
「私が助けなきゃいけないんだ。それ以外は、全部どうでもいい!」
フェリアは自分の中に答えを見つけたようだった。答えが予想外に激しい方向なのに驚きながら、僕は、彼女がいつ倒れても良いように、いつでも駆け寄れるように心づもりを始めた。決意さえ固めてくれればそれでよかったのに。
「そうでしょ!」
フェリアは叫び続けていた。泣きながら叫び続けていた。
「いつまでそこでシエルを苦しめるの!」
叱り飛ばすように叫ぶ。
「あなたはシエルの友達でしょ!」
自分に言い聞かせるように叫ぶ。
「助けなきゃいけないの!」
迷いを振り切るように叫ぶ。
「助けてあげてよ!」
訴えかけるように叫ぶ。
「助けようよ!」
ただ、叫ぶ。
そして、彼女は一度だけ目線を足元に落とした。
「だから……」
と漏らして。
「今すぐ戻ってこい! この薄情者!」
今日一番大きい声で、フェリアは自分自身に怒鳴り声をあげた。
カオス・スポイルの一部分が明るくなる。そしてそこから、とても小さな、頼りなく光る魂がよろよろと浮かび上がった。
それはふらふらと迷うに飛んで、なんとか戻るべき場所を見つけたように、フェリアの中に消えて行った。
その時には僕がすでに走り出していた。彼女は案の定倒れて、僕は両手でそれを受け止めた。
「お疲れ様。僕が思っていたのとは違うけれど、君は頑張ったよ」
ちょっと気になる吹っ切り方ではあったけれど、それが彼女ということなら、それでいいのだろう。
「シエルは助かりますか?」
彼女に震える声で聴かれた。
「助けるよ」
僕は頷いて、彼女を両手で持ちながら、もう一度カオス・スポイルに近づいた。
「シエル」
声をかける。反応はない。
「シエル。待たせてごめん。僕たちはここだよ」
そう声をかけると、カオス・スポイルから白っぽい霧のようなものが湧きだして、僕たちを包んだ。
霧が視界を奪い、しばらくして晴れてくる。
その時には、僕はただの水っぽい塊で、手も足もなくて、動くこともままならなかった。
「師匠、私、私、手がないです。足も。みんなないです。助けて」
近くで助けを求めるフェリアの声が聞こえる。僕は、フェリアではなく、シエルに答えた。
「違うよ。そうじゃない。僕は僕だ」
そう言った途端、僕の体は元のコボルドに戻っていた。僕は何もない空っぽの塊ではない。その言葉に当てられたのか、
「ありました。大丈夫です」
フェリアが安堵の声を漏らした。
「君も同じだ。君は君だ。ほら、ここにフェリアがいる。頑張って弱い自分を叱り飛ばして、君を助けてくれたよ。後は君の番だ。君だけだ」
僕の言葉に。
「見えた。いた」
シエルの声が、しっかりと答えた。
カオス・スポイルは縮んでいき、見慣れたインディターミネート・レジェンダリーの姿に変わっていった。シエルはきょろきょろと周りを見回して。
「これがアストラル界。すごい、なんだろうこれ。いろいろなものが浮いてる。すごい」
どうやら僕たちより適正が高いシエルには、僕たちには見えない本当のアストラル界の姿が見えているようだった。
僕たちはシエルのそばへ行った。もう吸い込まれるような力の流れは消えていた。
《うまくいったと思っていいのかな》
ノーラに聞くと、
《ばっちり。お疲れ様》
ノーラから太鼓判の答えが返って来た。
フェリアが僕の手から、シエルのそばに飛んで行って飛びついた。
僕は二人から静かに離れると、少し距離を置いて彼女たちの様子を眺めた。