第三章 黒い涙、そして、小さな魂(5)
走って辿り着いた先は、光を放つ円盤だった。見覚えがある。これはノーラの円盤だ。
今度こそ間違いない、僕は光に飛び込んで、気が付くと揺らめく空気に包まれて浮いていた。
《ラルフ! 戻ったの?》
ノーラの声が聞こえる。やはりアストラル界だろう。
《ごめん、待たせたね。ちょっと予想外のことがいろいろあったんだ。それで、状況はどう?》
尋ねると、ノーラから届く声の調子が暗く沈む。
《よくないわ。いえ、状況はとても悪い》
《どっちが? どっちも、かな?》
何となくそんな気がした。
《ええ、二人とも、よ。特にフェリアがまずいわ》
ノーラの答えに、やはりな、と思った。
《じゃあ、まずはフェリアだね。大丈夫、任せて。何とかなる》
僕には確信があった。僕がフェリアに伝えた言葉は間違っていないと今でも思う。でもそれはすべてではなかったのだ、今ならわかる。
僕はフェリアを探した。それほど遠くない場所に、黒く靄を出して浮いている小さな姿を見つけることができた。
「フェリア」
僕はそばに行き、声を掛けた。
「あ、師匠……私、だめです」
フェリアはうずくまるように丸くなって浮いていた。どす黒い靄が彼女の全身から湧き上がっていて、それが彼女にまとわりついて蟠っていた。
「私は言ったんです。弱い私に。お母さんを馬鹿にするなって。でも、だめでした」
寒そうに震えている。
分かる。それでは駄目だったのだ。
「お母さんは立派だけど、私はそのお母さんの唯一の汚点なんだって。私は何も言い返せなくて」
そうだろう。それは彼女の誇りではないからだ。僕は彼女を両手で包んで、言った。
「よくお聞き、フェリア。僕がこれから言う事を、よく聞いてほしい」
「……はい。助けて、ください」
フェリアは僕の手の中で頷いた。
僕は周囲を探し、巨大なカオス・スポイルが浮かんでいるのを見つけると、フェリアをそちらに向けた。
「フェリア。見てごらん。何が見える?」
「カオス・スポイル……シエル」
と、フェリアがつぶやいた。僕はそれを聞いて続けた。
「そうだ、シエルがいる。彼女の心はまだカオス・スポイルのままで、苦しんでいる。分かるね?」
「はい」
と、フェリアは震える声で言った。
「私は、フェアリーの自分を、取り戻せませんでした。失敗、したんです」
「そうじゃない。そうじゃないよフェリア。さあ、しっかり目を開いて。もう一度よく見て。あれは、誰だい? 君の何だった?」
僕は努めて静かに言った。フェリアは、震える体で、悲しそうに見つめていた。
「シエル……私の、大切な、友達……」
「そうだ。君に助けを求めている。君の助けを待っている。君は自分の中で自分自身と言い争いをしている場合ではないんだ。君はどうしたい? 彼女をどうしてあげたい? 君の思いを、僕に教えてほしい」
僕はフェリアを包んだ手を広げて、シエルの姿がよく見えるようにした。
「さあ、よく見るんだ。彼女は苦しんでいる。彼女を救えるのは君だけなんだ。君は彼女をどうしてあげたい?」
「私は助けたかった、です。でも」
フェリアはうつむいて、体をまた丸めた。だから僕は選択を突き付けた。
「そうか。君はあきらめる? それでいいかな? それなら仕方がない。そうなると、僕に彼女を救う方法はたくさんはないんだ。君が諦めるなら、僕は彼女を殺すしかないかもしれない。それでいい?」
「やめて!」
フェリアが叫んだ。とても大きな声で。
「お願い、殺さないで! どうしてそんなひどいことが言えるんですか?」
「決めるのは君なんだ。助けるのか、諦めるのか。さあもう一度シエルを見て。君の助けを待っているよ。君はどうするんだ。自分の中で自分と喧嘩して、彼女を見ずに諦めるの? 君はそんなに薄情でいいの? 嫌なら、もう一度彼女を見るんだ。君ではなく」
「やってみます」
弱々しく立ち上がって。彼女はシエルに視線を向けた。するとまたたくさんの黒い靄が湧き出てきて、フェリアはすぐに座り込んでしまった。
「だめです。やっぱり、だめです」
「まだだよ。まだ君はシエルを見ていない。君にはシエルが見えていない。君は君しか見えていない」
「じゃあ」
フェリアは首を振った。
「どうしろっていうんですか」
「覚悟を決めるんだ。何があろうと、シエルを助けると。助けたいと強く思うんだ。それだけでいい。それだけで思いが君を支えてくれる」
僕はフェリアから手を離した。彼女の答えは何となく分かっていたし、これで解決なければ、もう言葉では解決しないことも分かっていたから。
「そんなことは、最初から思っています!」
フェリアは泣き崩れた。
「でも、頭の中でガンガン響く声が、私を迷子にするんです。私は師匠みたいには強くなれないんです!」
「そうか。なら、そこで見ていて。これから僕のすることを。それから、もう一度、自分に何ができるのかを考えてほしい」
そう言って、僕はカオス・スポイルに近づいた。
《それ以上近づくと、危険だけど、やるのよね。あなただものね》
ノーラの声が頭の中に響いた。僕は彼女に答えた。
《分かってしまったからね。君はシエルの中のフェリアの魂がシエルを苦しめているといった。おそらくそれは正しい。けれど、今なら分かる。それは半分正解で、半分間違いなんだ》
そして、カオス・スポイルのすぐそばで止まると、彼女に声を掛けた。気を抜くと体ごと吸い込まれそうな力の流れを、ひしひしと感じた。
「シエル。ノーラは君の中のフェリアの魂が君を苦しめていると言った。でも、そうじゃなかったんだ。君を苦しめている魂は二つあったんだ。だけど一つはもう本人が取り戻すことはできない。だから、代わりに僕が荒療治をするよ」
答えはなかった。彼女にはまだ何も感じられないし、見えないはずだから、当然だ。
「これしかないんだ。だから、君を苦しませている魂の一つを、僕はこれから力ずくで引き抜く。正規の方法ではないだろうから、痛いかもしれない。苦しいかもしれない。頑張って耐えてくれるかい?」
僕がそう言葉を掛けると、
「シエルに手を突っ込むってことですか? そんなことをしたら吸収されちゃいます!」
後ろの方で、フェリアが叫んだ。
「大丈夫、そうはならないよ」
僕は振り返ってフェリアに言った。
「僕は僕自身の意思なんかよりもずっと大きな想いを預かって来たから。本当は、それは君も預かっているはずのものなんだ」
そして、またシエルを見る。
「心の準備はいいかな? いくよ」
答えるはずもないシエルの答えを待ったりはしない。
僕は迷うことなくカオス・スポイルの中に腕を突っ込み、『それ』に心の底から呼び掛けた。悶えるように脈動するカオス・スポイルが、僕の体をものすごい力で呑み込もうとしているのは分かっているけれど、それを気にはしなかった。
「ごめん、シエル。痛いよな」
僕の周りに怪しい靄がまとわりついてきて、何かを見せようとしてくるけれど、その映像は一瞬だけぼやけて見えるだけで、すべて弾けて消えていった。
僕の手が、温かくて、小さくて、優しい手触りの光に触れた。僕がそれに手を伸ばすと、光はひとりでに僕の手の中に納まった。
僕は何もない宙に、足場があると念じて蹴り、自分の体を引き抜いた。僕の体はしっかりと宙を踏んで、カオス・スポイルから離れていった。
片手で持っていた光を両腕で抱え込んで、僕は笑った。
「君の体に、君をよろしくと言われて来たよ」
光は僕の両腕をすり抜けて、背負い袋に勢いよく飛び込んだ。そしてひとしきり中で暴れた後、また勢いよく飛び出してきた。
それは僕の手元に戻ってくると、言葉なく光り続けた。
僕はその光に向かってつぶやいた。
「すまない、助けてほしい。あなたの娘が友達を助けられなくて泣いている。それでは駄目なんだと一緒に叱ってほしい」
光は僕の周りをクルクルと回って、背負い袋の上でようやく落ち着いた。
僕は心強さを感じながら、フェリアのそばに戻った。
「さあ、フェリアの番だ」