第三章 黒い涙、そして、小さな魂(4)
ポータルの先は何もない空間だった。
足元は不思議な感触で、床というのでも、地面というのでもない、何かの上に僕は立っていた。けれど下を見ても足場となるようなものは何も見えなかった。
目に見えない何かに立っている。そうとしか表現できない状況に、僕は戸惑った。
ここはどこだろう。
考えてみる。ノーラの答えはない。ということは、アストラル界に辿り着いたというわけではないのだろう。
後ろを振り返っても、もうポータルは消えていた。戻ることもできないようだった。
どっちに進めばいいのかも分からず、僕は途方に暮れた。立ち止まっている場合ではないのに、次にどうすればいいのかの手掛かりはどこにもなかった。
目を閉じて周囲の匂いを嗅ぐ。
何の匂いもなかった。空気の匂いすら。
次に耳を澄ましてみると、かすかに声が聞こえてくることに、僕は気が付いた。
僕は耳だけを頼りに、足元を確かめながら進んだ。声は少しずつ大きくなり、やがて、前方に、二人の女の子の姿が見えてきた。
見間違えようがなかった。セラフィーナとロッタだ。二人はボロボロで、疲れ切ったように座り込んでいるようだった。
「どうしたの? 何があったの?」
二人に声をかけて駆け寄る。けれど二人は反応しなかった。まるで僕がいることにも気が付いていないようだった。
「うっ」
「あっ」
二人が短い悲鳴を上げる。二人の体に新しい傷が刻まれた。何かに襲われている。僕は周囲の様子を見回したけれど、僕には何も見えなかった。
二人は僕に気づかず、僕からは二人だけが見えている。何となく状況が分かって来た。僕は目に頼ることをやめ、様子の気配だけを探った。
ぼんやりと周囲を何かが取り囲んでいることが分かってくる。大柄な影。熊のように毛深い体。両手の曲刀。これは、バグベアか。二人を取り囲んでいるバグベアは六体。斬れるかは分からないけれど、僕は剣を抜いて、バグベアのうちの一体が二人に飛び掛かるに合わせて振った。
僕の剣がバグベアの気配を斬ると、それはもんどりうって倒れ、動かなくなった。
「何? 何が起きているの?」
セラフィーナが混乱している声が聞こえる。やはり僕の姿は見えないらしい。けれど、僕は確信した。これは僕の夢や幻でなく、彼女たちは今、間違いなく危機的状況にあるのだ。
僕はセラフィーナたちをかばって、バグベアの気配を斬り、押し返し、斬撃を受け止めた。
バグベアたちも目に見えない敵がいることを察知し、混乱しているようだった。
「誰? 助けてくれるの?」
ロッタがキョロキョロ周囲を見回している。
「動かないで。大丈夫、今助けるよ」
聞こえないだろうと思った僕の声に、
「え? いまのって」
ロッタが驚いた声を上げて反応した。
「聞こえるの?」
と聞くと、
「やっぱり、ラルフさんだ。そこにいるの?」
頷きを返してきた。けれど、
「何を言っているの? 気をしっかり持って、ロッタ。誰もいないの。助けはいないのよ」
セラフィーナの言葉から、僕の声は彼女には届いていないことが分かった。
「ロッタ。セラフィーナを落ち着かせて。かえって危ない。状況は分からないけれど」
と、言葉を切って、僕はロッタに飛び掛かったバグベアを倒した。
「バグベアに囲まれているのはこっちでも分かる。二人がじっとしていれば僕が倒すから、無理はしないように言って」
「分かった」
ロッタが答えた。
「お姉ちゃん、バグベアが倒れているのは分かるでしょ? もう二匹も倒れた。私たちには見えないけど、ラルフさんが戦ってくれているの。だからバグベアが倒れるの。じっとしていれば、ラルフさんが今倒してくれるから、大丈夫だよ」
そして、セラフィーナに声をかけていた。なぜこんな場面に遭遇したのかは分からない。けれど、そういう偶然が、未来を繋ぐ鍵になっているのだろう。おそらくこういう事の積み重なりが、ノーラが言う、未来へ続く道なのだ。僕はそう感じた。
左右から、同時にバグベアがセラフィーナとロッタを狙った。僕は僕から近い、ロッタを狙ったバグベアの剣を盾で止め、遠い方、セラフィーナを狙ったバグベアを剣で突き刺した。それから、盾でロッタを狙ったバグべアの体勢を崩すと、そちらも剣で一薙ぎにした。
「強い、強い!」
ロッタがはしゃいでいる。残るバグベアはあと二体。二体はすでに及び腰になっていて、やや遠巻きになっている。二体の距離はほとんど離れていない。僕はこちらから攻勢に出ることにした。
一気に距離を詰め、立て続けに二体を斬り払う。バグベアは二体とも、どうと倒れ、セラフィーナとロッタを取り囲んでいた気配は消えた。どうやら危機は去ったようだ。
「ありがとう!」
ロッタが立ち上がろうとして、
「イタタタタ」
と顔をしかめた。見れば、かなり傷が深い。命にかかわることはないと思うけれど、動くのは無理かもしれない。
僕の癒しの光はフェリアを治療したので限界だったから、もうそれで治すことはできない。かといって僕も魔法を使ったことはない。
それでも試すだけなら只だ。届くかどうかも分からないけれど、僕はロッタに手をかざしながら、サール・クレイ大聖堂で神官たちがやっていた姿を思い出しながら、見様見真似で祈った。
ロッタの体が光に包まれ、傷が塞がっていく。治癒魔法は発動し、届いたようだった。良かった、と奇跡的にうまくいったことを僕は喜んだけれど、その時に、それだけではない感覚に気が付いた。
とても小さな両手が、僕の片手に添えられているような。
(こうするの。できたわね、坊や)
と、そんな声が聞こえた気がした。
驚きながら自分の手を見る。けれど、そこには誰かに手を添えられていたような跡はなかった。
僕はそれから、今度はセラフィーナに向けて同じことをした。今度は誰かの助けを借りたような感覚はなかったけれど、治癒の魔法はしっかり発動した。セラフィーナの傷も塞がり、ようやく彼女もロッタが言っていることが幻覚の類ではないと信じたようだった。
「どういう経緯があったのかは知らないけれど」
僕は、心の中だけであの小さくて優しい手に、ありがとう、僕はもう大丈夫、と思いながら、ロッタに告げた。
「とにかく君たちが最悪の事態にならなくてよかった」
「うん、ありがとう。助かっちゃった」
「ラルフ。いるのね。本当に。私には何も分からないけれど。でも、助かったわ。ありがとう」
二人からお礼を言われて。
「でも、あなたが治癒魔法が使えるほど成長しているとは思わなかった。びっくりしたわ」
セラフィーナの言葉にロッタも激しく頷いた。
「ほんと。すごい、すごい」
「実は今日初めて試したんだ。それに、きっと僕だけじゃ成功しなかったよ」
僕が答えると、ロッタが首を傾げた。
「ほかにも誰かいるの?」
「どう言っていいのかな。僕にも分からないんだ。いるような気もするし。いないのかもしれない。きっと見守ってくれているんだと思っているよ。でも、あまり心配はかけたくないな」
僕は言った。背負い袋の中の砂は動かない。それでいいのだと思う。
「うん、よくは分からないけど、何となく、分かった」
ロッタが笑った。
「なんだか、ぼんやり見えた気がするの。ピカピカな鎧を着た、立派な騎士のラルフさんと、誰だか分からないけど、とっても小さな女の人が見えたよ。とってもいい笑顔で、優しい笑顔で、ラルフさんを見ているの」
「そうか」
僕も笑った。
「そうだといいな」
気が付くと、自分の目から涙が一筋流れていた。生まれて初めて、他人を想って泣いた気がした。
それでも、泣いている場合ではない。僕は涙をぬぐうと、ロッタに告げた。
「実はけっこう急いでるんだ。ごめん、僕は行くね」
「うん、ほんとに、ありがとう。バイバイ」
僕は二人に別れの挨拶をして、その場を離れた。いつの間にか遠くに光が見えていて、僕はそれを目指した。歩いているとまた涙が出そうで。
僕はそれを振り切るように、走った。