第三章 黒い涙、そして、小さな魂(3)
通路を進むと、両開きの扉に辿り着いた。扉の向こうに悪魔がいる、僕にもはっきり感じ取ることができた。
僕はフォーナの砂を背負い袋にしまうと、扉を開けた。部屋の中には悪魔の姿の彫像が並べられ、半透明の天井から赤い光が差し込んでいた。
そこに悪魔はいて、やはり趣味の悪い、髑髏や悪魔の装飾がごてごてと付けられた玉座に座っていた。
体格は人間と同じくらいで、紫色の肌をしている。黒と赤がいびつに混ざった剣を片手で弄びながら、悪魔は僕を横目で見た。
「コボルド風情がわが前に立つとは、不愉快極まりない」
「不愉快だということなら、僕の方が多分勝っている。お互い様だろうね」
僕は悪魔を睨みつけながら言った。
それに。
「虚勢を張るのも大変だろう。そんなに時間はかけない。安心して奈落に帰れ」
僕は言った。悪魔は僕を睨み、口調だけは嘲るように言った。
「コボルドが。我が名を知らぬとは哀れだな。道端の小石が大山の名を知る由もなし、か」
「お前が本当にネビロスなら、僕もこんなに落ち着いてはいられないさ。どうも名前のわりにやることが小物臭いなとは感じていたけれど、本当に小物だったね。騙りは疲れるだろう?」
要するに偽物だ。小悪魔が大悪魔の名前を騙って自分を大きく見せるなんて話はよくあることだ。
「貴様」
悪魔が立ち上がり、剣を振り上げる。
けれど遅い。聖神鋼の剣が、悪魔の剣もろとも悪魔の片腕を斬り飛ばした。
「君ごとき木っ端悪魔に聖騎士が遅れをとるものか。コボルドだからといって、あまり馬鹿にしてもらいたくない」
斬り飛ばした腕が壁に当たり、跳ね返って来た。僕はそれを踏みつぶして、自分でも驚くぐらいにゆがんだ笑いを浮かべた。燃え盛る怒りの炎は、ついに出口を見つけた。
「貴様を、僕は断じて許さん」
「コボルドごときに」
悪魔が片腕を振る。悪魔の前に誰かが転送されてきて、立ちふさがった。杖を持った、エルフの女魔術師だった。様子があからさまにおかしい。
「わ、私は、攻撃の意思は」
血走った目でそう訴えかけてくる。リーベラだった。酷く怯えていて、まともに戦える精神状態でないことは、見ただけで分かった。
「私を守れ」
けれど、悪魔がそう命令すると、意思とは無関係なのだろう、リーベラの体が、その命令に反応した。杖をこちらに向けてくる。
そこから、ひょろひょろと光弾がひとつだけ飛んできた。それは竜の護符の守りに弾かれて、虚しく消えた。
「ばかばかしい小細工を」
僕は大きなため息をついた。
「た、助けてください……私は、戦うつもりなんかなくて、こ、この悪魔が私の体を操っているだけで」
リーベラの懇願に、
「黙ってくれ。そんなことは見れば分かる」
僕は吐き捨てるように答えた。
「君は償わなければならない。その覚悟はあるか?」
「私は、ただ」
この期に及んで言い訳か。僕はリーベラの言葉に心底失望した。
「君に自分の罪を認める勇気がなければ、僕には君を救うことはできない。残念だよ」
僕は、そう言って、リーベラを斬り捨てた。
彼女の目が天を仰ぎ、そして倒れた。
「ありがとう、ございます。やっとこれで」
その瞬間、彼女は言った。やっと正気に戻ったように。彼女もまた精神を侵された哀れな犠牲者だったのかもしれないけれど、その道を選んだのは彼女自身だ。同情する気持ちは生まれなかった。
剣を振り、こびりついた血脂を払う。
僕は悪魔を見据え、
「悪あがきは見苦しいだけだ。観念しろ」
手にした剣を振りかぶった。
そして。
次の瞬間、身の危険を感じて、飛びのいた。
すこしでも遅れていたら危なかっただろう。
玉座ごと悪魔を踏みつぶし、巨大な何者かが乱入してきたのだ。
赤く燃える双眸と、てらてらと光る黒々とした鎧のような体。背中には黒々とした二対の蝙蝠の翼を生やし、その腕には僕の剣よりも長い鉤爪があった。
巨大なそれは、僕を見下ろし、口を開いた。
「なるほど、仔蜥蜴とは思えぬな。なかなか気概があるではないか。これならばあるいは、か。とかく世の中とは愉快なものだな。飽きぬ」
立っているだけで分かる。僕が一人で勝てる相手ではないだろう。それでも襲ってくるというのであれば、戦わないわけにはいかない。
「まあ、待て。私はお前を殺すつもりはない。礼を言いに来ただけだ。安心するがいい。こやつはとかく我が名を騙りながら小事ばかり企て、私の格を貶める目障りな蠅だったのだ。とはいえ、木っ端すぎてなかなか見つからぬものでな、辟易しておったところよ。お前が暴れてくれたおかげで、ようやく私にも所在が見えたのだ」
ということは。
「本物のネビロスか」
僕は息苦しさに潰れた声を返した。伝承とは全く違う。他者を貶めるどころか、圧倒的強者の風格があった。
「然り。だがお前の敵ではない。ゆえに、武器は持たず会っている。お前も剣を収めよ。丸腰の相手に武器を向けることは、お前の聖騎士道ではないだろう。無用な争いは避けるべきであろう?」
言っていることは正論だけれど、相手は悪魔だ。どこまで言葉通りに取っていいのか、僕は意図を測りかねていた。
「すまぬ。かような言葉を並べたとて、我らは水と油、おいそれと信用はせぬわな。そのままで良い。ちと相談があるのだ。聖騎士に聞くのも野暮と感じるが、少々面倒な問題でな」
悪魔が聖騎士に相談。本気かと思った。けれど、その内容を聞いて納得した。
「この迷宮よ。ネビロスの迷宮などと呼ばれているらしいが、かような場所は私はあずかり知らぬ。そこでだ、国に帰ったら、ネビロスの迷宮と呼ばれている異次元の迷宮はネビロスとは無関係であったと報告してくれればそれで良い。そこにはネビロスはいない、とな。ネビロスの迷宮にいつ来てもネビロスがいないとなれば、私の格に関わる」
ネビロスの言いたいことは良く分かった。実は臆病で逃げ回っているとか言われても困るだろう。ただ、大悪魔にしては、随分細かいことを気にするな、と僕は思った。
「約束はできない。だいたい僕の報告くらいでは世の中の認識は変わらないだろう」
「ふむ。それもそうか。あいすまぬ。となれば破壊するが早いか。聖騎士殿、これを持ち帰られよ。悪魔からの貰い物など信用できぬかもしれぬが、必ずお前の助けになると保証しよう。多用せねば弊害もない」
と、ネビロスは僕に指輪を一つ差し出した。
血のように赤いルビーが嵌った、見覚えのない光沢を放つ金属の指輪だった。
「ただし、多用は避けられよ。そうだな、一日に一度、それも一度使用してからは、二四時間は使用を避けるが好かろう。一度使えば無双の膂力が得られるが、お前の魔物の性根を刺激する。多用すれば、お前は魔物の本能のみで動く、正真正銘のモンスターとなるだろう。それから、人間には決して使わせるな。異形の魔に落ちるぞ」
「何故そんなものを僕に?」
と聞くと、
「いずれ分かる。そうだな。共に戦う日を、楽しみにしている、とだけ答えておこう」
ネビロスは指輪を床に置いて飛んで行ってしまった。
悪魔と共に戦う。
どんな事態になればそんなことになるというのか。僕には分からなかった。ノーラに聞いたら分かるのだろうか。
僕はおそるおそる指輪を拾った。特に異変は感じない。けれど、悪魔から渡された指輪など、そうそう使うものではないだろうと思い、荷物の底にしまい込んでおくことにした。
部屋の中を見回す。僕が斬ったリーベラの死体と、ネビロスが踏みつぶした悪魔の死体が、無残に転がっている。悪魔の名前は結局分からなかったな、と僕は思った。
部屋の奥に扉があった。僕はその扉を抜け、奥の部屋に入った。迷宮が揺れ始めている。ネビロスが破壊を始めたのだ。
「早々に立ちされれよ」
はるか頭上からネビロスの声が響き、入った部屋の中央にポータルが姿を現した。迷っていればネビロスに迷宮ごと吹っ飛ばされることは確実だったので、僕はポータルをくぐることにした。