第三章 黒い涙、そして、小さな魂(2)
迷宮の通路は相変わらず単調で。
妨害してくるのは脆弱な亡者たちばかりだった。
けれど、次の階層への階段とか、変化がありそうな扉とかいうものは、なかなか見つからなかった。
「そういえば」
フェアリーが言う。
「私、名乗ったっけ?」
「僕も敢えて聞かないようにしているからね。おそらくこの迷宮を出れば君はまた砂の山に戻るんだろうし、情が湧きすぎると、正直僕もつらい」
ネビロスを倒したら生き返ったとかいうことになれば、話は別なのかもしれないけれど。おそらくそうはならないだろう。
「そっか。そうだよね」
と、フェアリーが頷く。
彼女も分かっているのだ。これは普通の状態ではないと。
「それに、私も、あなたの名前、さっき聞いたのはうっすら覚えてるんだけど、名前が思い出せない。たぶん、今の私は、ちゃんと物が記憶できてないのね。死んでるんだから仕方ないのかな」
「あまり考えない方がいいよ」
また襲ってきた亡者を撃退しながら、僕は答えた。
「考えれば考えるだけ、つらくなるだけなんだ、きっと」
「そうね。ありがとう。あーあ、私が生きてる間にどうしてこういうひとが来なかったのかな」
彼女は半分冗談交じりな声でぼやいた。
「僕が生まれる前の話だからなあ。僕にはどうにもならないな」
僕たちは分かれ道に辿り着いた。まっすぐか、左に行くか。構造的には、上の階から階段から見て、左へ左へまっすぐに進んできたはずだから、どちらに行っても戻ってしまうということはないはずだ。
「まっすぐの先には何も感じないね。左は、すこしひんやりした雰囲気を感じる」
と、フェアリーが言った。彼女にだけ分かる何かがあるらしい。死者が温度を感じるとは思えないから、霊的な何かなのだろう。
「じゃあ、左に行ってみるよ」
なんにせよ、変化がある方向のほうが進展が見込めるだろう。僕はフェアリーに、
「ありがとう」
と礼を言った。
「どういたしまして」
彼女が笑った。
進んでいくと、今度は十字の分岐に辿り着いた。フェアリーは少し目を瞑って、
「今度は、右」
と言った。僕はその言葉に従った。その後も複雑に分岐が続いたけれど、すべてフェアリーはひんやりする空気を感じる方向を教えてくれた。何度も分岐を曲がり、時に行く手を遮る亡者を退けたりしながら、僕たちは進んだ。もうどこをどう進んだのか、自分では把握できなかった。
「うーん、頭が、痛い」
時折、フェアリーはそう言って額を抑えた。僕には何も感じられなかった。彼女が頭を抑える頻度は進むに従い増えて行った。
「大丈夫? どうしたらいいのかな」
死者の痛みの和らげ方はさすがに僕も知らない。つらそうなフェアリーに何かしてあげたかったけれど、僕ができることは何もなかった。
「平気。たぶん不浄な死の影が濃くなってきているせい。たぶんだけど、ネビロスに近づいてるんだと思う。気にせず進んで」
フェアリーはそう言ってぎこちなく笑った。
彼女の状態を見ると忍びないけれど、戻るわけにはいかない。
「分かった。何もできなくてごめん」
僕が詫びると、
「優しいのね。こんなコボルド初めて見た。面白いものが見られたから、こうして目覚めたのも悪くなかったかも」
と、フェアリーは静かに言った。
「良かった。あなたになら娘たちを任せられそう。私もできる限りのことは教えたつもりだけど、たぶん世界に出て生きていくには、全然足りないと思う。だから、今のうちに言っておくね。娘たちを、お願いね」
「約束する。任されたよ。なんたって、彼女たち曰く、僕はフェリアの師匠で、シエルの先生らしいから。僕のできる限りの力で、きちんと彼女たちの力になるよ」
僕はもうひとつフェリアたちに対する責任が増えたな、と気持ちを引き締める思いだった。
「すこし、娘たちがうらやましい」
フェアリーはそう言って笑った。
「私には、そういうひとは、現れなかった。あら、さっきも言ったかしら。でも、気負いすぎなくてもいいのよ。見た限りだけど、あなただって、まだ若いんでしょう?」
「うん、そうだね。気を付ける」
彼女の顔に、ああ、母親なんだな、と僕は思った。
その先も通路の分岐は続いた。フェアリーは痛む頭を抑えながら、それでも何かを感じる方向を指し示してくれた。やがて通路の様子が、石造りの通路から、禍々しくも刺々しい通路に変わっていった。
そしてそれが、完全に真っ黒い、悪の根城を思わせる造形になったころ、フェアリーが言った。
「ごめんなさい、一回止まって」
「どうしたの?」
僕は足を止めて、彼女を見た。フェアリーは僕の前まで飛んでくると、告げた。
「ネビロスの気配が強すぎるかしら。私はこれ以上は行けないみたい」
「……そうなのか」
僕は息をのんだ。まさかネビロスを倒す前にその時が来るとは。その心構えはしていなかったから、僕は少なからず狼狽えた。
「その、どうしたらいい?」
僕が聞くと、彼女は言葉を噛みしめるように答えた。
「布を出して、私を包んでくれる? 頭まですっぽりでいいから」
「分かった」
僕は荷物を降ろし、背負い袋から彼女の砂を包んでいた布切れと、それを縛っていた紐を取り出した。
「何か話しておきたかったこととか残っていないかな。大丈夫? あまりにも突然だから。何かあれば何でも話してほしい」
「大丈夫」
彼女が寂しそうに言った。
「時と場合によってはね、何も聞かないでほしいってことはあるのよ」
そして、また、真っ黒な涙を流した。
「自分が消えるのは怖いの。死んでいても、怖いものは怖い。口に出さないことで心が折れないように必死で耐えているときもあるの。あなたはまだとても若くて、少し難しいことなのかもしれないけれど、優しさというのは、いつも同じ答えが正解ではないの。少しの間だったけれど、私にはあなたが賢い子だということも良く分かった。だから覚えておいて。あなたの優しさは、すこしだけ、残酷だわ」
「気を付けるよ。何をどうすればいいのか、今の僕には難しいけど、考えてみるよ。ありがとう。僕も、君が立派な母親だったんだなって、今、よく分かったよ」
そう言って、僕は布を床に広げた。フェアリーはその真ん中に座って、僕を見上げた。黒かった涙は、いつの間にか透明になっていた。
「頑張ってね」
「ありがとう。でも少しだけ。君が落ち着くまで待つよ。そんなに泣いている君を包むことは僕にはできない」
僕が言うと、フェアリーは首を振った。
「だからそれが残酷なの。落ち着くわけがないでしょ? いつまで待ってくれるつもりなの? 一年? 一〇年? そんなには待てないでしょう? それにシエルが待ってるんでしょう? 覚悟を決めて、びしっとして。私に心配させないで」
「そうだね。そうだった、ごめん。僕は行かなければいけないんだ。ありがとう。本当にありがとう」
僕はそう言って彼女を包んだ。彼女が布の中にすっぽり収まると、砂を包んでいた時のように、僕はそれを紐で袋状に縛った。
「それでも、名前だけは、聞いてほしかった」
布の中から、少しだけ意地悪そうな声がした。僕は答えた。
「ごめん、それは聞かないよ。僕は泣いている場合じゃないからね」
「そうね。そうかもね。でも、勝手に名乗るわ。私は、フォーナ」
フェアリーの声はもう泣いていなかった。僕は、少しだけ答えに迷ったあとで、言った。
「忘れないよ」
「ありがとう、坊や。私の魂によろしくね」
彼女はやはり、僕の名前を記憶できていないようだった。それにしても魂、どういう事だろう。僕には分からなかった。
布を手に立ち上がり、僕は歩き出した。
一メートル。
二メートル。
確実に進んでいく。そして、わずか五メートル歩いただけで、僕はまた立ち止まった。振り返って見る。置きっぱなしになっている物はない。それでも、そのたった五メートルの間で、何かとてつもない忘れ物をしてきたような気分になった。
手に持った布の包みの中の感触は、もう砂の塊だった。