第三章 黒い涙、そして、小さな魂(1)
なるほど、と思った。
ノーラが開いたポータルを抜けると、一緒にポータルに入ったはずのフェリアの姿はなく、僕は石造りの通路に立っていた。通路の両脇には点々を置かれた松明がゆらゆらと燃えていて、松明台にはいかにも悪魔が好みそうな、悪趣味な髑髏の装飾が付いていた。
ネビロスの伝承なら僕もいくつか読んでいる。非常に強大な悪魔で、ネクロマンシーをはじめとする魔術に通じていると言われる悪魔だ。他者に苦痛を与えることを至上の喜びとし、他者を貶めるためには手段を選ばないといわれている。古代から伝承が残っていて、実際にこの悪魔のせいで滅びた王国の話も残っているくらいだ。
「はあ」
僕はため息をついて歩き出した。方々からおどろおどろしい怨嗟の声が時には低く、時には高く聞こえている。
通路はまっすぐで、分かれ道もなかった。しばらく歩くと扉に行きつき、僕が近づくとひとりでに開いた。その先は部屋になっていて、僕が足を踏み入れると、三体の半透明の靄のような人影が襲ってきた。亡者だ。僕は聖神鋼の剣を一振りし、三体同時に斬り裂いた。次元の亀裂さえ斬り裂く剣だ。亡者を斬り倒すことなど訳はない。
部屋には三つの扉があった。正面と左右の壁に一つずつ。背後の扉はいつの間にか消えていた。
迷わず直進する。左右の扉から扉とは違う匂いがしていた。どうせダミーだ。
正面の扉を抜け、通路を進む。通路の先には、下に降りる梯子があった。
梯子を下りると左右に通路が伸びていた。ここから本番というわけか。空気の匂いを書くけれど、どちらも取り立てて目立った匂いはなかった。ひとまず、左に進む。
ただ黙々と迷宮を歩き、時折襲ってくる亡者を撃退するだけの時間が続く。よく言えば危険の少ない、悪く言えば単調な時間だった。
これはこれで一つの嫌がらせのスタイルなのかもしれない。飽き性な人物や迂闊な人物であれば、漫然と歩くだけになりがちになるのかもしれない。五感がそれほど鋭くない人間という種族ならなおさらだ。
でも、こちとら臆病なのを武器に生き残って来たコボルドという種族だ。その手には乗らない。
しばらく何事もなく歩き続けていた僕は、何の変哲もなく見える通路の中で足を止めた。
壁を調べて、工具を取り出す。
ただの石壁のように見えるけれど、実際には奥行きがない薄いただの板が一枚だけあった。それを外し、その中の歯車を一つ外して板と一緒に通路に捨てた。
まあ、要は罠だ。僕は工具を荷物にしまうとまた歩き始めた。
通路にはうすい靄がかかっている。匂いはない。実体のない靄だ。亡者の気が濃いと出るという。
次の瞬間。
背負い袋の中で何かが猛烈な勢いで暴れだした。僕は荷物を降ろし、背負い袋の口を開いた。すると、袋状に縛った胴着の切れ端が飛び出してきた。中で何かがもがいている。
僕は中身が何だったのかを思い出した。
「暴れないで。今開ける」
紐を解く。すると、砂の山だったはずのそれは、間違いなくフェアリーの姿を取り戻していた。薄い水色の、蝶の翅を持ったフェアリーだった。
「なるほど。こうなるわけね」
僕は困り果てた。姿はフェアリーだけれど、間違いなくそれは生者ではなかった。肌は青白く、瞳には光がない。
「どうなったの? ここはどこ?」
それでも意思はあるらしく、フェアリーは周りを見回して狼狽していた。
「ここは悪魔の国に限りなく近い場所らしい。ごめん、僕が君の砂の山を持ち歩いていたせいで、死者である君を不死として呼び覚ましてしまったみたいだ」
僕はそう言って、荷物を背負いなおした。
「あなたは? え? コボルド?」
情報過多で混乱しているようだ。彼女はひとしきり慌てたあと、ばたりと床に落ちると動かなくなった。
「死んでます。本当に死んでるんだけど、死んでます。食べないで」
「食べないよ。僕は人は食べない。エルフも、ドワーフも、フェアリーもね。僕の鎧を見て。ほら、カレヴォス神のシンボルがついているだろう? カレヴォス神に誓って、僕は人は食べない」
僕は笑った。
「カレヴォス神を信仰してるの? コボルドが?」
がばっと起き上がって、フェアリーは驚愕の声を上げた。
「何? ここはカオスの国? 何がどうなってるの?」
「残念ながら」
と、僕はため息をついた。
「ここはネビロスの迷宮だ」
「ネビロス!」
フェアリーが叫ぶ。彼女は焦点の定まらない目で、通路の奥を見つめた。
「思い出してきた。そうだ、サレスタス盆地で、ネビロスのおそろしい企みが。私は捕まって、そうだ。それで死んだんだ」
「うん、聞いたよ。フェリアから、全部」
僕が答えると、フェアリーは、あ、と言って、僕の方に顔を向けた。視線のない目が、僕を見た。
「あの子は無事なの?」
「君の娘さんは、完全に無事と言っていいのかは分からないけど、あのトンネルからは助け出したたよ。君たちを苦しめたインプたちも、もういない。それに、シエルも一緒だ」
僕がそう言って頷くと、フェアリーのうつろな瞳から、真っ黒い涙があふれた。
「ありがとう。でも、コボルドのあなたが、どうやって? それにコボルドなのに、そんな風にまるで騎士みたいな鎧を着て。あなたは一体何者?」
「僕は、ラルフ・P・H・レイダーク。カレヴォス教団の聖騎士だ。とても希少なコボルドの聖騎士だよ」
金の聖印を、荷物の中から取り出して見せる。僕はそして、頷いた。
「君の砂は、どこかで弔ってあげようと思って、持ち運んでいたんだ。こんなところまで連れてきてしまって、ごめん」
「聖騎士……。じゃあ、もしかして」
彼女は顔をさらにゆがませた。僕は頷いた。
「そう。これから僕は、ネビロスを倒しに行く」
「そしたら、私はまた眠れる?」
フェアリーは床から浮かんで、はかなげに笑った。
「死者は冥府の園に」
と、彼女は言った。
「ケリエス神か。フェアリーでは珍しいね」
ケリエス神というのは、死者の神だ。死者の神というと邪悪な神に感じられるかもしれないけれど、そうではない。ケリエス神は生を終えた魂の、その清純さを公平に判断し、死後の魂の行き先を正しく管理していると伝えられている神だ。そのため、その性質は、善でも悪でもない。
ケリエス教団は不死を等しく救い、正しい魂の居場所、冥府へと送ることを教義としている。本当に彼女がケリエス神を信仰しているのであれば、今の彼女の状態は、身を引き裂かれるよりも苦痛で、不本意なはずだ。
「たぶん。この迷宮はネビロスの支配下にあるのだと思う。奴が死ねば盲者の気も散り、魂を持たない死者が不死として目覚めることもなくなるだろう」
「そう。私には、もう神官としての力はないけれど、できることがあれば手伝う」
「大丈夫。ただ、この迷宮はやけに単調で、一人きりだとちょっと退屈なんだ。話し相手になってくれると、助かる」
僕は苦笑しながら、通路の先のほうを眺めた。
「さて、実はネビロスにあんまり時間を掛けたくないんだ。シエルのアストラル体が危険で、できるだけ早くここから出て彼女の所に行ってあげたいんだ。進もう」
そう言って、僕は歩きだした。フェアリーはついてきた。
「何かあったの?」
心配そうに言うフェアリーに、僕は状況を伝えた。
「うん、彼女は今際限なく周囲からアストラル体を吸収し続ける状態になっていて止まらないんだ。それを止める手伝いをしてあげる必要がある」
「そんな……死んでいなかったら今すぐ飛んで行って抱きしめてあげるのに。いえ、今ならもうしかしたら」
生前はすこし慌てんぼうだったのかもしれない。彼女は心配のあまり居ても立っても居られないと言いたげに悶えた。
「駄目だ。それは残酷だよ」
けれど、もしそれが可能だとしても。僕は彼女が二人の前に現れることを、許すわけにはいかなかった。
「それでも君は死者なんだ。彼女たちにもう一度別れの痛みを与えることは、例え君がフェリアの親だとしても、僕は許さない」
はっきりと僕が告げると、フェアリーは僕を見上げて静かになった。