第二章 大氷穴の前で(2)
「でも君は誰も殺していない」
僕は毛布の中のフェリアに言った。
「僕とは違う。君は誰も殺してはいない」
「え?」
と、フェリアが短い声を上げる。毛布がモソモソと動き、彼女は顔を出してくれた。
「君は、相手が悪党だからと言って、ただ許せないという自分の思いだけで殺すのは、正しいと思うかい?」
僕は少し意地悪な質問をした。僕の肩の上で、ムイムが表情を硬くした。
「山賊をたくさん殺して、このムイムを殺しかけて、そしてムイムの仲間だった異次元のひとも殺した。でもね」
僕はフェリアを見下ろしながら笑って見せた。
「僕は僕の精一杯をやったんだ。君も君の精一杯をやったんだろう? それだけのことなんだよ。そして、残るのは結果だけなんだよ。だから大丈夫。君は誰も殺していない。君は怖がらなくていいんだ。僕とは違う」
「でも、あなたの場合、必要なことだったのでしょう?」
フェリアがそう言うので、僕は首を振って見せた。
「僕には分からないよ。ただ僕は僕が助けたいと思った人を助けたかっただけなんだ。君と同じだ。何も変わらない」
「私はそんな風に強い考え方はできません」
フェリアはうつむいた。
そんなことは、当たり前なことなのに。けれど、彼女はそれが当たり前だという事すらまだ知らないのだ。
「それは仕方がないよ。君の世界はあの小部屋の中だけだったんだから。君にはまだ、世の中に触れて、いろいろなことを経験する機会が必要なんだ」
彼女は、人間に拾われたばかりの頃の僕だ。あの頃僕はまだ世界を知らなかったのと同じで、僕が何者になりたいかなんて考えもしなかったように、彼女には自分が何者になれるのかの知識がないのだ。僕は言葉を選んで言った。
「おそらく君のお母さんが正しく導いたのだろうけれど、君はとても優しいから、心配しなくても大丈夫だよ」
「私の母が」
荷物から出てきて、フェリアは僕の目の前に浮かんだ。飛ぶというにはとても頼りなくて、僕が手を差し出すと、彼女はその上に座った。人間の半分くらいしかない僕の手はちょっと彼女には狭くて、僕の三分の一の大きさもある彼女の体は、僕には少し重かったけれど、ガントレット越しに伝わってくる彼女の体温はとても温かかった。
ムイムが肩から浮かんだ。彼はレグゥとボガア・ナガアに何か言うと、二人を引き連れて僕たちから離れて行った。その場には、僕とフェリア、シエルだけが残された。きっと気をきかせてくれたのだろう、と僕はムイムに感謝した。
フェリアは遠慮がちに、続けていいのか、僕の顔色をうかがうように、僕の顔を見上げた。
「大丈夫。嫌なこと、忘れたいこと、全部聞くから。なんでも吐き出してほしい」
だから、僕はそう言って頷いて見せた。
「私の母があの小部屋に捕まったのは、一八年も前だと聞きました。インプたちは、私の母はただインプたちの娯楽のためだけに吊るされた木偶なのだといつも嘲笑していました。その言葉の通り、私が物心ついてからも、やつらがあの部屋にいるときは、母はあらゆる手段でいたぶられていました」
小さな水滴が、僕の手に触れる。フェリアの涙だった。
「私はそうやってできた、フェアリーとインプのハーフなんです。そんな私を母は愛してくれたけれど、やつらはいつも私を指さしながら、お前の腹から出てきた、薄汚れた悪魔だ、と母を馬鹿にしていました。けれど母は、インプたちはいつか報いを受けるから、希望を捨てず、腐らずに生きなさいと、いつも私に教えてくれました。でも」
「ゆっくりで大丈夫だよ」
僕がそう言って笑うと、僕の代わりに、シエルがフェリアの髪を撫ではじめた。彼女も優しい人だ。
フェリアは涙があふれ続ける顔でうなずいた。
「幼い頃から私は、やつらにたびたび部屋の中に解き放たれました。やつらは私に、全員倒せれば母が助かるという挑発をしてきました。私は母を助けたかった。でも、私は戦い方なんか知らず、武器もなく、インプに勝てるわけもありませんでした。いつも最後には、私はやつらに母の前まで引きずられ、私の目の前でいたぶられる母を、見ていることしかできませんでした。そして、やがて母は」
フェリアの声が、半分叫ぶように吐き出される。
「やがて母は衰弱していきました。ある朝目覚めた私は、母がいないことに気が付きました。母がいた場所の下に砂の山ができていて、私は母が死んでしまったのだと悟りました。私と母は別々の檻に繋がれていて、私は母を最期に抱きしめてあげることもできませんでした。私は母を助けられなかった。私を愛してくれた母に、私は何もしてあげることができませんでした」
正直耳をふさぎたくなるようなひどい話だった。けれど僕はフェリアに聞くと約束した。だから目を背けることなく、フェリアを見下ろして話を聞いた。僕の腹の中は燃え盛る炉のようで、今にも出口を求めて爆発しそうな怒りが体中を駆け巡っているのを感じていた。
「ありがとうございます。私と母のために、怒ってくれるんですね」
フェリアが泣きながら笑った。
「こんなにひどい話はない。これで怒らない奴は正真正銘のクズだけだよ」
彼女を乗せていない手で僕が地面を殴ると、
「ありがとうございます」
と、もう一度フェリアは言った。そして、話の先を続けた。
「母が死んだあと、やつらは、私に選択を迫りました。私は半分とはいえインプだから、仲間として認めてやってもいいと言われました。当然私は断固として拒否し、例え魂が腐ったとしてもやつらの仲間にはならないと誓いました。私が拒否するとやつらは私に母にしていたのと同じことをはじめ、度あるごとに仲間になれば勘弁してやると言ってきました。私は、母がどれだけ苦しかったのか、つらかったのか、身をもって知り、そして、最期まで折れなかった母を、心の底から尊敬しました。その想いだけが、今日まで私を支えてくれました」
「あるじゃないか。それが君の強さだよ。君も折れなかった。それは君の強さだよ」
僕が言うと、フェリアは悲しげにうつむいて、首を振った。
「でも」
と、彼女は本当に苦しそうな声で言った。彼女はあふれる涙を何とか止めようとしていて、何度も指で掬っていた。
「心のどこかに、母を救えなかったどころか、自分自身を守ることすらできなかった自分を蔑む私がいるんです。私は最初から母に愛される資格もなかった、薄汚いインプでしかないからなんだって、弱い私が囁くんです」
「それは、君自身が弱い自分に胸を張って言い返してやっていいことだよ。君の素晴らしいお母さんを馬鹿にするなって」
僕は笑った。
「君がフェアリーか、インプかなんて問題じゃないんだ。大事なことは、君のお母さんは、君を愛していたってことなんだ。だから君は、フェアリーだろうと、インプだろうと、そんなことは関係なく胸を張っていいんだ。だって君は、君のお母さんが愛したフェリアなんだから。君のお母さんも、きっと同じことを言うと思うよ」
僕の言葉に、フェリアは息をのんだ。そして、激しくぼろぼろと涙を流した。もう涙を止めようとはしなかった。僕は泣きやすいように、彼女が乗った手を、僕の体に添えた。彼女は素直に僕に縋りついて泣いた。
「そうです。そうでした。なんで気が付かなかったんだろう。あなたの言うとおりです。お母さんは間違いなく私を愛してくれました。だから私はお母さんが愛してくれたフェリアなんだって、私はそれを誇ります」
「そうだよ。それにね、良かったら覚えておいてほしい。僕は君を尊敬するよ。君はとても強いひとだ。僕は君を」
僕は静かに、彼女に告げた。
「フェリアを、薄汚いなんていうやつを、絶対に許さない」
「ありがとう。これしか言わなくてごめんなさい。でも私の精一杯なんです。ありがとうございます」
フェリアは堰を切ったように大きな声で泣いた。僕はやっと彼女が心の底から泣いてくれたと、そう思った。
けれど、僕は同時に、もう一つ気がかりが残っていることに気づいた。
「ごめん」
僕はシエルに向かって言った。彼女の顔は無表情で、それを見た僕は思わず泣きそうだった。
「君の話もちゃんと聞くから。今はフェリアに泣かせてあげてほしい」
「あなたが優しいのは良く分かったから、私はまた時間があるときで大丈夫」
シエルはうっすらとほほ笑んだ。
けれど、その微笑みが、僕にはとても痛々しく見えた。
酷い言い方をすれば、フェリアはまだお母さんがいたから、自分の感情が何なのかを、きっと知る機会があった分幸せなのだ。けれどシエルにはそれすらなくて、自分の感情というものが、上手に処理できないでいるのだと思った。