第二章 大氷穴の前で(1)
レグゥに案内されて大氷穴にたどり着いたころには、すでに日が暮れていた。大氷穴の入り口では、予想通り問題が起きていた。
僕たちを待っているコボルドに対し、ゴブリンたちが接触していたのだ。
「俺たちゃ、新しいボス待つゼ。俺たちゃなあ、お前らがキライなんだよ。お前らは信用できないカラな」
先代ボスの声が聞こえてくる。先代ボスはこの国で使用されている共通言語が喋れるようだった。
僕はレグゥと頷き合うと、できるだけ大股に歩いて近づいた。おほん、と大袈裟に咳払いをする。
「あー。ゴブリン諸君。話はボスである僕が聞こう。何用かな?」
わざとらしく芝居がかった言い方で声をかける。ゴブリンは三人、彼らは僕を見ると、ばつが悪そうに顔を見合わせた。
「いや、すまん。手違いだったようだ。失礼する」
ボブリンの一人が言い、彼らは足早に立ち去ろうとする。僕は彼らを呼び止めた。
「ああ、待ちたまえよ君たち。そんなに急ぐこともないだろう」
そう言って先ほど答えたゴブリンに近づく。それから僕は、彼だけに聞こえるように言った。
「そちらの事情は多少把握している。リーベラに逆らえない理由を教えてくれないか」
すると、ゴブリンの顔色が変わり。足で何かを書き始めた。一見すると意味のない図形だった。
僕は無言で頷いた。
彼が書いたのは、レテロと呼ばれている、言葉が通じないモンスター同士で最低限度の意思疎通を図るために使われてきたという、一種の暗号文字だった。詳しくはないけれど、基本的なサインくらいは、人型モンスターであれば、だいたい子供のころに一度は興味に駆られて自然に覚えるものだ。
「喋るな」
という合図だ。基本系の合図の一つ。僕も指だけで宙に図形を描く。
「了解」
という応答のサインだった。
ゴブリンは自分の服を指さし、それから首を絞めるしぐさをした。僕はレグゥと視線を合わせた。レグゥも頷く。
救われなければならない対象と、怒る理由がまた一つ増えた。ゴブリンたちは魔術的に常に見張られ、命の危険に晒されているのだ。そうやってリーベラは彼らを死の恐怖で縛っていることを理解した。
今すぐに僕が彼らにできることはない。悔しいけれど、僕は彼らをこのまま帰すのが最善と判断した。
ところが、そのやり取りを覗いてみていたのか、フェリアが荷物の中から顔だけのぞかせた。
「待って」
フェリアが空中に複雑に動かす。その軌跡は光を放ちながら図形を作っていき……まずい!
ごめん、ところの中で謝りながら。
僕は慌ててフェリアをつかんで引きずり出し、やめさせた。苦しかったかもしれないけれど、取り返しがつかないことになる前に、すぐに止める必要があった。
「んぎゅ!」
と声を上げて、フェリアは目を丸くした。光は魔法にはならず、消えていった。
僕はゴブリンたちに無言で頷いた。今はまだ説明できない。
ゴブリンたちも僕が言いたいことが分かってくれたようで、胸の前で感謝のサインを示して去って行った。
彼等の姿が見えなくなると、僕はようやくフェリアを解放し、大きく乱れた呼吸を整えてから、彼女を見据えた。気が付くのが遅れていたらと思うと、怖くてたまらなかった。
「ごめんね。君は何も悪くないのに」
「どうして……?」
苦しかったようで、少し怯えた顔でフェリアが僕を見た。
「彼らは監視されていると言ったから」
僕の口からは少し荒い声が出た。確かに僕は腸が煮えくり返る思いだった。もちろんフェリアにではなく、リーベラに、だ。
「彼らに掛けられた魔法を下手に解いたら、彼らの家族や友人が殺される。村を恐怖支配するなら、僕ならそうするし、リーベラがそうしないわけがない。そうやって村人が逃げ出せないようにするんだ」
「そんな、じゃあ……」
フェリアは、ようやく自分が何を引き起こしかけたのかを理解したようだった。泣きそうな顔で震えはじめた。
「君は悪くない。むしろずっとひどい仕打ちを受けていたんだろうに、優しさを持ち続けていることはとてもすごいことなんだ。もちろん、時には優しさには責任が伴うけれど、そんなことをあんな場所で覚えられるわけがないんだ。だから君は何も悪くない。自分と、自分の優しさを怖がらないで」
僕はそう言って、彼女に笑って見せた。本当は頭を撫でてあげたかったけれど、僕の指は鎖帷子に覆われていて、こすれて痛いだろうから、撫でるのはやめた。
「ありがとうございます。止めてくれてありがとうございます」
ついに泣き出してしまったフェリアに、
「大丈夫だよ。乱暴に掴んでごめんね」
僕はそう言葉をかけるのが精一杯だった。
それからしばらくフェリアは泣き続け、疲れたのか眠ってしまった。彼女を荷物の毛布の間に戻し、僕は大きなため息をついた。涙に弱いのは、僕の弱点かもしれない。どうしていいか分からなくなる自分がすこし情けなかった。そして、それ以上にますます怒っていた。
両手を打ち合わせて、気持ちを切り替える。状況をもう一度頭の中で整理した。
今すぐリーベラを成敗しに行きたい衝動に駆られるけれど、オークたちのほうが状況としては深刻だし、調査隊も安否が分かっていない以上、捜索を急ぐ必要がある。僕は自分の怒りをつばと一緒に飲み込み、コボルドたちに僕は顔を向けた。
集まってくれたコボルドは二〇人。多いとは言えないけれど、少ない数というわけでもなかった。
「これから大氷穴の捜索を行う。洞窟の中は僕らの領分だから、心配はいらないと思っているけれど、くれぐれも、滑落、落盤に注意して捜索に当たってほしい。三人編成のグループで行動し、敵対する生物がいた場合、無理に争わず、可能な限り退避を優先してくれ。僕も探索を行うから、全体の指揮は先代ボスにお願いしたい。皆、先代ボスの指示にきちんと従い、身の安全を最優先に捜索を行ってくれ」
僕の竜の言葉で皆に声をかけた。
「一人余るゼ。ボスが一人連れてくのか?」
先代ボスの言葉にうなずいて、僕は言った。
「僕は土地勘がない。ボガア・ナガアは、僕と一緒に来てくれないか?」
「俺行く。ついてく」
ボガア・ナガアは嬉しそうに走って来た。
問題は彼が共通言語を喋れないことだけれど、それはすぐに解決した。
「それであれば私が翻訳魔法を掛けときましょう」
ムイムが無造作に手を振る。ムイムが、
「終わりました」
というと、
「お前すごい! お前の言葉分かる!」
何を言われているのか分からない顔をしていたボガア・ナガアが手を叩いて喜んだ。
「どういたしまして」
ムイムが丁寧にお辞儀をする。
そんなやり取りの中、僕の背負い袋が、ごそっと動いた。フェリアがもう目を覚ましたのかもしれない。一旦背負い袋をおろして僕は中を確かめた。
フェリアは毛布の奥にもぐりこんでしまっているようだった。僕は少し考えてから、考えられることは一つしかないなと、結論づけた。
自分が魔法で大失敗しかけた後に、他人が魔法で役に立って喜ばれている声は、いたたまれないだろう。僕はそう思い、そっとしておくよりもむしろ声をかけてあげるべきだと考えた。
先代ボスに、先に捜索を開始してほしいと頼んだ後、僕は自分の背負い袋のそばに腰を下ろした。
「フェリア。起きているなら出てきてほしい。君が抱えている苦しさも、痛みも、僕はまだ何も知らない。だから僕に君のことを教えてほしい。君が何をしたいかを教えてほしい。君が何をしたくないかを教えてほしい。もしそれを話す相手が僕では駄目なら、そう言ってほしい。だから、ひとりで痛みや怖さを抱え込まないで」
すると、毛布の中から震えた声が返って来た。
「けれど、あのひとたちの大切なひとたちを、殺しかけたのは私です。あなたじゃない。だからきっと、あなたには分からない」