第二章 沼に落ちた竜(5)
翌朝、早めに朝食を済ませ、僕達はレンゼの西端にやって来た。レンゼの西端には桟橋が並んでいて、そこから先は何処までも泥色の沼地が広がっていた。桟橋は石を積み上げた土台の上に、木の板を張り付けてあるもので、上面の凹凸は少なく、しっかりと整備された港の風景を形作っていた。
成程、沼牛だ、と、それを眺めながら、僕は誰に対してでもなく頷いた。ただ、沼牛は、牛は牛でも、巨大な蝸牛だった。
巨大な巻貝の殻の代わりに、人が乗れるような大きな空洞の見えるあちこち穴の開いた殻を薄灰色の殻を持っていて、沼牛乗りはその中から沼牛の頭部に向かって伸びている金属製のパイプがあり、それを通して沼牛を操っているようだった。沼牛乗りは、黒っぽい、鼬か何かのような顔をした獣人系の魔物だった。殻の中にはもう一人、同じ種族の子供が乗っている。
沼牛は沼地に浸かることなく、泥の上を這うように進んでいる。遠目にはゆっくり進んでいるように見えた沼牛は、近付いてくると結構な速度で移動していることが分かった。
桟橋にはほかの沼牛も、沼牛を待つ旅人の姿もなく、僕達が朝一番の出発であることを知ることができる。沼牛を待つべき桟橋は証明札に刻まれていて、迷うことはなかった。
僕達の前に、速度を緩めながら、沼牛が横付けされる。
「大きい」
そうティフェリが声を漏らし、
「うん」
と、グロフィンが答えた。
二人は同じように口をあんぐりと開いて、初めて見る乗り物に圧倒されたように見上げるばかりの沼牛を凝視した。グロフィンは純粋に感動したように見入っていたけれど、ティフェリは少しだけ大きさに恐れを抱いたように半歩後ずさった。
グロフィンがさりげなくティフェリの腰の後ろに手を回して、彼女が桟橋の後ろから沼に落ちないように止め、ティフェリがその腕に自分の手を添えた。
「証明札を確認させてもらっていいかい?」
縄梯子が降ろされ、子供鼬が降りてきた。僕が証明札を見せると、彼、または、彼女は大きく頷いた。
「毎度どうも」
と、咳払いを一つ。それからこんな風に口上を述べるように話し始めた。
「今日は沼牛をご利用いただき、ありがとうございます。乗り手はネッザ、案内役はネッザの息子ラザーが努めます。それから忘れちゃいけない我等が頼もしい沼牛、こいつの名前はエンリテチアです。メルサッタまでは何事もなければ三時間程の旅路となります。生憎沼牛の殻にはお手洗いのスペースが御座いません。途中で二度ほど小高い中洲に寄り休憩にしますので、その時まで我慢いただくことになってしまいますので、不安な方は今のうちにお申し出ください」
子供鼬はラザーというらしい。
「皆大丈夫?」
僕が皆の顔を見回して聞くと、返って来たのは頷きだけだった。僕はそれを見て、代表でラザーに返答した。
「大丈夫みたい。ありがとう」
「承知しました。では、お乗りください」
と、彼は僕達に、縄梯子を登るようにと促してきた。まずグロフィンが先に登り、ティフェリがあとに続く。殻の中に上がったグロフィンは振り返って、ティフェリが縄梯子を登り切るのに手を貸した。
「ありがとう」
そんなティフェリの声が聞こえてくる。
僕がネーラに頷くと、彼女は背中の翼を広げて縄梯子を使わずに登って行った。それを見届けてから、僕も最後に縄梯子を登る。僕が登り切ると、殻の中には、沼牛乗り用の座席の後ろに乗客用の一人ずつ腰掛けられる木製の椅子が二つずつ三列に並んでいて、一番後ろの列にグロフィンが右側、ティフェリが左側に、一番前の左側にネーラが既に座っていた。ティフェリやグロフィンの視線は、早くも殻の隙間から見える景色に釘付けで、子供らしい楽しそうな表情に、僕は思わず頬を緩めた。
僕がネーラの隣に座ると、子供鼬がするすると縄梯子を上がってきて、縄梯子を器用に巻きながら回収した。それが済むと、子供鼬は座らず、沼牛乗りのネッザの背後に立って僕達を振り返った。
「では、参りましょう。ボクは慣れているので平気ですが、まれに大きく揺れることもありますので、お客様方に置かれましては、危険ですので席を立たないよう、よろしくお願いします。本日は泥川の流れも少なく、穏やかであると確認しています。どうかごゆるりと景色でもお楽しみいただきながら、お寛ぎください」
ラザーの口上に合わせ、ネッザが頭上に取り付けられたベルを鳴らす。どうやら沼牛が動き出すことを周囲に報せ、注意を促すためのもののようだ。しっかり運航ルールが出来上がっているのだなと、何となく僕は感心させられた。
「たいしたものだ」
僕が声を上げるのと、沼牛が動き出すのはほとんど同時だった。僕の声にラザーがうっすらと笑みを浮かべ、
「ありがとう」
少しだけ上ずった声で嬉しそうに言った。
動き出した沼牛は、ほとんど振動もなかった。椅子は木製だけれど、背もたれと腰掛け部分には綿のようなものが詰められた布が張りつけてあって、乗り心地は良い。
沼牛はぬるぬると滑るように進みはじめ、次第に速度を上げていく。あっという間に、後方に見えていたレンゼが小さくなっていき、やがて見えなくなった。
殻の隙間から見える景色は、泥の色がほとんどではあったけれど、それが逆に普段あまりのんびり見ることがない非日常的な風景になっていて、ある意味自然の壮大さを感じられる、ダイナミックな景観と言って良かった。
「沼地の生物の襲撃とかがあったりしない?」
ふと気になって、僕はラザーに聞いてみた。彼はにっこりと笑い、答えてくれた。
「進路に巻き込まれたら、たいていの生物は沼牛に栄養分として吸収されてしまいますから、近付く生き物はまずいません。ご安心ください」
「相手も大型の生物だったら?」
僕がさらに問いかけると、
「スメイゴーヴには大型の生物はいません。あんまり重いと普通は沼に嵌って動けなくなりますからね。沼牛はスメイゴーヴで最大の生物です」
ラザーは頷きながら答えた。成程、と、僕は外の風景を眺めた。湿地帯は広く、泥に塗れている。固い地面などないように土壌は湿っていて、足で歩行する生物が生息するには向かないことは見ただけで分かった。
「ありがとう」
短く礼を言う。僕はラザーにそれ以上質問をすることがなくなった。
「どういたしまして。他に質問があればどしどしどうぞ」
彼は柔和そうな口調ではあったけれど、同時に朗らかな声で、僕だけでなく、皆にそう声を掛けた。
「君達は山水鼬だよね? 何でまたこんな湿地帯で暮らしてるの?」
すると、今度はティフェリが不思議そうに、ラザー達自身について尋ねた。山水鼬という名前からして、もともとは高山の水辺に暮らしている魔物なのかもしれない。
「よく間違われます。ボク達は山水鼬の遠縁で、泥土鼬といいます。もともと沼に住んでいて、昔から沼牛を使って漁をしていました。こうやって沼地を渡る交通手段として沼牛で商売を始めたのは、ここ一〇〇年程と歴史は浅いですけれどね。それまでは、パムコルからエルパーグへ出るには、北回りか、南回りの、大きくスメイゴーヴを迂回するルートしかなかったと聞いています」
「へえ」
天井を見上げて、ティフェリは、泥土鼬なんて種族は知らなかった、と、呟いた。それから、天井の真ん中に吊り下げられた石を見ていた。
「陽光石。まだ使ってる土地あったのね」
「おや」
振り返らずに、沼牛を操っているネッザの方が感嘆の声を上げた。
「お客さん、錬金術の知識がおありで」
「ええ。知識があるっていうか、錬金術師よ」
ティフェリが答えると、ネッザは、
「成程」
と、短く声を上げた。
「古臭い、暗くて点灯に時間が掛かる骨董品だと思うでしょうが、これはこれで、通年メンテナンスも交換もいらないから便利ですぜ。発光玉の方が明るくてすぐ点くのも確かですが、あれは交換費用が馬鹿にならないし、こんな大陸の外れまで、なかなか定期的に届くもんでもないですしね」
「そうね」
ティフェリも笑った。
「私も好きかな。陽光石。昼間の光を溜めこんで、夜暗くなると光り出す。風情があるのよね」
そう言われて、それに答えるネッザの声も嬉しそうだった。
「分かりやすか」
「分かるよ」
顔を見合わせることはなかったけれど、ティフェリとネッザは同時に静かな笑い声を上げた。けれど。
次の瞬間、ネッザの笑い声がすぐに消えた。
「なんだありゃ」
そう上がった彼の声には、困惑の感情が込められていた。