第二章 沼に落ちた竜(4)
幸運にも、最初の三日間の旅路は順調そのもので、いまだデブリスの侵入の気配もなく、道程は平穏だった。長距離を歩くことに難儀しがちなティフェリのことは、野外歩きに慣れているグロフィンがこまめにサポートしてくれるのも有難く、そんなグロフィンに、ティフェリ自身も感謝しているようだった。二人の関係も良好で、会話こそ少ないものの、信頼関係は芽生え始めているように見えた。
僕達は途中の町でティフェリ用の背負い袋を買い、古い、背負い紐が切れた鞄は処分した。
アラテアの国内は、ティフェリが言った通り魔物が多い。種族は様々で、獣人から不定形までありとあらゆる姿の旅人を見ることができた。共通点と言えば、街道上で出会う魔物は、姿はどうあれ、皆理知的でおさやかであるということだけだった。
アラテアはほぼ魔物の国とティフェリやグロフィンが教えてくれたが、人間に会わないということはなかった。多くは旅人のようで、アラテアに住んでいるというひとも中には僅かばかりいた。街道上は朝早くから旅人が多く行き交っていて、とても賑やかだった。
道中、僕は行商から全身を覆うマントを買った。草ではなく、獣皮を鞣して作られた、雨具にもなるものだ。理由は、魔物が多い中でも、僕は稀有な見た目らしく、何処の生まれかとたびたび声を掛けられたからだ。いちいち誤魔化すのも面倒なので、体を隠すことにしたという訳だ。
ダートルンからエルパーグまでの道程には、街が三つある。アラテアの都でもあるパムコル、パムコルとエルパーグの間に広く横たわる巨大な湖沼帯、スメイゴーヴ湿地と呼ばれる土地の東端の町、レンゼ。そして、スメイゴーヴ湿地の西端にあるメルサッタだ。おそらくは難所であるスメイゴーヴを抜ける際の休息地として、両端に市街が栄えたのだろう。
ダートルンを出た日の夜は、テントを張ることになった以外、特に変わったことはなかった。それにテント泊といっても、休憩地点として自然に整備されたのだろう広いキャンプ地が道端にあったので、テントを張る場所に困ることはなかった。
他の旅人たちも同様にテント泊をしていて、キャンプ地は夜まで結構賑やかだった。野宿、というのとはまた違った趣だった。獣の襲撃などを警戒するまでもなく、見張りも必要なかった。
そして、翌日には僕達は何事もなくパムコルに辿りき、三日目にはレンゼに辿り着いた。パムコルとレンゼの間には、ティフェリに説明された通り、千年以上昔のものという触れ込みの遺跡が乱立していて、パムコルやレンゼから来た遺跡見学の旅人やガイドが行き交っていた。僕達も何度も遺跡を見て行かないかと、ガイドの売り込みに声を掛けられたものだ。もっとも、僕達は急ぐ旅なのですべて断らなければならなかったのが残念だった。
道中は平坦で、石畳でないながら、道は歩きやすい。それでも結構な距離を歩くことになるというだけで、ティフェリには大変な道中ではあったかもしれない。それでも、荷物を代わりに持ってあげたり、こまめに声を掛けたりと、グロフィンが彼女のサポートをずっと続けてくれたので、僕がティフェリを助ける必要はほとんどなかった。いずれ二人とは分かれ、アースウィルを僕が離れる時が来るということを考えると、二人で助け合ってくれた方が僕としても有難かったので、僕も余計な手や口を挟むことはしなかった。
レンゼで早々に宿を決めた僕達に、宿屋の主人がこんな風に教えてくれた。アラテアでは珍しい、年嵩の人間の男で、顔には深い皺が刻まれているけれど、肌の色は濃く、声にはまだ張りがあった。頭髪の色は剃り上げていて分からない。
「お客さん達、スメイゴーヴは初めてか? なら、沼牛乗りと今日のうちに契約しておきな。そうじゃなけりゃ、数日は足止めを覚悟した方が良い。うちでも斡旋できるがどうするね?」
「徒歩で渡るのは難しいということかな?」
この辺りに詳しくない、と、断って、僕は詳しく聞いてみた。
「スメイゴーヴじゃ泥の川が毎日流れを変えてるからな。決まったコースの道を作れんのだわ。歩いて渡るのは自殺行為だぜ?」
宿の主人がそう言うのであれば、ここは従っておくべきだろう。僕は斡旋を頼むつもりで値段を聞いた。
「価格は?」
「前金で金一〇〇〇、四人で四〇〇〇だ」
宿の主人が答えた。アースウィルには銀貨や銅貨というものがないこともあってか、金の価値が著しく低い。宿に着くまでに町の露店なども横目で眺めたけれど、ただの林檎ですら一個金貨一〇枚といった価格になっていた。
ともあれ、僕達の所持金からすると、四〇〇〇程度であればたいした出費ではなかった。
「なら、今支払おう。斡旋を頼めるか?」
僕はそう言って、なるべく路銀の全容を見せないように、必要な金貨のみを支払った。変に蓄えがあると分かると、法外な値段を吹っ掛けられることもあるからだ。
「出来るだけ、翌日の朝、早い時間帯に出発できる便を斡旋してほしい」
と頼んでおく。
「割り増しとか、価格の相談が必要だと言われたら、二倍とかあまりに割高でなければ応じる」
それだけを告げ、僕達は部屋に入った。レンゼの宿屋は大部屋が少なく、二人部屋を二部屋借りることになった。
普通なら男部屋、女部屋と分けたいところだけれど、それだとレダジオスグルムの一派がティフェリを襲った場合、ティフェリを守れる戦力がいない。結局僕とネーラ、グロフィンとティフェリという組み合わせで部屋を分けることになった。
僕は、しばらく部屋で荷物や武具の手入れをしてから、錬金道具の製作を頼む場合について、もう少し詳細を知っておきたいと思い、剣だけを腰に佩いて部屋を出た。ネーラはベッドに転がっていて、部屋にいると、手だけを振って合図してきた。
日はだいぶ傾いていて、窓から入る外の景色は赤かった。僕とネーラの部屋と、グロフィンとティフェリの部屋は階が違う。僕達の部屋が二階で、グロフィン達の部屋は三階だ。階段を登り、二人の部屋の前に着くと、部屋の中から僅かに声が漏れているのが分かった。何をしているのか、詳細は分からなかったけれど、あまり部屋のドアをノックすべきでない感じの声のように聞こえた。
タイミングが良くなかったようだ。
僕は二人の邪魔はしないことにして、登って来た階段を無言で引き返した。
部屋に戻ろうかとも考えたけれど、ふと外の空気が吸いたくなった。僕はそのまま一階に降り、宿の正面玄関から、通りへ出た。
通りは人通りが多く、僕もその中に程よく紛れて、僕の姿を気に留める者はいなかった。
道行く魔物達や人間達が様々な噂話をしているのが聞こえてくる。その一つに、僕は自然と耳を傾けた。二人の紫っぽい塊としか表現のしようのない物体が、通りの脇の石垣の上で話しているのが見えた。
「なんでも、オラテノアで反乱が起きているて話だ。俺達魔物が正気に戻ったと思ったら、今度は人間同士で戦だと。世の中辛気臭くていけないね」
「ああ、聞いたよ。人間同士が市民そっちのけで戦ってるってさ。それがよ、見たこともない、こんなちびっこい魔物だか妖精だかなんだか分からんもんだけが巻き込まれた市民の安全を守ってるらしいってさ」
そんな話が聞こえてきていた。市民を守っているものというのは、エレカの事ではないかと思う。ラーク達とマザー・アリス教団の争いはもう止められない状況だったのかもしれない。
彼女は彼女で頑張っているようだ。僕ものんびりはしていられない。アラスネスカの灰があるのであれば、最終的には僕もオラテノアには行かなければならないだろう。
「だいたい、マザー・アリス教団の神殿は、どこも聖光が消えて加護を失ってるんだろ?」
「ああ、そうらしいな。何処も同じだって話しか聞こえてこない。見捨てられたんじゃないのか?」
「こんな世の中じゃな。女神様も嫌になるってもんさ。見捨てられたとしても無理はないかもな」
「違いない」
そんな会話の主達の傍に、光の粒のようなものがふわふわと浮かぶように近寄っていく。
「案外、死んだのかもよ」
少女のような声で、魔物達をからかうように言っていた。
「まさか」
「それじゃ、世の中おしまいじゃないか」
おお、嫌だ、考えたくもない、そんな風に言いながら、紫の魔物達は、石垣の向こうに消えて行った。光の粒もそれを追って見えなくなった。
夕焼けが薄くなってきている。夜が近い。
空を見上げて、それを確かめると、僕は宿の中に戻った。
「明日朝一の沼牛と契約しておいた。これが証明札だ」
宿に戻ると、主人に声を掛けられ、木製の札を渡された。礼を言って、受け取っておいた。