第三章 次元世界からの襲撃(3)
大聖堂に戻ると、コーレン司祭は執務室にいた。ローレル閣下は次の予定があるとかで、すでに大聖堂を立ち去った後だった。
「戻りました。姫は所用で交易地区に立ち寄られていただけでした」
コーレン司祭に僕が報告すると、
「ああ、うん、そうかね」
机に向かって誰かの手紙を読んだままの司祭様から戻って来たのは、煮え切らない答えだった。何か状況が変わったのだろうか。
「何かありましたか?」
僕は釈然としない思いで問いかけた。
「そうだね。少し聞いてもらいたい話ができた。時間をもらってもいいかね?」
コーレン司祭は、手紙から顔を上げた。いつになく深刻そうな表情をしていた。
「ええと、私も同席してもよろしいのでしょうか」
エレオノーラが遠慮しがちに言うと、コーレン司祭はうなずいた。
「むしろいてくださらねば困ります。エレオノーラ王女殿下」
「はい、それでは、お言葉に甘えて同席させていただきます。護衛兵士も、退出させなくてもよろしいでしょうか」
一〇才くらいの子供とは思えない言葉がすらすらと出てくるのは、さすがといったところなのだろうか。
「もちろんかまいませんとも」
コーレン司祭は、エレオノーラに答えてから、やっと僕を見た。
「さて、実は、姫君に関して、ほかでもない国王陛下から書簡が届いいてね。それで、ラルフ君に話さなければいけないことができたのだよ」
それから、またエレオノーラに視線を戻すと、コーレン司祭は、書類を指さして言った。
「殿下にお聞きしなければならないことも。まず、ぶしつけながら殿下にお聞きしたいのですが、今回のセレサルご訪問に先んじて、王位の継承権を放棄し、王家からの離脱を表明された、というのはどういう事でございましょうか」
「はい、そのままの意味です、カルダン様。そもそも、私には兄が一人、姉が二人おります。私のところまで王位が回ってくることはないものと存じております。ですから、私が王位継承権を放棄したとて、わが王家になんら影響のないことと、考えております」
エレオノーラは笑顔を崩さずに、何でもないことのように言った。
「それに、お父様も、私は王位の継承権を持つにはふさわしくないと思われていることでしょう。お父様の手紙にはどのように書かれていますか? 夢現の区別のない妄想家ですか? 王国の栄華に影差す不徳者ですか? それとも」
ゆっくりとした口調は変わらない。顔も穏やかな笑顔のままだ。けれど、その言葉には間違いなく棘があり、毒があった。
「おやめください」
コーレン司祭がため息をつく。
「国王陛下はそうやってご自分を追い込まれる貴女様を心配されています。そのように書かれています。無事城に戻れるよう、面倒をみてほしいと」
「ですが、お父様は私の言葉に耳を傾けてはくださらないのです。それがどのような未来につながるのかを申し上げても、取り合っては下さりませんでした。ですから、私も勝手にすることにしました」
一歩も引かないエレオノーラに、
「分かった。僕が話を聞くよ。僕が力になれるかは分からないし、君が抱えている問題が、僕に解決できる問題なのかもわからない。でもひとまず、話は聞くから、僕にも何が起こっているのかを教えてほしい」
僕は、出口のない押し問答に堪えかねて、口を挟んだ。
「お願いだから。最初から、何をそんなに深刻そうに抱えているのか、聞かせてほしい。ちゃんと聞くから」
「ありがとうございます。順を追ってお話しします」
エレオノーラは僕を見て、彼女が抱えている困難を、話し始めた。
「脱線するようですが、まずは私自身のことからお話しします。今から四年前、六才のころに、王宮仕えの魔法使いから、私は、魔法使いの素質があると教えられました。けれど、私は、今日まで、一般的に魔法使いが初歩として覚える、炎や光を灯すといった魔法を成功させたことがありません。そのため、何年も、いくら勉強しても全く魔法が唱えられないままでした。いろいろな分野の魔法を試しては失敗し、を繰り返していました」
そんな状態での魔法の勉強は随分苦痛だったろうなと思う。エレオノーラが年齢よりもずっと大人びたことを言うのも、なんとなく分かる気がした。
「そして、事の起こりは、一ヶ月ほど前のことになります。私はついに自分が唱えられる呪文を見つけました。それは、この物質界と隣接して存在する精神界に触れるという魔法でした。私の才能はとても特殊な魔法分野だけに特化していたのです。もちろん、ようやく勉強が実を結んだことが、その瞬間は、とてもうれしかったです……けれど」
目を閉じて、エレオノーラは、おびえたような顔をした。
「けれど、喜びは長くは続きませんした。突然、私は何者かに襲われて、弾き飛ばされました。その時に、私はその場に呆然と立ちすくんでいる自分の体が、弾き飛ばされる前にいた場所に、微動だにせずに立っているのを見ました。私は精神界で襲われたのです。攻撃してくるものの数は増える一方で、私は自分の存在が抉られるような痛みに耐えながら、夢中で自分の体に戻りました。何としてでも自分の体に戻らなければ、自分の魂が壊れてしまうという確信がありました。そして私は、自分が体に戻れたのかさえ認識できないまま、何もわからなくなりました。私はかろうじて一命を取り留めましたけれど、次に目覚めたのは七日後でした」
「それは……つらい体験をしたね」
僕には何と言っていいか分からず、やっと口に出せた言葉はそれだけだった。一〇才の女の子が経験するには、あまりにも恐ろしいものだ。
「いいえ。ラルフ様、それは最初にすぎないのです」
エレオノーラは、首を横に振って、目を開けた。すこしだけ、うるんだ目で、彼女は僕を見ていた。
「私は、自分が何に襲われたかを、確かめる必要がありました。私の魂は、あの日ひどく傷つけられて、襲撃者に毟り取られた、私の一部は、精神界に取り残されてしまったから、それを取り戻すために」
「……」
なんと過酷な話だろう。僕はもう、相槌を打つことすらできなかった。けれど、エレオノーラの体験はそれで終わりではなかった。まだまだその先に長い話が残されていた。
「私は書籍を漁り、精神界に触れるのではなく、この次元から覗くだけの方法を探し出しました。そして、その呪文を用いて、私を襲ったものの正体を確かめるために、精神界の観察を、何度も繰り返しました。その末に、私は思わぬ存在と遭遇としました。私の前に現れたのは、精神界の平和的な性質の生命体でした」
少しかすれた涙声になりながら、エレオノーラは、言った。
「私を襲ったものは、精神界の生物ではなく、そのさらに向こうの次元からやって来た侵入者なのだという話を聞きました。そして、侵入者たちは精神界を欲しがっているのではなく、精神界を経由し、私たちが住む、この物質界に侵攻することが本当の目的なのだと教えられました」
いよいよもって、話が大事になって来た。この話が本当であれば、まずい状況なんてレベルの問題ではない。けれど、それはそんな漠然とした話ではなくて、エレオノーラの話は続いた。
「精神界と物質界の壁が薄い場所が、その間には存在していること、そこに二つの異界を結ぶポータルの設置が人知れず進んでいること、それが間もなく完成し、異次元の侵略者が、私たちの世界になだれ込んで来ようとしていること、私はそういった危機が迫っていることを知りました。私はお父様に相談しましたけれど、お父様には取り合ってはいただけませんでした。一緒に精神界の状況を一度見ていただければわかるのに、それすらお父様には断わられました。もうお父様を説得しているだけの時間がないのです。それで私は、お父様を、王国を、頼ることを諦めました」
「なるほど……それで協力者を集めたいということかな?」
僕が聞くと、
「そんな悠長な話であれば、どんなによかったでしょう」
エレオノーラは首を振った。
「その、壁が薄い場所が、このセレサルの中にあるのです。すぐに設置中のポータルを見つけて破壊しなければ、セレサルの街に大きな被害が出るのです。ラルフ様、お願いします。どうかそれを防ぐのに、お力を貸していただきたいのです」
それはもはや、僕が聞いても手に負える話ではなかった。エレオノーラが僕に何を期待しているのか、全く分からなかった。
「どうして僕に?」
「それにお答えする前に、もうすこしだけ話を寄り道させてください。精神生命体は、セレサルのどこにそれができつつあるのか、精神界側から案内してくださいました。そのため、ポータルが設置されようとしているだいたいの場所は把握してはいるのです。ですが、私には、ポータルを設置し、この街の破滅を目論む者たちと戦う力がありません」
エレオノーラは、まず、そういったいきさつから、話をつづけた。そして。
「そして、その時に私は、この街で暮らす方々の、精神体である、心の輝きも視ました。その中に、決して強くはないけれど、とても暖かく輝いている精神体を見つけました。精神生命体は、その輝きの主は、人間と相いれないモンスターとして生を受け、人間と寄り添って生きようとしている存在であると、教えてくださいました」
「確かに、そんなモンスターはそうはいないね」
僕がうなずくと、エレオノーラもにっこりと笑った。
「はい。精神生命体はおっしゃっていました。ともすれば未知の者との戦いでは、私が見つけたように、はっきりと他とは違う己を確立している心の持ち主のほうが、希望が持てるものだと」
「そうかな。そうでもない気がするけど」
僕は苦笑いした。そんなにたいそうなものではない僕に、過剰な期待を持たれても困る。
「そんなことはありません。私が情報を集めたところ、思い当たる人物ならひとりいる、とおっしゃった方は、皆様、同じ名前と、同じ言葉を口にされました。『サール・クレイ大聖堂にいるラルフだ。世にも珍しい、誰が見ても、聖騎士になるために生まれたんだ、と納得するコボルドだ』と」
「その評価は素直に光栄だとは思うけれど」
僕は困り果てて、天井を見上げて言った。
「はっきり言って、僕では力不足だと思う。腕のいい冒険者を雇って、その侵略者の野望をくじいてもらうのが正しい選択だと思う」
「はい、ですが」
エレオノーラが反論しようとするのを、僕は首を振って止めた。
「けれど、君の話を聞いて、正直な思いは」
ため息が漏れた。考え直すべきだと頭では分かっている、けれど、こう思ってしまったのだから、仕方がない。
「もし君が、非力な僕でいいというのなら、僕は、やるよ」
「本当ですか?」
エレオノーラの表情に、希望が浮かぶ。
「でもそうは言っても、今回の話は、個人的に引き受けていい規模の問題ではないから、教団の許可、最低でもサール・クレイ大聖堂の許可がないと、勝手には動けないよ」
「それは、そうかもしれません。司祭様、許可をどうかお願いいたします」
エレオノーラが、コーレン司祭をすがるような目で見る。
「殿下の話が嘘だとは思えません。であれば、サール・クレイ大聖堂としては、協力するしか選択肢はないかと。ラルフ君個人というより、我々大聖堂として、協力いたしましょう」
難しい顔で、コーレン司祭が、答えた。