第九章 聖女の決断(6)
ひとしきり泣いて、つらい思いを吐き出して。それからシーヌは立ち上がった。
「ありがとう、もう大丈夫」
「うん。行こうか」
僕も立ち上がって、シーヌの前に立って歩いた。彼女の手を引きたかったけれど、僕の背は彼女の半分くらいしかなくて、かえって危ないのでそれはやめておいた。
それから、二回ほど休憩を挟みながら、僕とシーヌは大空洞を抜けた。指輪で両開きの扉を開けて、長い通路を僕たちは進んだ。
そして、足を止める。僕はシーヌにも、手で止まるように指示した。
脇に並んだ扉の一つが閉まっている。行きに扉は全部開けたはずで、あとから誰かが閉めたということになる。
僕はシーヌをともなって、その扉の手前の部屋には誰もいないことを確認してから、扉の脇に隠れた。
剣を手に、扉を開ける。
すると、僕と同じくらいの大きさの生き物が扉の裏から飛び掛かってきた。
思わず反応して振った僕の剣を軽々と飛び越えて、反対側の壁を蹴る。襲い掛かってくるそいつを凧盾で僕ははじき返した。
通路に立ったそれは床に低くうずくまるようにこちらを伺っていた。
見たことがない生き物だった。体色は茶色く、全身が針金のような剛毛で覆われている。猿のような顔をしていて、手の指には長い鉤爪が生えていた。粗末なぼろを着ていて、シューシューと耳障りな息をしている。
「レダ、ダ、ジオス、ス、グ、グル、ム」
耳障りな声でそれは言った。
「メー、メレイ、コ、コロ、ロス、ス」
何を言われているのかは分からないけれど、少なくともシーヌを危険に晒すわけにいかない。僕はこちらから前に出て、その奇妙な生き物に斬りかかった。左下から、右上に斬り上げる。
それはまた壁を蹴って跳び、僕の頭上を飛び越えようとする。けれどそれこそ僕がそう来るだろうと見越した動きでもあった。僕は振り上げた剣を返し、頭越しにその生き物を真っ二つに裂いた。その生き物は二つに分かれながら、通路の先に跳ね返った。通常の生き物なら死んでいるところだけれど、未知の生き物だけにどれほどの生命力を持っているか分からない、僕は近づかずに、剣を仕舞って弓でそれぞれの塊にとどめを刺した。
いったい何者だったのか。
分からないままシーヌを振り返ると、彼女は不安そうに、震えていた。
「レダジオスグルム」
彼女はつぶやいた。
「今回の侵略者の首魁」
正直気にはなったけれど。僕は剣を収めて、シーヌに首を振った。
「今はあまり考えない方がいいよ。レデウについて、ゆっくり寝て、元気になったらいろいろなことは考えよう。レデウまでは、君が怖いともうものは、全部僕に任せてくれればいい」
「ええ……」
シーヌは頷いた。完全に安心したわけではないだろうけれど、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
通路を進む。前方の扉が開いていた。その中には。
「走れる?」
僕が小声で聞くと、シーヌは無言で首を振った。そうだろう。僕は弓矢を番えて、先制攻撃を仕掛けることにした。狙いを定める。
開いた扉の向こうには、僕の三倍はあろうかという巨体が見えた。その巨躯の上には牛の首が乗っている。ミノタウロス。その化け物はギラギラとした目で僕たちを睨みつけながら、扉を出てこようとしていた。
射る。矢は炎を上げて飛び、ミノタウロスの胸部に刺さった。
二射目。使う矢はまたファイヤーアローだ。
それもまたミノタウロスに当たった。
刺さった二本の矢はめらめらと燃えている。けれど、ミノタウロスは気にも留めずに歩いてくる。
三射目。最後のファイヤーアローでミノタウロスを射ると、一気にミノタウロスの体が燃え上がり始めた。ミノタウロスの足がさすがに止まり、もだえ苦しみながら咆哮を上げた。
その瞬間に、僕は普通の矢を手に、もう一度ミノタウロスを射た。その矢はミノタウロスの眉間に当たり、ミノタウロスは倒れた。
「まだ生きているかもしれない。近づくのは危険だ、行こう」
僕はシーヌに声を掛けて、通路を進んだ。
分岐を右へ。そして、次を左へ。ミノタウロスは追いかけてこなかった。
僕たちは扉を抜け岩をくりぬいた洞窟までたどり着いた。横穴を進む。螺旋通路がある縦穴が見えてきた。マンティコアの死体は焼け焦げ、真っ黒になっていた。別のモンスターを呼び寄せてもいないようだ。
「あれはあなたが?」
シーヌに聞かれ、
「そう。来るときに倒した」
僕は頷いた。シーヌは焼けた死体を眺めながら、言った。
「強いんだ」
「すごく苦戦したよ。正直ギリギリだった」
僕は苦笑いをしながら答えて、シーヌを連れて螺旋通路を登り始めた。縦穴の上に見える空は明るく、今が昼なのだということだけは教えてくれた。
マンティコアが破壊した石柱のところまで登ったところで、シーヌが足を止めた。僕も彼女に会わせて足を止める。シーヌは破壊された石柱を眺めて、それから足元を見た。
何かを見つけたらしく、座りこむようにして、シーヌは小さな破片を拾い上げた。
「鱗だ。あなたと同じ色」
と、彼女がつぶやく。
「こんなに危険な思いをしてまで」
確かにマンティコアにこの場所で鱗をはがされたな、と僕は思い出した。
「私に、そんな価値があるのかな。あなたはこの場所で死んでいたかもしれなかった。そんな危険を冒してもらってまで、助けてもらう価値が、私にあるのかな。レデウにエレサリア様がいて、ガーデン兵はエレサリア様がいれば安心していると、聖宮長に、ガリアスに、言われたの。私なんかいなくても誰も困っていないと。私は皆に何をしてあげられるんだろう。命を危険に晒してくれたあなたに何を返してあげられるんだろう」
僕の鱗を掌に乗せて、シーヌは不安そうなため息をついた。彼女は囚われていた間に相当ひどい仕打ちを受け、また、酷い言葉を浴びせられたのだろう。シーヌは、自信も、自尊心も、信念すら打ち砕かれてしまっているように見えた。
「大丈夫。もしガーデンのひとたちが君を必要としないのなら、僕はそんなことはあり得ないと思っているけれど、君がいなくても大丈夫というのなら、その時は僕たちと一緒に行こう。僕は、僕がしていることが報われたと思うために、エレサリアや君が幸せに笑っている光景を必要としているから、その時は僕たちが一緒にいるよ。正直に言うともう僕は君をあの場所から解放できて、レデウに送り届けることができれば、それだけで十分君からお返しがもらえるんだけど、もし君が僕に何かをしてくれるというのなら、そうだな」
僕は自分の背中に背負った凧盾を手に持って見せた。彼女ならひょっとしたらこの盾のことを知っているかもしれない。
「この通路で見つけたんだけど、この盾をしばらく貸りてもいいかな?」
「その盾」
盾に描かれた半竜半人の生物を見つめて、シーヌが言った。
「私も、聖宮の過去の資料で見たことがある。逸失されたと言われているものだ。たしか、聖者の盾だと思う。単なる盾として使えるだけでなく、構えることで魔法や炎、冷気など様々な属性から身を守る結界が張れるものだと言われている盾。こんなところにあったの。うん、そうだ。貸すなんてとんでもない。むしろ、さしあげます。良かったらずっとあなたに使ってほしいよ」
シーヌの口ぶりで、相当重要なものなのではないかと僕は感じて、素直に受け取っていいのか躊躇った。だから、本当なら、レデウに着いてから、エレサリアにも確認したほうが正しいのだろうけれど、それでも僕は、今すぐに、受け取るかをちゃんと答えべるべきだと思った。
「僕がもらってしまって、問題にならないかな? そのことで君の立場が危うくなったりするのは困るのだけど」
僕はシーヌに聞いた。魔法効果からすると相当貴重なものだ。オールドガイアなら国宝級の代物と言われても驚かないほど、強力な魔法の盾だ。
「私が見つかったって言わなければ平気……なわけないよね。戦場であなたがぶら下げて歩いていたら誰かが気が付いちゃうものね。やっぱり、レデウでちゃんとみんなの前で進呈したほうがすっきりするのかな。考えておきます。すこし、時間をください。とりあえず、レデウまではあなたが使って」
シーヌはそれから、彼女の掌の上の僕の鱗をまた見下ろした。
「その代わり、このあなたの鱗を、お守り代わりにもらっていい? 私にも、命を賭けて助けに来てくれるひとはいるんだって、私にもまだ、それだけの価値があるんだって、思えるように」
「そんなもので良ければ、持っていて。それで君の気持ちが少しでも安らぐのなら」
僕は頷いて、背負い袋から小袋と布切れをを出して、シーヌに渡した。シーヌは鱗を丁寧に布切れで包み、小袋に詰めた。
それから僕たちはまた進み始めた。
そして、石橋の手前まで戻ってきた時に。
突然、僕の竜の護符の目が輝きだした。