命の映写 命の複製
何かを作るとすれば、それは作り手の命を削る行為であり、それは創作物に命を分け与える事と言える。その限られたもので、より多くの物を作るとすれば、より多くの物に命を分け与えた事になる。一つのものにより多くの時間を割くとすれば、それはより多くの命を分け与えられたことになる。何かを作るとは、自身の命を分け与えるという事に他ならない。もし、それに言葉を乗せるとすれば、自身の、命の複製という事だ。
もし、被造物に命があるとすれば、それは生物であるという事だ。作り手とは別の生物であり、作り手その物である。多くの物は、多くの命であり、この世界は命で満ちている。四方に見える全てのものは、誰かの命であり、目を浴びる事で、その命を繋いでいる。多くの物が、目を求めている。その命を繋ぐために、複製されたとして、一つの命として。
命であるとすれば、それは腐り落ちるのだ。日の目を浴びぬ生物は、何時しか腐ってしまう。腐り、落ち、分解されて、地に踏まれ、押し固められる。その地に、耳を傾けて、目を向けて、手を出さないで。分け与えられた命達の、更に別たれた欠片達が、きっと想像する以上に固められている。腐った大地の上に、より少ない物が、腐り落ちないように、多くの日を求めている。
きっと、今までに、幾度となく繰り返されてきたし、これからも繰り返される事。いつまでも、腐り落ちる命を別けるのだ。何時しか、それが本物になる事を願って、ただただ命を削っている。永遠を願い、永遠に叶わない。それを表現するのであれば、希望と言えば良いのだろう。そして、私達は映写機なんだ。