夢から目覚めて
……怖い、怖い、怖い
ただ、ただ、恐怖を感じて走っていた。
或る者は、丸い模様となり、或る者は、黒ずくめの者に殺されていた。
ほとんど塔から出たことのない少女は、城の中を、記憶を頼りに走り続けた。
感じられたのは、誰かの叫び声、何かを焼いている炎の熱気、噎せ返るほどの血の匂い、そして、後ろから迫りくる黒い死の恐怖だけだった。
……もっと速く、もっと遠く
死から逃げる事だけを考え、走り続けていた少女は、今までずっと出たいと思っていた、城の外へ出たことに気づかなかった。
黒ずくめの者たちから逃げ、我武者羅に走っていた時、何かに足をとられ、川に転げ落ちた。
少女にとって、初めての川だ。
勿論、泳ぐことなどできなかったが、必死に手を伸ばし、何かにつかまり、体を浮上させ、荒い呼吸を繰り返す。
その時初めて、少女は外の惨状を見た。
……誰か…
見える限り、黒ずくめの者以外に生きている者はなかった。
視線を落とし、自分が摑まっている何かを、自分がいる川を見る。
つかまっていたのは、人だった。今はもう生きてはいない、人だった。
川は人であったものがたくさん浮いてており、血で赤く染まっている。
大地も同様血に染まり、建物も赤い炎に焼かれ、空すらも血のような暁だ。
……誰…か…
世界は、少女の髪と同じ赤に染まっていた。
《ファロスカルナ》だけが静かに見下ろす世界の中、少女には、いつの間にか川の両岸にまで迫っていた死の恐怖と、この惨状への絶望を、青い瞳から溢れ出す涙に換えることしかできなかった。
それでも、無慈悲に、黒い死の体現者は、同じく黒い、血の滴る刃を振り被り、少女に向かって振り下ろす。
その瞬間、少女――アイリスは、悲痛な叫び声をあげる。
▼▼▼
アイリスは、ハッとして目を覚ました。
赤一色、ではない視界に一瞬戸惑いつつ、すぐに今自分の居る場所を思い出した。
…戦場で呆けるなんて…………寝不足が過ぎるな
砂塵が舞い、爆風の熱気がまだ空気に残り頬をなでる。たくさんの肉塊と化した人間が地に伏している、ここは女系国家と人族国家の戦場の第一線だ。
北方戦線と中央戦線の中間あたりの拠点に居たアイリスは、丁度奇襲を仕掛けてきた人族軍を退けたところだった。
人族の残党が去っていった方向を見つめ、突っ込んでいきたい衝動を愛刀《光芒》の柄を握りしめ堪え、自身の手に目を落とす。
…嫌になる
泥や返り血で汚れた手は、武人を名乗るにはあまりに小さくて細い。汚れの黒さが一層引き立たされる白い肌も、その持ち主の嫌悪感をより増させる。
しかし、彼女―アイリスが他の武人達よりも小柄なのは、仕方のないことだ。まだ14歳の少女であるのだから。
「………あっ、ここに居た! リシィ姉、ザック兄が探してるよ」
戦場には、不釣り合いな幼さの残る少年の声に振り返る。
「……アル、一人で拠点から離れすぎるな。あと、ここでは『団長』な」
「んー。リシィ姉も一人でよく離れてるけどね」
「………アル」
「それより、団長。副長が探してるよー」
金眼が目を引く、この少年はアルフレッド。正直、最近口が達者になり過ぎていると思うが、姿は出会った頃とあまり変わらず可愛らしい。零れ落ちそうな程大きい金色の瞳、瞳のきらめきを全て吸い込むかのような漆黒のさらさらな髪と、対照的な真っ白な肌。12歳くらいに見え、小柄だが、頭部の髪と同色の狼の耳と、尻部の尾が少し大きく見せている。
アルフレッドを見返すと、息を呑むほど綺麗な金色に自分がくっきりと映り込むのが見える。
大きめで垂れ気味の碧眼、柔らかさを孕んだ真っ直ぐな赤髪、体質なのか焼けない白くて華奢な肢体。ここが戦場でなく、どこかの道上ならば、誰もが振り返る、いわば美人といえる部類の容姿だろう。
可愛い人や物を愛でるのは好きだが、どうしても自分のことを、容姿を含め、全てを好きになれないアイリスは、アルフレッドに気付かれぬように、自分自身に顔をしかめる。
………もっと屈強な戦士になりたい
「……………行かないの?」
「んにゃ、戻ろうか。で、ザックはどこだ?」
「こっち」
アルフレッドの催促に、頷いて歩き始める。どこかとは聞いたが、拠点はそう広くない。拠点が見える頃には、目立つ黒髪を持った少年、アイザックの姿はすぐに見つかった。
「………やっと戻ったのか、リシィ。一人で深追いしすぎだ」
「久々にあっちから来てくれたからね」
「答えになってない」
渋面で、声を投げかけてきた少年がアイザック。同じく齢14で、碧眼、黒髪。体つきは意外とがっしりとしていて、かっこい良くて、綺麗な顔立ちをしていると思う。彼は、私の右腕で、副団長を務めてくれている。この拠点で、愛称である『リシィ』の名で私を呼ぶのは、彼だけだ。
拠点内にも、敵味方問わずたくさんの死体があることを確認し、アイザックを見る。
「被害はどの程度だ?」
「被害は予想よりもひどくはない。あっ、いや、そんなことより、本部から招集かかってたぞ。お前、ルカット手元にないのか? なぜか、俺のほうに連絡来てるんだが」
「えっ? 本部から? 噓」
貼り付けてあった仏頂面を崩しながら、慌てて自分のルカットを取り出し、メッセージの数々を見て、思わず呻く。
ルカットは支給品で、連絡用端末だ。形状や性能などはスマホと同じ。名前の意味は、報連相端末。
「うわぁぁ……マジだ。気が散るから、通知音消してたの忘れてた」
「行って来いよ。こっちは、対応しとく」
「ん、行ってくるわ。こっちは頼んだ」
「応」
頼もしく応じてくれるアイザックに、軽く手を振り、車庫のほうへ向かう。
戦車をはじめとした大型車も多くあるが、早く移動することに特化した、一人用自動車があったはずだ。
「あれ? どっか行くの?」
「……ん? アルか。ちょっと本部に行ってくるから、ザックの補佐よろしく」
「りょ。それに、元々、ここには、リカイオスは三人しかいないし、言われなくても補佐するよ?」
「はいはい」
苦笑しつつ、じゃあなと、手を振り、少し歩を速める。
そのままの勢いで、バンッと車庫の中に入っていく。入ってすぐ目に入るのは、大型の戦車。数台ある戦車の間から、ガチャガチャと音を立てて、一人の男が立ち上がった。
「……アイリスか。もっと、静かに入れよ。全く……」
「ナナ兄! 良かった、まだいて。これから本部に向かうのか?」
「……あぁ」
気だるげに答え、道具類を片付け始めた、この人は、ナナキだ。茶髪を後ろで短くまとめている。温かみのあるオレンジ色の瞳が、優し気な印象を与える20歳だ。しかし、戦闘要員ではないのに、体格はいい。技術者も、体を鍛えるのだろうか。
「うん、それで、一人用の使いたいんだけど」
「そうゆーと思って、調整しておいたが……ちょっと待て。あとこれだけ、片付かせろ」
「りょ」
ナナキは、自身の道具を特別大事にしていて、扱うときはいつも真面目な顔をしている。
…剣士が剣を大事にするのと同じか…………それにしても、いつもこの顔してればモテるだろうに
いつだったか、ほかの人と一緒になって、彼女ほしいとかボヤいていたことを思い出して、表情の使いどころ違くない?、とかどうでもいいことが頭をよぎっていると、片付けが済んだのか、ナナキがこちらに合図して、奥に歩き出す。
「こっちだ」
隅の方まで来ると、光で照らされ、紙やペン、道具などが散らかり様が顕わになった机と、木箱に毛布やまくらを置いただけの寝床が見える。一日のほとんどをここで過ごしているようだ。
その横に、二輪車が三台置いてある。要はバイクだ。
「わぁ。面白い形だね。んー……、これは、跨るのか?」
「あぁ、お前はこれ。俺はこっちで行く」
「りょ。でもこれ、形状が違うのはどういうわけ?」
「試行錯誤の結果。詳細は省く」
ナナキは両脇においてあった二輪車を軽く点検すると、すぐにハンドルを握って動かし始める。
「とりあえず出すぞ」
ナナキの動きを見、真似をして動かす。思っていたよりもスムーズに動いてくれる。小さく歓声を漏らして、ちょっと感動する。自転車はあるが、二輪車はまだ見たことがない。
車庫から出すまでに、簡単に操縦法を教えてもらう。
「まぁ、お前なら、何とかなるだろ」
「うわ、出たよ、丸投げ」
出ると、すぐに二輪車に跨る。
エンジンをかけ、出発しようとした時、背後から声がかかる。
「リカイオス殿! ナナキ殿! 何処へ?」
先ほども出てきたリカイオスというのは、アイリスが長を務める団の名前で、団員は全員ファミリーネームが団の名前になるのだ。しかし、リカイオスに敬称をつけて呼ばれるのは、団長である、アイリスだけだ。ちなみに、アイザックとアルフレッドはリカイオス団所属である。
話を戻そう。振り返ると、そこには、死体を抱えた六体のクマを従えた男が立っていた。死体を抱えたクマは勿論、戦った後だからか、男も返り血で汚れている。にもかかわらず、男は笑顔で、手を振ってくる。クマも男も、一様にその瞳は緑色に光っている。
子供が見たら、軽くトラウマ映像ものだろう。
「ドルファー? 何か用か? 今から、本部へ向かうんだが」
「……急ぎでないなら、後にしろ。これから、試運転だ」
「どっちですか?」
……予想はしてたけど、やっぱ試運転なのか
ナナ兄、こういうとこあるからなぁとため息を噛み殺し、ドルファーを振り向き、重ねて問う。ちなみに、彼も一団の長だ。
「死体回収、ご苦労だな。さっきも、魔力を使っていたが、大丈夫か……どうかはまぁ、置いといて、で、何の用だ?」
「心配しかけたんなら、最後まで心配してくださいよ~」
苦笑しながら、紫色の髪を搔いているのを見て、後ろのクマたちを見る。
この世界の人類は、さらに種族と呼ばれる種類に分かれている。
ドルファー、彼は魔女族と呼ばれる種族だ。種を示すのは、髪色。紫は、魔女族だ。
そして、魔女族は、共通の一つの魔法を使うことができる。それが、自身の魔力で魔獣を形作り、それを使役することだ。
彼の場合、魔獣の形はクマなのだ。
「用は……報告は、アイザック殿にしておきます。気をつけて、行ってきてください」
「あぁ、サンキュな。じゃ」
彼は、結構気安い仲だ。堅苦しい言葉なしに、軽く手を振り、すぐエンジンをかける。
「…………っ。うわぁぁああ!!」
…これ、すっごく、気持ちいい!
出発して、しばらくして、運転にも何とか慣れたころ。アイリスの口から零れていたのは、歓声だった。
舗装もほぼ意味をなしていないような、劣悪な状況下の中、二人はそれを意に返さずに走っていく。
「…………上々だな。いくつか、改良する余地はあるけど……やっぱ、あそこを……」
「なんか言ったー? これ、エンジン音がうっさいよー。隠密には向かんね」
個々に好きなように、感想を言い、目的地を目指していく。二人の会話が会話として成り立たないのは、よくあることだ。そんな中、目的地に着くのもまた、よくあることだ。
「腰が、痛ぇ……」
「私も……」
本部の入り口から、ほど近い車庫に適当に二輪車を突っ込み、正面の出入口に向かう。
表情を取りくつろったアイリスの半歩後ろをナナキが追う形だ。正面出入り口の脇の受付に寄る。
「身分証明を」
受付にいた男性の言葉より先に、懐から懐中時計を取り出す。
二人同時に取り出した懐中時計は、銀色に煌めいている。違いは、表面の模様と取り付けてある宝石の種類だ。
アイリスは、オオカミとRの模様で、宝石は赤い石であるレッドベリルだ。
ナナキは、タカとHの模様で、宝石はオレンジがかった赤色とされているが、桃色に見えるサンストーンと、ナナキの瞳の色と同じオレンジ色のカーネリアン。
「はい、お返しします。どうぞ」
一度うなづいて見せ、そのまま入っていく。それなりに人がいて、皆忙しそうにしているにも関わらず、私が通ると、人が避けて行く様はモーゼの十戒さながらだ。
……これだから、本部は息が詰まるんだ
自然ときつくなる、眉間のしわを別の意味でより深くしたのは、後ろからの声だった。
「よぉ、赤狼! 元気してたか?」
「………傀………?…」
オレンジ色の髪が目を引き、額に生えている二本の角が特徴的で、黒眼。振り返って目に入ったそれらに、口をへの字にして応える。
彼の名は、猛虎 傀。猛虎団団長。
彼が呼んだ、赤狼というのは、アイリスの二つ名だ。ちなみに、傀も二つ名持ちだ。
「…………」
「かかかっ。元気そうだなぁ」
「…………そうか、眼科行け」
「んぁ? 五体満足なら、元気っつぅことだろ?」
「常識を学びなおせ、アホッ」
その頃のナナキはというと、初めにあったときに控えめな挨拶をした後は、関わりたくないというように目を合わせようとしない。アイリスに並んで歩き始めた傀の数歩後ろをついてきている。
アイリスも傀が五体満足であることを確認して、気取られぬようにほっと安堵する。が、気取られたようだ。
「なんだ~? 俺の心配でもしてたのか~?」
「してないっ! アホッ!! ウザイッ! バッッ…カじゃない……ちょっ、やめっ…ろよっ!! 肩組むな、傀ッ!!」
傀は、一応18歳だが、結構年齢と見た目に、行動が見合わない時がある。今もそう。ぎゃいぎゃいと、もみ合っていると、ひどく冷めた声がここがどこかをアイリスに思い出させる。
「身分証明をお願いできますか?」
気づくと、かなり奥まで来ていたらしい。この先は、ある程度の身分がなければ、入ることができない。受付員のかなり冷たい目を見、傀に思いっきり肘鉄を打ち込む。受付員に気を取られていたのと、かなりリラックスした状態だったからか、珍しく諸に食らう。
「グッ…ホッ、ゴホッ、ゴホッ」
咳き込む傀には目もくれず、さっきと同様に懐中時計を取り出して見せると、奥へ進む。そういえばと、後ろを振り返ると、ちょうど傀が懐中時計を見せているところだった。めちゃくちゃ咳き込んでいるのを、受付員が心配する声が聞こえる。
彼の懐中時計は、銅色でトラと猛の字の模様で、宝石は目の色と同じ黒色の石、スモーキークォーツ。褐色肌のせいか、どれもとても似合っていると思う。
……いや、そんなことはどうでもよくて。ナナ兄、どこよ?
周囲を軽く見まわしていると、素知らぬ顔で先に奥へはいって行っていたらしいナナキが先の方からこちらを見ている。心なしか、まだかよ?とかいう心の声が聞こえてきそうだ。
…いやいや、なんで先に行っちゃうし
心中で文句を垂れ流しつつ、奥へと急ぐ。傀も慌てた様子で、追ってくるのを確認し、最奥の一部屋前、会議室2という部屋の前に立つ。
三人揃って、懐中時計を胸の前に出すと、部屋の前に立っていた二人の男性のうちの一人が、中に声をかける。
「《獣頭》実行部・第二位、赤狼:アイリス・リカイオス殿。同じく実行部・第三位、黒虎:猛虎 傀殿。技術科・第二位、ナナキ・ホークス殿。ご到着です」
《獣頭》とは、傭兵組織である《ビースト》の中の実力者上位十位の総称だ。《ビースト》は、今まで出てきた人物全員が所属している、大規模な組織だ。今は、戦争という大きな案件を抱えているが、本来は、魔獣討伐やら護衛やら、そういう細々とした言わばクエストといった仕事の斡旋や仕事の窓口になっていたりする。
実行部や技術科といったものは、仕事の種類で分けられた部署のことだ。それぞれ簡単に言えば、実行部は、戦闘要員。技術科は、エンジニアや発明家の巣窟。その他には、商業科(傭兵組織お抱え商団集団)、総務部(事務方で、お偉いさんいっぱい)など。本当は、二科は、後務部という部署でまとめられていたのだが、今は、もっぱら科で有名だ。
赤狼や黒虎といった二つ名は、実行部《獣頭》だけに与えられる名前だ。
「赤狼と黒虎だけ通せ」
「…………?」
部屋の前に立っていた男性の声に、中から返事が返ってくる。
共に呼ばれたのに、除外されたナナキが釈然としないというように顔をしかめる。も、すぐに、元の表情に戻り、行って来いというように、ひらひらと片手を振る。きっと、考えるのが面倒くさくなったのだろう。
「じゃ、お先」
「ん~」
一応ナナキに声をかけて部屋に入る。
「……やっと、来たのか。赤いの、傀」
「ん、戦闘中だったの。仕方ないだろ、クッソじじい」
「右に同じく、だ。リック」
中にいたのは、遅いと文句を言ってくるじじい、いや、男性だった。
紫色の髪で、黄色の瞳。ガタイはいい。まぁ、当然だ。なぜなら、彼は、実行部《獣頭》第一位なのだから。名前は、リチャード・ドラッヘン。二つ名は、黄龍。年齢は、二十代だと思う、たぶん。
加えて、実行部《獣頭》は全員団長と決まっているので、リチャードもドラッヘン団、団長なのだ。
「で、何の用だったんだよ? リック」
「赤いのは、何の用か予想してあんだろ?」
実のところ、呼び出された時から薄々感じていたことだ。少し前、私が大陸に残っている間、リチャードと傀は人族の重要な補給ポイントである、ペジール島の攻略戦に行っていたのだ。
だが、特に結果や経過の報告なしに、本部への呼び出しである。
というか、二人ともいつ帰ってきたのかも定かではない。
「…………ん」
「ここでなら、口にしても構わんぞ。どうせ、すぐに広まる話だ」
「広まる………ペジールで…やっぱ、負けたの?」
意識せずに恐る恐るとしか形容できない動きで、二人を見る。
「あぁ」
何の気なしにそう肯定するリチャードを見て、即座に感情を殺しにかかる。
アイリスは、私はこの戦争を終わらせることに最も執着している。
それは、必ずしもこちらの勝利でなくてもいいという意味だ。
ペジール島は敵にとって重要な基地。押されるか、守られるかで、戦況は大きく変わる。押され始めている今、ペジールを抑えられなかったことは、大きな痛手となる。
だからこそ、今、湧き出てきた感情が、落胆であれ、歓喜であれ、殺さなければならない。
私以外が勝利したいと思っているからではない。感情の正体を知ってしまうのが、怖いからだ。
「実行部の一位と三位がいて、勝利できないなんて…………」
「や、俺らは、戦ってない。船から降りてもないんだぜ? なぁ、リック」
「それって、どういうこと? 交戦はあったんじゃないの?」
私のつぶやきを拾った傀の言葉に、傀もあまり面白くなさそうに答える。その言葉に、私は思わず身を乗り出して、問い詰めにかかる。
それを片手で制して、一言ぽつっと答える。
「ペジール島の勝敗は、今となってはどうでもいい」
「どうでもって…………」
「戦争は、明日付で表面上は終了だ」
沈黙。静寂。驚愕。混乱。混沌。それらが、津波のように襲い掛かってくる。殺す暇もない、感情の濁流に押し流され、やっとのことでまとまった思考も頭の中に留まることなく、口から流れてゆく。
「…………っ。どーゆーことっ!? 人族が言い出すわけないよねっ!? 降伏するわけっ!? 組織はどう動くつもりなのっ!?」
「…………っ。はぁ!? 聞いてねーけどっ!? 誰が言い出したっ!? 条件は!? 国境線はどうなる!?」
傀と同時に息を吸い込み、まくし立てる。疑問やら、文句やら、もう本人も何を言っているのかわからない。脳がショート寸前だ。
リチャードは、静かに二人をじっと見つめて一段落するのを待つ。ちょうど途切れたころを見計らって、冷静に話し始める。
「順に詳らかにしていく。まず、提案してきたのは、人族側だ」
「嘘だっ!! このまま戦争を続ければ、彼らの勝利が濃厚なんだよっ!?」
いまだ思考が冷え切らない私を、再度制止し、再び話し始める。
「わかっている。落ち着け、赤いの。人族がなぜこの提案をしてきたのかは定かではないが、トップが変わった。新たなトップは、自称《先導者》だ。次、降伏とは少し違う。勝敗はつかない形とはなるが、女系は多少不利な条件をのむことになる」
リチャードの話を脳にしみこませながら、前髪を掻き上げる。
「我々、傭兵組織は、一応最初に提示されていた額の半分を報酬を受け取り、もう四半は追々もらうらしい。本格的な交渉は、総務部がやった」
「…………大体は了解した。で、国境はどうなったんだ?」
「ほぼ全線と変わらん。が、リシュタット山脈は譲渡するらしいぞ」
傀の質問に返ってきた応答に、思わず顔をしかめる。
「リシュタット? 結構大きな採石場があるとこじゃない。これじゃ、敗北と変わらないな」
「あぁ、実質な。だが、他のやつの前では、言わんほうがいいぞ」
苦笑を否めない様子でそう提言するリチャードに対し、どう返していいのか分からず少し俯いてから体だけを扉の方へ向ける。
「話は理解した。他にはないんだよな?」
「俺は、もう一つ聞きたいんだが」
傀の発言に、歩き出そうとしていた足を踏みとどまらせる。
「何だ? 傀」
「これの情報は、どこまで広がっているんだ? 明日はどう対応すればいい?」
尤もな質問に、リチャードの返事を待つ。
「上の方では、周知の事実だ。明日は、支給されているルカットで一斉に周知させる予定だ。まだ言わない方がいいだろう」
「「了解」」
今度こそ本当に去ろうと足を動かすと、またも声がかかる。
「待て、赤いの。傀、ナナキを呼べ」
働かない頭では要件が思いつかず、怪訝な顔をしていると、ナナキが入ってくる。
「…………で、何の用ですか?…………」
「て、ん、け、ん。元はと言えば、お前が言い出したことだろ」
「………あぁ、言った、気がする」
「相っ変わらず、ボケっとしてんな、ナナキ」
私を指さして、点検だといったリチャードの行動で何をするのか思い至る。
首元に手を伸ばし、いつも首にあるチョーカーに触れる。三つの石が並んでいるチョーカーは、用途を知らなければ宝飾品だと思うかもしれないが、断じてそういうものではない。
中央の最も大きな石は、緑色。両側に、黄色とオレンジ色の石がある。金での装飾もないことはないが、宝飾品ではない。
私が首にあるチョーカーを見やすくしている間、ナナキはいくつかの道具を取り出し、リチャードも鈴のようなものを取り出す。
しかし、覚えていたのは、そこまでだった。
「…………何の問題もない。きちんと作動している」
気づくと、点検は終わっていて、帰途についている。
傀とナナキと共に、正面の出入り口から出ていた。ぼーっと、地平線を眺めていると、隣から声が上がる。
「ま、なんだ、良かったな? 赤狼。お前は、戦争を終わらせたがってただろ? 終わるな、戦争」
「…………ん」
「なんだよ? 上の空じゃんか」
不満げな声にやっと意識が覚醒し、傀の方を見る。質問の意味ををかみ砕き、理解して応えるために、張り付いたように動かない舌を叱咤して動かす。
「………ん、終わってよかった、と思う。兎に角、これで明日から仲間の生死に気をもむ必要はない、と思う、し」
「歯切れ悪いな、なんか、思ってた反応じゃないな」
「私もそう思う」
いつの間にか、ナナキがいなくなっているな、車庫かな、なんて考えていると、再度横から声が上がる。が、さっきとは打って変わって静かな声だ。
「吐き出しとけよ、聞くやつがいるうちに」
「…………もっと、なんか、変わると思ってたの。もっと、世界が変わると思ってた。でも、今、私は何も変わってない」
「変わる? 戦争が終わっても、始まる前とほとんど変わらない生活に戻るだけだろ。八年前と」
「八年前…………」
恐らく、表情も感情も管理できていない今の私の顔は、酷くこわばっているだろう。
八年前、長らく見なかったあの頃の夢を見た日に、終戦の話を聞くことは果たして偶然なのだろうか。
「よくわかんないが、人が変わるかどうかは、環境や時以上に、心持ちだと思うぞ?」
傀を見ると、傀もまっすぐに私の目を見つめ返す。彼は、本当にどこまでもまっすぐに人を見るからか、いつも彼にどこまで見えているのか分からなくなる時がある。見られたくない部分まで見られていそうで、どこか怖いのに温かみを感じる不思議な感じだ。
「…………傀に正論言われると、ムカつく」
「あ? ひどくね?」
視線をそらして、プイっと顔を背け、憎まれ口をたたく。傀も予想していたようで、茶化すような口ぶりで応じてくる。
…傀には、絶対、素直になんかなってやらない。だから、感謝なんてしてやらない。ゼッタイに!
傀と別れて、ナナキと二輪車に跨るとすぐに、拠点。襲撃の対応に追われて、布団に入ってしまえば、次の日になるのなんて、すぐだった。
私が永遠に、続くと思っていた、戦争は終わってしまった。
私は、素直になんかならない。なってやらない。だから、心のどかで、戦争が永遠に続いてほしかったと思っていたことなんて、言ってやらない。絶対に。言っちゃいけないことだから。