入らない指輪
田崎明日香は行き交う人々を眺めていた。仕事中だったが、わずかな時間が空いた。
田崎明日香の仕事は、ジュエリーショップの店員。アクセサリー類もあるが、エンゲイジ関連の品揃えも多い。
彼女は元OLである。収入はそこそこだったが、何か違う、と感じ、28の時、ジュエリーショップ業界に飛び込んだ。幼い頃から、この手の品は気に入っていた。
それから、10年。ショッピングモールの一画に位置するショップの責任者にまでなっていた。といっても、部下は20代半ばの女性1人。関係は上手くやっている。
この10年、客のエンゲイジリングや結婚指輪の選択協力に夢中になっていたが、自分の左手薬指にはリングはなかった。他人の世話焼いているうちに、自分のことはほったらかしになっていた。この事に最近、遅ればせながら気づいた。気づいて、舌出して、ニヤリ。根は明るい方である。
眺めていた人々の中から、痩せ型の20代後半くらいの男性が店に入って来た。身長は170半ば。顔立ち、雰囲気。おとなし目だ。田崎明日香より、頭一つ高い。キョロキョロしている。
田崎明日香は、背筋を伸ばして応対した。
「どういった物をお探しでしょうか?」
「えーー、指輪です」
「エンゲイジリング、結婚指輪ということでしょうか?」
「あーっ、エンゲイジリングかな」
やはり、覇気がない。もしかしたら、失敗するかもね。田崎明日香は、長年の経験から、直感した。が、それは、田崎明日香の仕事の範囲ではない。しかし、この青年の醸し出す雰囲気には、どこか懐かしさがあった。
「お相手の指のサイズはお分りですか?」
「いや、分からないなぁ」
「身長とかは?」
「157で、中肉かな」
「そうですか。片岡さん、ちょっとこっちまで、来てくれます」と、もう1人の店員を呼んだ。
「この店員が156、7ですね。でも、一回だけ、サイズ直しは、無料です。領収書があれば、お相手の方お一人で来られても、対応します」
「そうですか。で、どれにするかなぁ」
ウィンドウケースを眺め回して、ゴールドの波紋のようなデザインがあしらわれた指輪を選んだ。
現金を受け取った田崎明日香は、領収書を取り出して
「名義はどうします?」
と尋ねた。
「青山啓太で」と言いつつ、どういう字か説明した。
青山啓太。頼りなさも相まって、田崎明日香の印象に残った。
隣では、片岡が紺色のケースに指輪を入れ、小さな黒の紙袋にケースを中に置き、ハートのシールで、袋の口を閉じようとしていた。
青山啓太が口を開いた。
「どうしようかな。袋ごと渡すのかな?」
田崎明日香が、思わず口をはさんだ。
「一番、無難なのは、ケースごと、さっと渡すこと」
「うん」
田崎明日香は、頑張って、と言わんばかりに、笑顔になって、右腕をファイティング。
青山啓太も、思わず、笑顔になった。
彼は店を後にした。
その日の帰り、田崎明日香は久しぶりに行きつけのショットバーに寄った。カウンターの隅に座り、馴染みのマスターとも会話を交わさず、ブルーハワイのチェリーをストローで、弄りながら、大学時代を回想した。
20歳の頃、田崎明日香は軽音サークルに入っていた。高校時代から、割りにモテていた方だ。一年の秋頃までは、まんべんなく男女問わず、無難なく付き合いした。
しかし、冬に入らんとする頃、同じ学年の同じクラスの男子Bの押しが、俄かに強くなっていった。もちろん、前からよく話しはしたが、最近デートの誘いのメールが盛んにくる。2回目までは、何かと理由をつけて、拒んでいたが、3回目で折れてしまった。
デートの時は、話しも面白く、ぐいぐいリードしてくれる。そんなデートが幾度か春先まで続いた。もちろん、お互い好感度、良好であった。
2年になり、1年の新入部員に混じって、2年の男子学生が1人入った。あまり学校に来ないAであった。
やはり、無口だ。
Aは、音楽活動はしなかったが、金曜の昼2時からのミーティングと夜、いや、夜中の部室にはよく顔を出しているようであった。
ある時、昼間の部室で、Aと田崎明日香が会話を交わすことがあった。Aは一度、会話の糸口をつかめば、よく話す男子であった。
会話はいつしか、通信添削で有名なX会の話しになっていた。田崎明日香が、奈良大学付属高校出身である旨、言うと、Aは、もしかして、あすなろつくしさん?と驚き、いつも成績優秀者になってたね、と付け加えた。
Aを部室で見かけるとき、他の部員と談笑する事もあったが、ひとり窓を眺めていることもあった。
そして、夏になった。夏合宿があった。お化け「道」大会があった。1、2年生が男女のペアになり、半円状の夜道を歩き、3年生が途中、所々で脅かすというものである。運動会のダンスの長身の男子ではないが、男と男の組みになる者達がいる中、田崎明日香はAとペアになった。田崎明日香は、嫌ではなかった。
最初の20メートルは、昨晩の鍋の話しで弾んだ。2人とも、お化け大会であることを忘れていた。と、茂みから、3年生がヤマンバのカツラで、大声で現れた。
恐怖で屈み込んだ2人は、臨戦態勢に入った。それでも、恐怖のあまり、田崎明日香は、「あの〜、腕掴んでいいですか?」と丁寧語になっていた。Aの上腕筋は逞しくはなかったが、暖かかった。
夏合宿が終わって、一カ月、Aは部活動には現れなかった。その間、田崎明日香は、Bとつるんでいた。友達か恋人か、グレー。
そんな時、Aから、電話が来た。デートの誘いだった。河原町に、食事に行こうというものだった。
Bと違って、すぐOKした。明白な理由はない。なぜか、YESと言ってしまった。
昼間は、ゲーセンに寄った。田崎明日香は、競馬ゲームをよく当てた。Aが、なんで?と訊くので、田崎明日香は、データよ、と答えた。
「オレ、パチンコオンリーだけど、競馬に転向しようかな。淀の競馬場で、全部、田崎さん通りにベットだよ」と微笑んだ。何よ、それ!と、田崎明日香も笑った。
食事の時には、Aは「明日香って、やっぱり、奈良だから、明日香っていう名前なの?」と目を見て、真顔で訊いて来た。
違うわよ、と田崎明日香はまた、笑った。Aは、言葉の音だけで、思考する所があるらしかった。
しばらくの期間があって、秋ぐちになり、また、Aから、デートの誘いがあった。今度は、スケートとだった。OKした。
リンクに立った時、Aが左手を差し出した。田崎明日香は自然とその手を掴んだ。手袋を介してだが、お化け大会の、上腕筋の暖かさが伝わってきた。
Aは相変わらず、学校にも、そして、部室にも姿を現わすことがなくなった。
そして、携帯が鳴った。Aからだった。しかし、今度はデートの誘いではなかった。付き合って欲しい、と言うものだった。どうして、この人は、0 or1を求めるのかしら。グレーの期間があってもいいじゃないの。
「気になる人がいるの」
好きな人がいる、とは言わなかった。Aも気になる存在であった。
もしかしたら、好きな人は、BよりもAかもしれなかった。
「だれ?」
「A君の知らない人よ」
断られたんだなぁ。言葉に縛られやすいAは、そう考えた。明日香とくれば奈良、という具合である。
Aは、そのまま、携帯を切った。
田崎明日香は、もう一度、電話がくるかもしれないと淡く思っていた。しかし、3年生になっても、電話は来なかった。田崎明日香は、そんなAに、腹だたしさを覚えていた。押し、弱すぎない。もっと、ガンガン来てもいいのよ。時、場所だけど。
Aも、言葉と真意にズレがある事は感じていた。しかし、相手が、1、と言い張るなら、やはり、真意は1であると解釈するしかない。精神の平衡を保つため、Aは、一週間、酒に溺れた。そして、田崎明日香のことを忘れることができた。
それから、2年近く経ち、学部の卒業パーティーが催された。小さな教室である。そして、最後の顔を合わす機会である。
田崎明日香は、Bと共にパーティーにいった。Aの事はBに話してある。
教室の奥の方で、Aら3人がビール片手に笑みをこぼしていた。
田崎明日香はAのそばに近づき、微笑みかけた。
しかし、Aは何の言葉もかけない。10秒か20秒か、あるいは1分か。そんな状態が続いた。なんで、そうネガティヴなの。なんか言いなさいよ、あのデートはなんだったの?お化け大会は?怒りが悲しみに変わっていった。涙がこぼれてくる。耐え切れず、涙を手で拭きながら、教室を飛び出した。
BがAの方を見ていた。おい、追いかけないのか。
田崎明日香は、青い液体の中でチェリーをつつきながら、こんな事を振り返っていた。
似てるのよね。青山啓太って、あのAくんに。
やっばり、押すとこ引くとこ、間違えて失敗するんじゃないかしら。
案の定、4日後、青山啓太は、田崎明日香の店を訪れた。
「この前の青山さんですね。どうなさいましたか?」紋切り型の接客対応を心がけた。
「いや、このデザインが彼女に合うか気になって、買い直してもいいかなと思って」
違う、渡せなかったんだわ。
「青山さん、ちょっとこちらのテーブルに来て頂きます?」
と、田崎明日香は、彼を壁につけられた小さな商談用のテーブル席に招いた。
2人は、椅子に腰掛けた。
「本当は、当店のマニュアル違反なんだけど」と前置きし、
「もし良かったら、教えてほしんだけど、お付き合いして、どれくらいになるんですか?」
「4年かな」
4年か、積み上げたものは、かなり大きい。
「人によるけど、女性はデジタルじゃないんです。アナログ。でも、あなた方の場合、4年の積み上げがある。青山さんのキャラも加味すると、箱ごと渡すんじゃなくて、指輪ごと、薬指をとって、ぐいぐい押し込んで、言っちゃなさい。結婚して下さいって。押し、押しなのよ」
青山啓太は、田崎明日香の直視した。
「やっぱり、僕の思った通りだ。おせっかい焼きのお人良し」
青山啓太は、渡「せ」なかったんじゃない。渡「さ」なかったです。田崎さんの事が気に掛かったから。
そして、青山は田崎明日香の左手をとり、薬指にゴールドの指輪を指に押しこんだ。ぐいぐい押し込んだが、指輪が小さかったのか、薬指の節の部分でとまった。
「僕と結婚してもらえませんか?」
田崎明日香は無表情に下を向いていたが、大粒の涙が節で止まった指輪の上に落ちた。
そして、その涙は金色に光った。