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「お茶、少し冷めちゃったね」
紋奈さんはもう、僕のセーラー服姿を見慣れたのか、普段通りの優しい表情でそう言った。
「僕の方はまだまだ興奮冷めやらぬ、って感じですけどね」
「なになにユウリちゃん、お姉ちゃんの制服着て興奮してるの?」
「盛大に言葉を間違えました」
いや少なからずそういう種類の興奮もあるけれど、あくまで、もさっきまでの一連の――セーラ服を着せられるかどうかという、波乱万丈のやり取りを指して言ったつもりだった。
それに、少なからず緊張もしていた。
紋奈さんと慈恩の姉弟が二人で暮らしているこのマンションの別の部屋に僕も一人で暮らしているから、ほとんど自分の家のような感覚で普段から遊びに来ていた。しかし、こんな風に紋奈さんと二人だけで話すことはほとんどなかったから、なんとなく距離感が掴みきれていない。
「冷めてきたら、ミルクとか入れても美味しいよ」
という紋奈さんのアドバイスを受けて、クッキープレーバーの紅茶に少しミルクを足してみた。
チョコとアーモンドの混ざったクッキーの香りと、ミルクのコクが良く合っていた。
お茶の話を聞いたり、時々イジられたりしてしばらく紋奈さんと話をしているうちに、時々なにかを忘れているような気がした。最近は外出が制限されていて、高校も休みになっているから、慈恩以外のヒトと話をするのは久しぶりで、2メートルの距離を開けているけれど、こうして会話しているだけで楽しかった。
だから、なにかを忘れている気がしても、あまり気にかけていなかった。
あくまでもそれは、この家の玄関が不意に開かれるその瞬間までは、という話ではあるけれど。
「ただいま。あ、紋奈も帰ってるんだ。もうまじ聞いてくれよユウリ。せっかく今日から塾通い出したのに、明日からは休みになりますって言われて――あれ? 部屋にいないのか。おーい、ユウリ? リビングにいるの?」
玄関を開けて帰ってきたのは、忘れていたけれど、僕が帰りを待っていた慈恩だ。
そう。
忘れていたけれど。
僕は紋奈さんに紅茶を入れてもらって、雑談をしながら、慈恩の帰りを待っていたのだ。
紋奈さんの高校生時代の制服を着て。
「ちょっと待って。慈恩、部屋で待ってて」
となるべく平静を装って玄関の方へ声をかける。
「おお、わかった」
今のうちに着替えなければ。
「あれ服は……」
あたりを見回していると、「どーするのー?」と意地の悪い笑みを浮かべて紋奈さんが僕の顔を覗き込む。
「ユウリ、着替えは慈恩の部屋じゃないの?」
「あ」
少し時間が止まったような感覚に陥った。しかし、実際には着実に時計の針が進んでいる。止まっているのは僕の思考だけだ。
「ってこれ、ユウリの服じゃん。ちょっとお前なにしてんの」
慈恩の声が聞こえる。
そして、部屋からリビングに向かってくる気配がする。
「待て待て待て」
と反射的に言ったものの、その抵抗も虚しく、リビングの扉が開かれる。
「あぁああ!!」
「あぁああ!!」
僕と慈恩は、同時に叫び声を上げた。
「こらー、大声出したら飛沫が飛ぶから駄目だよ」
と、すべての原因を作った紋奈さんが、今の僕たちの感情からはすごく離れた位置で、今の世情としてはとてもまっとうな注意をした。