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極彩色の食卓 停電の夜の余暇話

挿絵(By みてみん)


 その夜、予定より少し早く台風が到来した。


 ぱん、と弾けるような音が外から響いたのは、夜もすっかり更けた頃。

 うつらうつらと眠っていた燕は突然の音に驚いて、目を覚ました。

 聞こえてきたのはベッドのきしむ音に、雨の音、そして激しくうなる風の音。

(夢の……続きかと)

 燕は肩で息をして、額に浮かんだ汗を拭う。

(雨?)

 つい先程まで、溺れるような息苦しい夢を見ていた。そんな燕を現実に引き戻したのも、水の音だ。

 少し落ち着き顔をあげると、辺りが一面薄暗い。寝る前に消し忘れた電気がすっかり落ちているのである。

(……停電……か?)

 暗闇の中、電気のスイッチを探り当てて押すが、反応はなかった。

 車庫の一角に作られた燕の部屋は闇に染まり、風の音と叩きつけるような雨の音が煩い。

 呻くようなその音は、時折家を激しく揺さぶる。古い家なので簡単に揺れるのだ。

(……台風が来たんだな。もう10月も終わるのに)

 燕は乱れた髪を押さえて考える。

 昨夜より雨と風が強かった。町の防災カーが台風の到来を告げながら巡回していた。

 台風は早朝に最も接近する……そのはずだった。

 燕はそっと部屋を見渡す。この家には時計がないので、はっきりとした時刻はわからない。ただ、この気だるいような薄暗さは、深夜よりもう少し遅い時刻だと思われた。

(台風の到着、早まったのか……)

 燕は慎重に部屋を出て、2階のリビングに繋がる階段を登る。

 リビングに続く扉を開けると、燕の目を青色が包み込んだ。

 ……雨の光に包まれたリビングは、深海の底のような重苦しい青さに染まっている。


「律子さん?」


 そんな部屋の中へ、燕は恐る恐る声をかけた。 

 リビングから、かすかに人の気配がする。

「律子さん、起きてるんですか?」

 夜型の彼女は、いつもなら深夜を回っても平然と起きている。それでも昨夜は「今日は早く寝る」……などといっていたはずだ。

 『台風が怖いもの』などと、心にもない言葉を平然と言っていた。

(約束通りおとなしく寝てくれていたら、いいんだが)

 しかし、燕の期待はすぐさま裏切られることとなる。


「燕くん!」


 跳ねるようなその声は、キッチンの窓のあたりから聞こえる。

 そちらに顔を向けると、雨で光る窓の側に人影が見えた。

「……確か、早く寝るって、そう言いましたよね」

「寝たの。寝たのよ。でも音がうるさくって」

「律子さん」

 苛立ちを抑えた燕に向かって、黒い影が手をふる。

 その手に筆らしいものが握られているのをみて、燕は痛む頭をそっと押さえる。

「何を……描いてました」

「街路樹が揺れるのが面白くて。街頭の光がね、緑に混じって、それでね」

「街路樹? 窓に近づいて?」

「だって、雨で窓を開けられないから。外を見るには窓に近づくしかないのだもの」

 しかし、平然と、彼女は返した。

 だから燕は長い溜息をつくこととなる。

 


 竹林律子。20数年前に一世を風靡した天才女流画家。

 今は現役を退いた彼女の家に、燕が転がり込んだのは2ヶ月前。夏の終わりのことである。

 家兼アトリエは、古くて広い三階建の古いビル。世を捨てた彼女は、一人でこの家に暮らしていたのだ。

 彼女は行き場をなくしてさまよう燕を拾い、そして一つの条件を出した。


 毎日の食事を作るかわりに、この家に住まわせる。


 ということだ。

 いくら歳を重ねているとはいえ、まだ若い男を安易に招きいれるのは軽率にすぎる。

 しかしそんな些細なこと、律子は気にしない。

 燕もまた、そのような倫理はとうに捨てている。

 燕は食事を作って、律子の腹を満たす。そのかわりに住む家を、温かい寝床を与えられる。

 律子は生活を与える代わりに、燕の絵を思う存分スケッチする。

 つまり、二人の関係は打算的で、案外うまくいっていた。

 行き場所を失い、ただ水没するばかりだった燕がようやく息をつけるようになったのは、律子のおかげだ。

 この家に住み着いて早、2ヶ月近く。

 燕は彼女の味の好みを完全に把握した。

 しかし絵に奔放な彼女の性格を、まだ燕はつかめずにいる。



「良い絵は描けましたか?」

「ええ。明日になったら燕くんにも見せてあげるわ。とてもかっこいい絵が描けたから」

 燕のトゲのある言い方にも、律子は気づかない。

 相変わらずの上機嫌な笑顔だ。

 こんな台風の夜に窓に近づいて絵を描くなど、普通は誰もしない……律子以外は。

 目の前に面白いものがあれば彼女の腕はすぐに動く。筆を握らずにはいられない。

「……律子さん、怪我はしてないですか?」

「ええ。平気」

 心配し、注意をしたところで、彼女がその言葉を聞き入れることなどないのである。

「こんな夜に窓に近づかないでください。ガラスが割れたらどうします。早くこっちに来てください」

 だから燕は諦めて、窓の側から離れるよう手招くだけだ。

「ええ。でも……不思議なくらい青くて、目がよくみえないわ……電気が急に落ちたから」

「停電ですね。街灯も他の家も……全部、光が落ちてる」

 燕は窓の外を見る。いつもは一日中灯っている外の街灯が消えていた。

 斜めに吹き付ける雨と風のせいで、街灯や街路樹は苦しそうに揺らぎ、電線が波のように揺れている。

 電灯の代わりに、不思議と雨が光っていた。そのせいか、2階は燕の部屋より明るい。

「だから動かずにずっとここにいたの。きっと燕くんが来てくれると思ったから」

 律子はゆっくりとこちらに向かって進むが、なにかに足を取られたようにバランスを崩しかける。

「何か踏んだわ」

「だから床は片付けましょうって、僕はあれほど」

「電気がついたら考えてみるわね」

 彼女がそう言った瞬間だ。


「あっ」


 律子の口から小さな悲鳴のような、驚愕するような、そんな声が漏れる、

 同時に、激しい風が吹き、窓が大きくきしんだ。揺れた。

「律子さん!」

 燕は数歩分を駆け、律子の腕を取る。彼女の体をすぐ側に引き寄せた瞬間、窓に黒い影が広がる。それは、窓に阻まれてゆっくりと落下していった。

 ……それだけだ。飛んできた枝でも窓にぶつかったのだろう。

 窓は割れなかったようだが、その表面を滝のような雫がとうとうと流れていた。

「大丈夫ですか? 怪我は? どこか痛めたり……」

「大丈夫。びっくりしただけ……あ」

「怪我ですか!?」

 律子の小さな声に燕は急いで彼女の顔を覗き込む。

 しかし、律子はご機嫌な笑顔で燕を見上げるのだ。

「探してた塗り絵の本、こんなところにあったわ。探してない時のほうが見つかるって本当ね」

「は?」

 彼女が手にしているのは、大きな本のようなもの。

 先程の騒ぎで机に体がぶつかり、机に乗せられていた本が何冊か落下した。その中に、目当てのものがあったのだろう。

 彼女は燕の冷たい目線にも気づかず、楽しそうに本を撫でている。

「せっかく見つけたのだし、塗ってみましょうか。塗り絵、真っ暗な中で塗ったら福笑いみたいにならないかしら……って……思って……」

 燕の冷たい目線に気づき、律子の声がどんどんと小さくなった。

「なりません」

 冷たく、燕は言い放つ。

 一瞬浮かんだ怒りは、しおしおと燕の中で萎れていった。

(怪我をしたらどうするんだ、手を……)

 彼女の小さな手を見て、燕は言葉を飲み込む。

 小さく、年相応の皺もある手だ。この手で彼女は驚くほどの色彩を描く。

 その色は、絵は、線は、まるでこの手から生み出されるようだ。

 しかし、彼女はいろんなことに無頓着だった。ちっとも、自分の手を大切にしない。

 む。と黙り込んだ燕を、律子が恐る恐る覗き込む。

「なにか怒ってる?」

「別に……ただ、怪我をしたのかと」

「平気よ。燕くんは心配性ね。でも、ありがとう」

 律子はからからと笑うと、平然と立ち上がった。

 律子には、こういうところがある。燕の心配を、さらりと流す天才だ。

 そして塗り絵の本を大事に抱えたまま、天井や窓を見つめた。

「電気、付かないわねえ」

「……無理そうですね。この雨と風じゃ」

 電気の落ちた部屋は、相変わらず水底のような青暗さだった。

 雨光の妙な明るさが窓から差し込んでいるが、それでもお互いの顔がぼんやりと映る程度には暗い。 

 律子の顔も髪も、薄青くそまっている。まるで、夢の続きのようだった。

 ……今宵、燕は水の中に沈み込む夢を見ていた。

 一人で溺れる夢を見ていた。

 救いもなく、ただただ水底に、一人で沈む夢を見た。

 ……水上は美しい世界。

 しかし、そこに二度と燕は上昇できないのだ。暗く青い水底に、沈むだけ……そんな、夢だ。

 台風の音と、雨の寂しさがそんな夢を見させたのだろう。

「真っ暗というより、ぼんやりとした青ね」

 冷たい空気の中、風と雨の音だけが不自然に響く。

「海の底みたいな……寂しくて冷たい青。でも落ち着く青……」

 色を塗りたくなったのか、律子の目は筆を探している。その妄執を諦めさせるように、燕は律子の腕を引いた。

「……動き回るのも危ないですね」

 もともと家具や画材が散らばるこの部屋は、明かりがついていても歩きにくいのだ。二人は用心してリビングの真ん中にたどり着いた。

「どうせ深夜ですし、このまま寝てください。窓は……割れてないと思いますが、明日見ておきます」

「燕くん」

 しかし、律子はそんな燕の気遣いになど、どうせ気づかない。

「私、お腹が空いたわ」

 平然と、彼女はそう言い放った。



 彼女の食欲は一度火が付けば留まることを知らない……ということは、この家に住みはじめてすぐに学んだ。

 彼女は絵を書き始めれば寝食を忘れるが、手を止めた途端に食べはじめる。絵に吸い取られた生気を取り返すように、だ。

 そして彼女に食事を求められたなら、燕は自然にレシピを思いつく。そして体はキッチンに向かう……そんな習性が、すでに出来上がりつつあった。


「夕飯は食べましたよね。親子丼を、おかわりして。味噌汁も3杯」

「食べたけど、深夜ってなんだかお腹がすかない? 夜食ってすごく素敵だわ。特に、こんな特別な嵐の夜に」

 うっとりとつぶやく律子を無視してコンロの前に立つ。そっとスイッチを押し込むと、きれいな火花が闇に弾け、やがて軽い音とともに火が噴き出した。

「……火は使える、と」

 手元がじんわりと暖かくなる。真っ暗な中、赤と青の光が美しかった。律子が炎の色に興味を持つ前に火を落とし、燕はため息をつく。

「ただ停電なので、レンジは無理ですね。それに暗い中で包丁を使うのはちょっと嫌ですし……」

 続いて冷蔵庫を覗くが、そこは当然のように暗色だ。いつもなら薄く光る庫内が、今は音もたてない。

 詰まった食材はまだ冷えているが、

(……あまり長く停電が続くと不安だな)

 と、燕は思う。

 台風特有のぬるい気温が冷蔵庫を侵す前に、燕は静かに扉を締める。

「とりあえず、簡単につくれるもので……」

「燕くん、ほら、懐中電灯を見つけたわ!」

 いろいろと思考を巡らす燕に反して、律子は無邪気なものだ。

 懐中電灯を探し出し、嬉しそうに振り回す。

 眩しい光が天井に、床に、棚に弾けて輝いた。

「探検みたいでワクワクするわね、燕くん」

「しません。ああ、でも棚の中を見るので貸してください」

 眩しい懐中電灯で食料棚を覗き込めば、大きな棚にはみっちりと食材が詰まっていることに驚かされる。明るいところで見るよりも、闇の中で見るほうが圧巻だった。 

 律子のかつての教え子たちが、季節ごとに食材を送りつけてくるのだ。

 生物だけでなく缶詰、乾麺、ジュースに酒。そのほとんどは手付かずのまま、まだ棚の奥に眠っている。

「……そうめん」

 いくつか箱を取り出し、燕はつぶやく。そして律子を振り返り、いう。

「そうめんでもいいですか」

 奥から出てきたのは立派な木箱だ。中を開ければ束のそうめんが並んでいる。真っ白で、目にも美しい。そうめんを見た瞬間に、頭の中に蝉の鳴き声が蘇った。もう季節は秋で、蝉の声も聞こえないが。

「じゃあ、そうめんで」

 律子の返事を待たず、燕は鍋に水を張ってコンロに乗せる。水と火が使えるのは幸運だった。

「律子さん、懐中電灯を持って……できるだけ近くにいてください。窓に近づかないように」

 まだ台風は通り過ぎていないらしい。風は強く、ぎしぎしと嫌な音が響き雨の音もひどい。

 しかし、コンロの前は平穏だ。 

 薄暗い中で沸かした湯は真っ黒だった。その中にそうめんをばらりと落とすと、まるで真っ白な花が咲いたようである。

「きれい!」

 覗き込んだ律子がうっとりとつぶやく。

「お花みたい。ここだけ白くて、湧き上がって……揺れる白」

 そうめんを茹でる時間は一瞬だ。ざるに落としてぬるい水で洗い、奇跡的に発見したガラスの鉢皿に盛る。

 つゆは木箱の中に入っているものをそば猪口に流し込めば完成する。

「はい、できました」

 しかし律子はそれを覗いて、少しだけ不満げに口を尖らせるのだ。

「ネギの緑も……生姜のクリーム色もないつゆって、寂しいわねえ」

「……ネギは切りたくないです……が」

 ネギは冷蔵庫に眠っているはずだった。しかしこの暗闇で包丁を握ることに抵抗があった。

「ああ、ゴマがある」

 続いて燕が発見したのは、小さな袋に詰まった金ゴマ。

「これでいいですか?」

 指先で摘んでつゆの上に落としてみせると、律子はようやく目を輝かせた。

「燕くん、ごまがキラキラ輝いてて、真っ黒な空に浮かぶ星みたい。ほら、光を当てると金色に輝くの」

 律子のいう通り、黒いつゆに金のゴマは不思議と美しかった。色のない中、金の輝きだけが泳ぐように揺れている。

「そうですね。のびる前にどうぞ」

「青空も好きだけど、星空も好きよ」

 彼女は急いで箸を取り、軽く手を合わせると白い麺をたっぷり掴み取る。

 彼女が宇宙だといったその中に、白い麺が滑り込む。それを幸せそうに噛み締めて彼女はにこりと微笑んだ。

「ちょっとぬるくて、あまくて……とっても美味しい」

 律子に続いて燕も一口、そうめんを噛み締めた。

 水でしっかり締めていないせいか、麺はぬるい。茹ですぎたのか、コシもない。しかし、ぬるいつゆに付けると、それは滋養のある味となる。

 ぷちりと切れる食感や、甘いつゆの味。そこにゴマの食感が滑り込む。

 口の中いっぱいに、夏が蘇って追憶の香りとなった。

 空腹感などなかったくせに、今になって急に腹が減る。それは律子の食欲に引きずられているせいだ。

「燕くんは家族とこんな夜を過ごしたことは?」

 律子は相変わらず唐突に、燕に問いかける。

 燕の心の奥が、ずきりと音を立てた。燕は、家族に不遇である。父も母も、燕を見ようとしなかった。

 燕のことを真正面から見つめてきたのは、律子だけだ。

「……ありません」

「奇遇ね。私もなの」

 しかし律子は何でもない顔で言って、ぬるい水の中で泳ぐ麺を一生懸命に捉える。

「特別な夜だわ。毎日夜遅くまで起きてるけど、こんな夜は滅多にないもの」

「……律子さんは、夜型ですね」

 噛みしめるそうめんは、ぬるくて柔らかい。細いそれは、つるつると体に落ちていく。夜の空気を食べているようだ、と燕は思った。

 つゆの味が、喉の奥に絡みつく。

 青い空気と、そうめんの白と、つゆの闇。そこに浮かぶゴマの星。

 色が少ないだけで世界はこんなにも、モノトーンに近くなる。

 律子はいつもこんな時間まで起きて、ずっと絵を描いている。

「だって。夜は真っ暗でしょう?」

 律子はふと笑って、手元に先程の塗り絵をたぐり寄せた。

「だから色を足してあげたくなるの。夜の黒に」

「……黒の上には……無理でしょう」

「そうかしら?」

 彼女は机の隅に転がっていた筆とパレットを引き寄せ、本を無造作に開く。

 風景が鉛筆で描かれただけの、簡素な塗り絵本だ。

 繊細な線なので、薄暗い中で見ても何の絵なのかわからない。

 しかしその絵の上に、彼女は乱雑に筆を走らせる。それは美しい朱の一閃。

 闇の中で、確かにそれは燕の目を貫いた。

「……あなたは」

 すごいな。という言葉を燕は飲み込む。燕は絵から目をそらし、皿を持つ。

「遊ぶのは食べ終わって……片付けてからにしてください」

 また、外から風のうなる音が聞こえた。



「燕くん、次は何色がいいかしら」

 燕のいうことを守り、律子は食事後、片付けが終わるのをおとなしく待っていた。

 しかし、片付けが終わるとすぐ、待ちかねるように燕に懐中電灯をもたせると、本を広げてパレットに色を作る。

「律子さん。近いです」

 燕が懐中電灯を持っているせいか、律子はまるで光に近づく虫のようにぐいぐいと肩で燕を押してくる。

 子供のように高い体温が、服越しに伝わり燕は少しだけ距離を置く。

「律子さんは誰にでもそんなふうに……」

「なぁに?」

「……なんでもないです」

「何年か前にね、こんな台風が来たことがあるでしょ」

 律子は基本、無頓着だ。彼女が興味を持つのは絵だけなのである。

「あの時はね、今よりずっと寂しかったの。でも今は楽しいわ」

 律子はパレットで色を作り、ちらりと燕を見上げた。

「だって今回は、一人じゃないもの」

 彼女が色を落とすそれは、塗り絵の粋を超えていた。オレンジに緑に赤に。様々な色が、複雑な色が、闇の中に浮かび上がる。

 下絵を無視して、色が置かれていく。奔放に、そこに新しい絵が生まれていく。

 燕は不自然に、その絵から目をそらした。

 ……燕は、絵が恐ろしかった。

 かつても燕は美大生だった。絵を愛し、絵のことしか考えられなかった。筆を握ったことがある、色を作ったこともある。

 しかしある時、燕は絵を捨てた。絵に怯え、絵を捨て、絵から逃げたのだ。

 逃げた先が偶然にも律子の側だったことは、因果以外なにものでもない。

 いまだに絵から逃げ続ける燕からすれば、律子の描く絵は恐ろしい。しかし、魅力的で目が離せない。つまり燕はこの家に完全にとらわれていた。

「おそうめんも美味しかったし」

 しかし律子は燕の感情など一ミリも気づかない顔で、平然と色を作り続けるのである。

「……そうめんくらいは、作ってあげますよ、まだあるので」

 そして燕もまた、そんな自分の姿を徹底して隠している。

「その時は、また電気を消しましょうね燕くん」

 風が吹き、窓がきしむ。家が揺れる。

 しかし、不安は先程よりも軽減している。食事をした、それだけで不安は簡単に払われるのだ。

「それはともかく、律子さん、近い」

「だって。さっきは近くにいろって……それに懐中電灯一個しかないのだもの。明るいのはそこだけだもの」

「じゃあ、こうしましょうか」

 燕は先程洗っておいたガラス鉢に水を張る。その下から懐中電灯の光をあてる。と、まるで光が音をたてるように拡散した。

 水を通した光が天井に触れると、ますます水底のようだ。海の底、湖の底、まるでここは水に閉じ込められた家。

 ……心地のよい青だった。

 夢の中ではあれほど燕を苦しめた水の色だが、ここに広がる青は気持ちを穏やかにさせる。

「プラネタリウムみたい! 燕くんは何もない所から、こんなものを作り出せるのね」

 天井や壁には律子が描いた絵がある。

 揺れる淡い光に、その絵が薄ぼんやりと浮かび上がった。

 なるほど、こんな夜は特別だ。と燕は思う。

 自然にそんなふうに思えるようになった自分に驚いた。

「あ」

 天井ばかり見上げていた律子の手が、筆に触れる。こん、と軽い音をたてて筆が転がり、塗り絵に落ちる。

 それは、鮮やかな紫の色。ちょうど真ん中に落ちて、花が散るように色を落とした。

「良かった。最後の色、何にするか迷ってたの」

 同時に、ちりりと音が響いて部屋が急に白くそまる。

「……あら、電気が付いたわ」

 停電が回復したのだろう。冷蔵庫は慌てたように音を立て、部屋の電気は何度か点滅しながら、やがてまばゆいほどの光を放った。

 部屋は、あっという間に白く染まる。気がつけば風が弱くなり、雨も小さくなっているようだ。

 昨日に忘れてきた現実が、急に戻ってきた。

「残念」

 楽しいことに水をさされた、そんな顔で律子は肩をすくめ、そして塗り絵を閉じる。

 夜に塗られたその色は、本の中に閉じ込められた。

「律子さん」

 外は急に静かな夜となり、部屋は光が戻った。日常に戻ったはずなのに、なぜか律子が寂しそうに見えて燕は思わず彼女を呼び止める。

「なあに、燕くん」

「……あの……えっと」

 振り返った彼女の目は、淡い夜の色。

「缶詰とか、そうめんとか、保存食をもっと分かりやすい場所に出しておきましょう。きっと……これがくせになって、律子さんは深夜に電気を消して料理をしろと言うんでしょう……僕はもう、棚を漁るのはいやです。それだけです」

 たどたどしい燕の言葉に、律子の顔がぱっと輝いた。

 そして彼女は跳ねるようにキッチンに戻ると、食材の棚を覗き込む。

「じゃあ次のご飯はね……」


 停電が終わっても、二人の夜は、もう少し続きそうだった。

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