3 大嵐に霙程度でどうしろというのだろう。②
宿屋の息子夫妻が誕生し、幸せムードが充満して空気も柔らかくなった。マダムは二人に首ったけでこちらに見向きもしなくなったし、女将は何を思ったのか下働き連中に情を掛けるようになって、年少の女が腹を空かせることも無くなった。おやっさんは酒を減らし商売に精を出すようになり、客足が延びて満足げ。息子の方は改心したのか人が良くなって、下働き連中に礼を言ったり世話を焼きたがるようになった。
何かが崩れ去る音がした。
良い方には行ったのだろう。だがどうにもならない部分もあった。
年長の男が、おやっさんが働き出した事で仕事が減り、今まで為てきたことが無くなって不満を溜めていった。馬車馬の如く働いていた奴にヒマをやった処で害悪だった。どれ程恐ろしいか、垂には分からないではなかった。休み方を知らないでどう休めというのだろう。おやっさんにそれは、判らない。年長の男は心をやられてしまった。落ち着きをかなぐり捨て客の門前で発狂に至った。
だろうなと、垂は思う。ああなるんだろうと、理解している。垂も休み方なぞ、知らない。教えてやるかと言われれば否だが、そもそも教えてやれやしなかったので。
宿屋の奴らにそれは、判らないから。
人の子は宝だと宣う連中が、男を病院へ連れ出した。処罰を待っている獄中人のように見えた。
猫背の男も少し歪んだ。特別だった奴が欲した愛情、らしきものが、他にも分け与えられ出したから。焦ったのだろう。サボらなくなり異様に抱え込み、ぶっ倒れた。笑ってみては他を睨むようになった。そこに話術も可愛げもない。ないもんだから表面に留まる愛情の供給を、必死に欲しがって息苦しそうだった。早死にするんじゃないかと、垂は思っている。要らないし気に入られてもいない、今更だった。解らないものは要らないったら要らない。欲しがりは半端に知ってるもんだから、粉々にしてでも求めるのは猫背くらいでいい。
年少の女は、いつの間にか。
薄ぼんやりとしか覚えていないのは、忙しかったからだ、多分。ただ訴えかけるような眼でもって扉が閉まるまで目が合っていた。
良い処のお嬢になるだとか、こんなかわいい子こんな所で、腐らせて良い訳が、ああ見窄らしいだとか勝手言っていた。
女の顔は、とうに思い出せない。
人手が減るという事は、その分仕事が増えるという事。
生き生きと働くのは悪くない。ただ色々、のぼせ上がるのも程々にしろとは思う。
注文間違い皿洗いが溜まる、そのくらいはまだやり要はある。気前が良いんだか知らないが、金を割り引いて料理をたんと盛っていく。イイだろイイだろと振る舞っていく。果ては、今日の飯はこんけだってなもんで、我慢してくれよっと肩を叩いて大きく笑うのだ。
笑えば良いとでも思ってるんだろうか。らしきものを押し付けてさえいれば、不満なぞ溜まるもんかとでも思ってるんだろうか。
氷ってしまえばいいと、何度も思った。
吹雪いた日。横っ面に当たる轟々と貼り付く雪の中、買い出しに出された垂は、吐き捨てる。氷って割れろと吐き出しながら、大きな井戸のある開けた場所を折り返していた。抱えた紙袋を抱え直し、背を丸めながらブーツを踏み込む。一瞬、それが大きく沈み込んだ。
「えっ…!」吹雪いてバランスを崩したからか、ふわり手から浮いた紙袋を取ろうとした手が傾けたからか、ざぶん…ッ、と。表面の氷った井戸水を突き破り、かなり深くまで沈んでしまったのだ。水圧でゴーグルが首から外れた。ピリピリと刺すような痛みが指先、首筋、顔を直走る。ツンと鼻を突く痛みがあり、ぼごご、ぼごごぶと浸食した。空洞が水で塞がっていき、重くなっては沈んでいく。
痛い。
痛い。 痛い。
辛い。 痛い。
温かさが性に合わないから、寒さなら誤魔化せると思った。冷たく、寒い、そんなものへ。近ずこうと思う酔狂な変わり者は居ないだろう。冷たいのだから触れない。氷ってしまえ。これだから寒さはと、嫌われてしまえば万々歳だ。
今は。
今は、触られないようにしてまで、助けてもらえない身になった自分が、恨めしいのに。
死ぬ。死ぬんだろう。こんなでは、死ぬ。
そう、確信していた。
だが実際、そんな所謂死に目というやつは、案外ぶち壊されるためにあるのかもしれない。
何せ垂は現在、生きているので。
◆◆◆◆◆
さておき、垂は増えた仕事を片付けていた。
少しずつ少しずつねじ曲がりながらも、変わらず冷たさの中垂は生きていた。変わらない無愛想さでテーブルを拭いて、切り詰めなければならない帳簿を書いていた。これをやらせている時点で終わっているのだが、麻痺した常識では気付かない。
「あの!」
だからというべきか何というか、欠片とも予想していなかった。垂の世界は宿屋で完結していたので、他の何かが入り込むような余地は無かった。変わる事も無いと高をくくっていたからこそ、冷めた反応を返したのだと思う。
「ヒーラーとして僕と旅をしてくれない!?」
「僕職無しなんで無理ですけど」
大嵐もいい処だったと垂は、後に語る事になる。
「……それ、毎回同じように言ってたっていうの?」
「うん、なのに69回もパー。正確に言うなら一人もう仲間居るよ、70回目玉砕なんて不名誉だな~困ったな~」
「それはどうでも。だけど」
「ひど~い」
「売り込み方がなってない。大事な部分暈かしたって怪しさましましでしょうに。変なモンの勧誘みたい、不確定すぎ。ね、分かる?これ」
「わ、わ~……メッチャアドバイスしてくれるぅ~……」
「氷る?」
「ヤメテー!」
黄と名乗った男は、くるんくるん撥ねた金髪の美少年だった。幼い顔立ち、白いシャツと、サスペンダー付き七分丈のズボン。小ぶりのリュックサックと平べったい剣を挿した男だった。
何というか、無謀な奴だと。人種が違うとはこういうことだと思わせる男。本気なのだろうが、冗談にしておきたい話を触れ回るバカだった。
使える話術を使えてないバカ。何なんだコイツはと垂は思った。
「ホントのホント、シズリは仲間になってくれない?駄目?」
「あのね、なんだって今に限って……まあいいけど、いい?僕は忙しいの。柔な手と足フルでやってもやる奴居ないから大変なの。無理。他当たってろっての!」
「ちょっと!」
「柔なんだよシャレになんないレベルで。悪い事言わないから。強くて、力持ちで、晴れが好きな仲間見つければ?僕みたいのじゃなくて、じゃあね」