コンソメスープ
次の日。
陽も昇りきらない、四時ごろに目覚ましが鳴る。
疲れも取れていない身体はガチガチに凝り固まり起き上がるのも一苦労だったが、なんとか服を着替えて支度。
美和子さんの残した覚書を読み返して、今日一日の仕事を組み立てることにした。
民宿さえきの朝は早い。
わりとフリーダムなこの民宿では、早起きのお客様もいるらしく朝食を今か今かと待っているという。
遅れないようにご飯を用意することが重要だ。
豊田は毎朝この近所付近を走り込み、朝のシャワーが欠かせない。それが済んだら、朝食を食べてから近所の農家さんの助っ人に行き、お困りごとを携えて会いにくる人の対応に勤しむ。
百合子は、朝が弱いという。一度、起こしに行った豊田をなんらかの技で絞めたという。若干、豊田が怯えている様子だったのは、気のせいではない。
秀平は徹夜で漫画の作業を行っているらしく、基本的には朝も夜も朦朧としているらしい。
侑真は、のんびりのらりくらり、特筆するべき点はなく。
樫沢は、早起きではあるが、夜と朝の寒暖差に身体の不調が出やすいらしく、部屋から出るのが軽い冒険状態だという。
それが昨夜、夕食の席で聞いた彼らの朝情報だ。
三神は、というと彼は特に何もないらしく、語ることはなかった。
ただ、恨めしそうに沙耶を見ていたあたり、美和子さんの席に違う人間が座っていることへの違和感を拭い切れていないのだろう。
沙耶はそれに思い至り、心の底からの同情心を覚えたものだった。
して、美和子さんの覚書を読むにあたり、「朝は必ず事務室で一緒に働く者同士挨拶を欠かさないこと。」というものがあった。
逆に、「夜も終わりの挨拶をすること。」があったが・・・昨夜はそれを行っていない。
色々あって疲れ切って、お風呂に浸かったあとからの記憶がほぼない。
もしかしたら、三神はずっと待っていたかもしれないことに気づいて、沙耶は後ろめたさと一緒に気が重くなった。
だが、もしかしたら沙耶と二人きり顔を突き合わせて気のない挨拶をするのは、できる限り避けたいとも想っている可能性がある。
むしろ、そっちのほうがありうる。
「おはようございまーす…。」
躊躇いがちに事務室に入ると、既に三神がパソコンの前に座ってコーヒーをすすっていた。
「・・・なにしてんの。」
朝の五時は遅い方なのかな、やっぱり。
返事に窮している沙耶をジトっと睨めると、持っていたコーヒーマグを机に置いた。
「昨日の夜、何してたわけ?」
「昨日のよ…」
ハッとした。やはり、と思った。
朝も夜も二人で顔を突き合わせてご挨拶なんて、三神が一番嫌がりそうなことに思えたが、その読みは違ったらしい。
疲れたからとか、言い訳を聞いてくれそうなタイプに見えない。
ここは、正直に答えるしかない。
「昨日の夜は、…お風呂に入って寝ました。すみません。」
「いくらなんでも正直すぎだ。・・・あいつが残した覚書、読まなかったのかよ。」
「読みました。が、昨夜は疲労が強くて記憶が飛んでます。部屋で目覚めたことが奇跡です。」
正確に言うと、読んだは読んだがパラっとしか読まず、時間がなかったのもあってすぐに調理に入った。
じっくり読んだのは、今朝だ。
「はぁ…マジかよ…。じゃあ、別に俺を避けたとか、覚書読んでなかったとかじゃないんだな?」
「はい、それはありません。」
彼にとって問題なのは、「自分を避けたか」と「覚書を読んでいない」ことの二点のようだ。
待ちぼうけを食らったことは、その中に入らないのだろうか。
「あの…昨夜はずっとここで待っていたんですよね…。本当に申し訳ありませんでした。」
「ああ、いい、いい。別に。」
異様なほど寛大な返事と一緒に、急に三神が良い笑顔を向けてきた。
ぞわっと鳥肌が立つ。
「これ、今日の仕事一覧。」
バサッと、沙耶の手に押し付けてきた書類に目を通すと、柳田の話を遥かに超えた仕事量がびっしり事細かに書かれた指示書だった。
「なんですか、これ。」
「どう見ても仕事。それ、今日一日で全部済ませてね。できるよね。都会で小説家名乗れるんだからさ。見事に捌ききれるよね。」
これは酷い嫌がらせだ。
中には、三神が読んだら秒で来ること。絶対に断らないこと。などと書いてある。
たまらず沙耶はぼそっと言った。
「美和子さんが知ったら、ガッカリする類の嫌がらせだわ…。」
得意げだった三神の表情が、ぴしっと固るのが見えた。
会ったこともない美和子さんの性格も知らないのに、名前を借りるのは忍びないが、三神が表情を変えるところを見ると、あながち間違ってはいないようだ。
「・・・・・・・・・・・・俺は、心がでかいから、チャラでいい。」
沙耶の手から指示書を引っこ抜くと、「その代り」と言い放った。
「今日一日は俺がずっとそばについているから、そのつもりで。」
…さっきの指示書のほうが良かった。
とは、いくら沙耶でも言えなかった。
何はともあれ、三神には三神の仕事がある。
同時に、沙耶も朝の掃除の後は朝七時の朝食タイムまでに朝飯を作り終えている必要がある。
今日の朝の献立は、洋食だ。
食パンと、カリカリに焼いたベーコン、目玉焼きの焼き具合はそれぞれの好みに応じて変えて、ポテトサラダとコンソメスープ、おやつはヨーグルト。
最初に時間のかかるスープに取り掛かる。
玉ねぎを切っていると、三神が入ってくるのが見えた。
何を言ってくるわけじゃないが、沙耶の手先を凝視している。
やり難い…。
のを知ってか知らずか、はたまたそれが罰なのか。
わりと真剣に悩んだ。
不動心。不動心。
コンソメスープ一つとっても、家庭によって様々だ。
ソーセージを入れたり、すべて一から出しを取り具材のないおすましのようなものや、具材たっぷりのもの。
ダシまでは取れないので、沙耶は簡易の素を使う。
沙耶は、それぞれの野菜が細かく切られたスープが好きだったため、一人暮らしと同時に自分の好きなように作り出した。
実家では、わりと大きく切られて、それも嫌いではなかったが、やはり細かい方が好きだ。
ピーマンを手に取り、ハタと動きが止まる。
このピーマンは和真の嫌いな食べ物ではなかったか?
入れるべきか、入れざるべきか。
真剣に悩んでいると、とうとう三神が話しかけてきた。
「なに、ピーマン嫌いなわけ?」
「私ではなく、和真君が嫌いだと昨日言っていたので…」
「入れれば?何、ちょっと嫌いなものが入ってるくらいで食べないとか、そういうこと言う子じゃないよ。」
「本当ですか?聞いた翌日に、しっかりピーマン入ってるとか、とんだ嫌がらせじゃないですか?」
「大丈夫だって、本当。何、嫌われるのが恐いわけ?」
「恐い!あんな天使に嫌われたら、ここから去っても延々と悔いが残る!」
「ふうん。・・・・・・・・・君さ、俺に好き嫌い聞かないよね。なんで?」
「何でって理由はないです。単純に聞く機会を逃しただけで。今度聞きます。」
「今度って、今聞けば?いい機会じゃん。これ以上の機会があるもんなら知りたいね。」
「好き嫌いあるように見えないですし、嫌いなものを訊いたら率先して使っちゃいそうで。」
「君、本当、出逢って二日目で早々と素直だよね。ホント、良い性格してるわ。」
本当は聞く必要がなかった。
美和子さんが残した沙耶用の覚書の中に、しっかり三神の好き嫌いが書かれていたからだ。
他のお客様情報もさることながら、三神についての記載のほうが細かく、丁寧だった。
そのことを三神が知らないなら、美和子さんは三神用と沙耶用と二種類の覚書を用意していたことになる。
そのことについて、沙耶は口にできなかった。
まだ出会って二日目。
美和子さんへの想いについて、三神に突っ込むほどの間柄ではない。
けれど、夫の元へ駆けつけたい美和子さんの思惑と、締め切りを伸ばしたい沙耶の思惑が、桐沢編集長によって繋がり、今ここにあるのだ。
三神が、美和子さんをどう想っているのかは知らないが、愛情があればあるほど辛いこともかもしれないのだ。それを決めるのは自分じゃないとしても、二種類の覚書を用意しているかもしれないとなると、やはり美和子さんにも考えがあるのかもしれない。
沙耶は無意識のうちにピーマンを細かく切り刻み、ほぼ無意識のまま、玉ねぎから軽く炒め、煮込んだ。
三神と美和子さんのことを考えている間に覚える、胸の奥の違和感に妙な焦燥感を感じて、沙耶は大きく息を吸い込む。
そうして朝食の準備を終え、皆が揃った。
沙耶は、スープを配ると、頂きますの前に言うべきことを思い出す。
「おはようございます。皆さんにお願いがあるのですが、聞いていただけますでしょうか?」
そう切り出すと、隣に座っていた和真がパッと顔を上げた。
三神は怪訝そうに眉間にシワを寄せ、侑真はにこやかに「俺らにお願いとか、早くね?」と言い放ち、樫沢はそんな侑真をたしなめつつ柔和な笑みを沙耶に向けた。
「おう、何だ!?言ってみろ!叶えられるもんなら、叶えてやらぁ!」
「ふふふ、そうね。」
と、言うのは豊田と百合子。
秀平は半分寝ている。
思い切って言うことにした沙耶は、
「みんなでピクニックに行きませんか?勿論、皆さんの都合に合わせて。こちらから言い出すのも変だとは思うんですが、その…できれば、和真君と一緒に皆で行きたいなぁと。」
と言うと、隣に座っていた和真が立ち上がる。
「実はね、昨日僕がお姉ちゃんにお願いしたんだ…。みんなでピクニックに行きたいって!」
二人で顔を見合わせていると、豊田が豪快に笑いだした。
それに倣うように百合子はふふふといつも以上にふふふと身体を揺らし、侑真は驚いた顔をして笑い出した。
樫沢は、柔和な笑みを浮かべた頬に赤みが差し、秀平はここでようやく目が覚めたようだ。
三神は…、何とも言えない顔を沙耶と和真に向けていた。
「いいぞ!良いに決まってる。俺たちは期間限定の家族だもんな。家族は、みんなでピクニックにでもなんでも行くよな!」
豊田が言うと
「ふふふ、陽に焼けるのは嫌だけれど、そんなイベント逃せないわね。」
「僕もそれは楽しいだろうと思いますよ。身体のために風に長くさらされることは避けたいけれど、貴女や和真くんのお願いなら少しくらい…ゲホッゲホゲホ」
「樫沢さんは無理しないほうが良いんじゃないですか?でもまあ、僕も賛成。特に用事もないし。ね、三神も良いと思うよね?」
侑真から話を振られた三神は、妙な表情を引きずりながらも賛成だと言ってくれた。
三神の同意も得られ、沙耶は隣の和真に笑いかけた。
だが、意外にも和真の表情も三神のそれと同じように、翳りを帯びたものになっていた。
「お、このコンソメスープ具材細かくて、俺のおふくろとは違うんだなぁ!」
溌溂とした豊田の声が響き、沙耶ははっとしながらも答えた。
「あ、お口に合いませんか?」
「いいや!!こういうのも良いなと思ってよ!!美味い!」
「うふふ、私も具材の細かくって野菜たっぷりのコンソメスープ、好きよ。」
「僕も、具が細かいのはありがいたいですねぇ…。」
しみじみと樫沢が言う。
「いや、てかコンソメスープって具材、細かくないっすか?具材がデカいとか、ポトフっしょ。」
と侑真が言いだし、なぜか豊田が応戦している。
「ポトフはスープじゃねえ!鍋だ!!鍋!うちのおふくろのはごろっごろと、にんじんとか丸々一本そのまま入ってたりしたんだぞ!」
「よく分かんないっすけど、それポトフの域じゃないっすか。寧ろ、コンソメって具がないイメージもありますし、まぁせいぜい入ってて玉ねぎ?位な。…どうでも良いっすけど。」
「良くねぇ!うちのおふろくはコンソメスープだつってたんだから、コンソメだボケ!」
これも不思議なほどに緊迫感のない喧嘩で、じゃれ合ってるようにしか見えない。
スープ一つでこんなに賑やかな食事になるなんて、沙耶にとって初めてのことだ。
家族仲に関して、良くも悪くもないというより、姉を一番に可愛がっていた家庭内で居場所を見つけたのは小説の中だけだった沙耶にとっては、こんなに賑やかで自分の作った物ひとつで、やいのやいのとなるのは初めてだったのだ。
にこやかな顔で樫沢が、「滋味深い味がして、身体に染み渡りますねぇ。」と秀平に話しかけ、対する秀平は「はぁ、噛むのもめんどいので助かります。」などと虚ろに答えていた。
ちらと、和真の様子を見ると、小さく切られたピーマンを見つけて青ざめていた。
「和真君、食べてみて。ピーマンはね、よく焼いたり、煮たりすると青臭さが消えて甘みが出て美味しいの。」
うるんだ瞳で見上げられ、良心の呵責を覚えたが、ぐっとこらえる。
「和真君が嫌いだって言うから入れたんじゃないのよ。きっと、美味しいから…。」
「……うん。」
恐る恐る、小さなピーマンを口に入れる。
硬直していた身体が、ふわりと緩み、次第に表情も明るくなっていく。
「…あれ?美味しい…」
ぼんやりと驚く和真の様子に、沙耶もほっと肩をなで落とす。
和真は、美味しいと繰り返しながら、あっという間に野菜コンソメスープを飲み干していく。
こんなに嬉しいことってあるのかな。
にこにこと美味しかったと言う和真を見ていて、沙耶も同じように笑みを広げていった。
何気なく、三神の方を見ると目が合った。
見間違いだろうか。
ほんの少し、見間違えだと思うほど微妙に…三神の表情が笑んでいたように見えた。
もし、そうだとしたら。
沙耶は、胸の奥で鼓動が跳ねるのを感じた。