はじまりは倉庫から
民宿の客用入口の前。
沙耶は仁王立ちで見つめていた。
文科系の部活を好み、沢山の友人がいるわけでも、料理を振る舞うのが趣味でもない沙耶にとって、大人数の料理の支度と、ごく一般以下の掃除力をプロ並みに要求されれている現状を前に途方に暮れていた。
それでも、ここまで来てしまったからには、(かわいいエンジェルもいるし)逃げることなどできない。
沙耶は、すうっと息を吸い込んだ。
「女は度胸だ。どうとでもなれってんだ、ちくしょう!」
足取り重く、勢いつけて入った『民宿・さえき』は、古き良き日本家屋建築で、いわゆる平屋建てだ。
そう、テレビで画面越しに見ていれば癒される風景も、実際に住み家事炊事となると話しは違う。
取り仕切るように言われている「料理」の面でキッチンの仕様も非常に気になる。
だがその前に。
「あのぉ」
恐る恐る声を掛けたのは堕天使系、三神千尋だ。
彼は今、事務所のパソコンに苛立たし気に何かを打ち込んでいる。
仕事中。としか言いようがないが、何せ初見の沙耶にはそれなりの案内を欲っしていた。
「何。手短にして。」
「そろそろ佐伯美和子さんにお会いしたのですが、どちらに?」
彼に案内しろと言っても無理そうだったので、和真君のお母さんであり民宿の女将さんである佐伯さんにいち早くお会いして、ご挨拶と申し送りをどうにか頂きたい。そう思っての質問だったが、すげない返事がそれをへし折る。
「いない。」
「え?」
「いないんだよ。『東京の祥ちゃんが、女の子を代理の管理人に送ってくれるってぇ!彼女、小説家さんなんですって!きゃあ!嬉しい!これ和幸さんのおそばに行けるわ!!』なんつって、君が来るっていう日の前日には飛び立てるようにさっさと手配して行っちまったんだよ!止めたってのに。」
態度に似合わず物真似が非常に得意な御仁のようだ。
裏声からも、会ったことのない美和子さんが透けてみえるようだった。
それにしても、わざわざ女声を出してまで真似てみせるなんて、それとなく面白い人なのかな。
そう沙耶が思いかけたときだった。
「適当にやってよ。君、あんまり知能指数高そうじゃないし、家事も炊事もできそうにないし。期待してないから。」
こいつの晩御飯だけ、ブラックなスペシャルにしてやろうか。
面白い人なんて、思った自分が馬鹿だ。
それでも、この人でも私に教えられることがあるんではないだろうか。
「ならせめて、ここの間取りだけでも・・・」
返って来たのは限りなく冷たい答えだった。
「うるさい。大人だろ、そんなの見て回ればだいたい分かるだろう。小説家さん。持ち前の洞察力フルにして歩き回れば。あ、宿泊客には迷惑かけるなよ。あと、俺にも。」
そんなに喋れるなら、少しは親切にしても罰は当たらないと思う。
仕方なく、沙耶は事務室から出ると、廊下の先から和真が飛び跳ねながら近寄って来た。
「沙耶お姉ちゃん、僕が案内してあげるー!」
嗚呼、天使!
満面の笑みで沙耶の手を掴むと、順序良くお客様専用の入り口や、共同フロア、浴室やトイレの場所、そして客室の場所と、最後は・・・キッチン。
わりかし趣のある古き日本の香りが心地良い民宿ではあったが、沙耶の不安を裏切るようにキッチンは最新のもので、これなら何とか・・・
「へへ~、結構綺麗でしょ!お母さんがこだわってリフォームしたんだって。」
「じゃあ、お母さんがここの炊事洗濯、事務仕事も全部やってたの?」
「うん!・・・お父さんは民宿のこと嫌ってたから・・・。」
ふと、和真の溌溂とした笑みが翳る。
何となく、悲しそうな横顔を見て、沙耶は言う。
「でも、私は炊事洗濯だけでも気が遠くなりそうで不安なのに、事務まで全部やってたなんて、すごいお母さんだね。」
ぱっと振り向くと、翳りがあっという間に失せ、頬に赤みが宿る。
「うん!僕のお母さんはすごいんだ!!」
それから和真は嬉しそうにはしゃぎながら沙耶の周りを飛び跳ねながら、どれほど自分は母親から愛されて来たのか、いっぱい大事にされてきたのかを話していた。
聞いているだけで、沙耶は自然と笑みを零していた。
「それで?」
そんな温い雰囲気をぶち壊すように冷たい口調のあく・・・三神が現れた。
「それでと、申しますと・・・?」
恐る恐る、振り返ると限りなく冷たい目線を余すことなく沙耶に向けていた三神が口を開く。
「もう少しで夕飯なんだよね、準備、しなくていいわけ?」
「千尋兄ちゃん、お仕事終わりー?」
ピョンピョンと跳ねて飛びついて行くと、三神は意外にも和真を抱き上げてくるくると回っていた。
和真は楽しそうに笑い、三神は……
心底優しい目をして和真を見ている。
それに気づいた沙耶は、自然と微笑み、けれど、自分の胸に浮かんだ違和感を持て余した。
「何?」
さっきまでの穏やかな空気はどこかへ失せ、自分にはしっかり冷たい目を向けてくる三神に、失礼しますとそそくさと背を向けて沙耶は、さきほど和真に教えられていた材料のストック場所へと向かった。
材料用の納戸は、物が腐らないように冷房を利かせていて、ひんやりしている。
何を作るか、人数分に見合う数はいくつか考えながらその中にいると、否応なく冷えてくる。
ちゃんと考えてから来れば良かった。
―――沙耶、手冷えてる。温めてあげるよ。
ふと、蘇った記憶に頭を振る。
こんなところに来てまで、思い出したくもないのに思い出すなんて。
知らず鼓動が、早くなる。
そうだ、あれは彼と付き合う少し前、意識するようになり始めていた冬。
沙耶は、俯き困ったように笑った。
無心で書き続けて、遠い過去にしたのだ。見合いのことを持ち出して距離を置こうと言われたときも、覚悟した。自分というものがありながら、そんな怒りを抱く余裕がなかっただけかもしれない。
別れようと言われたとき、さっぱりと別れたら・・・――自分が傷つかないで済む、傷ついたなんて思われたくなかった――プライドを守りたかっただけ・・・?
「ちょっと」
「・・・っ!」
「こんな寒いとこでぼけっとして、何してんの?」
「えっと」
いつの間にか現れたんだろう、三神が沙耶を見下ろしていた。
過去のことだけが占めていた沙耶が、三神の存在を認識するまで、時間がかかった。
その様子をじっと見ていた三神が、何を思ったのか沙耶の鼻を摘む。
「馬鹿だろ。鼻までこんな冷やして。ホント、何してんの?」
鼻先から伝わってくる三神の指の温もりが、じんわりと伝わってきて・・・。
「・・・・・・ぐるびぃ」
ややあって、離れていく三神の指を見送りながら深呼吸する。
「悪い悪い。で、何してんの?」
「見て分からないの!?材料探してたの!!」
「何作るからって?一応言うけど、ここは粉類だけど?」
「え?」
「生鮮食品は更に奥の部屋だけど?」
だけど?
一つも案内しなかったやつに、そんな言われようはない!
と思いつつも、沙耶はしおらしくお礼を言ってそそくさと去ろうと背を向け歩き出す。
粉類でもこんなに寒いなら、生鮮物は冷蔵庫なんだろうな。
「ちょっと待て。」
ぐいと腕を掴んで引き戻され、沙耶はもつれそうになった足を懸命にジタバタさせる。
「わっ!・・・わっわわ!」
けれども皮肉な事に、沙耶が動けば動くほど態勢は悪化の一途のたどり、最後まで抗おうと踏んばったのも虚しく、沙耶は諦めて次の来る衝撃を待ち目をぎゅっと閉じた。
けれども。
「自分で一生懸命倒れるほうにバタつくやつ、初めて見たっ」
沙耶は、三神の上に倒れ込んでいて、彼は尻もちをつく態勢になっている。
これは・・・後が恐い!
「あ、あのすみません。」
恐る恐る振り返ると、三神の目とかち合う。
その瞬間、堪えていたものが弾けたらしい。
「ぶっ・・・!ぶぁははははっさっきのすげー動き!もう一回見たい!」
「・・・酷い!感謝はしますけど、そもそも三神さんがいきなりひっぱたりするから!」
「まさか、もつれて転びそうになるとか、予測を越えた!」
延々と笑い続ける三神を、半眼で睨めつけつつ立ち上がると、身軽にひょいと立ち上がると涙を拭いながら、用紙を渡してくる。
「これ、宿泊客のアレルギー表。あと、好き嫌いの食材とか書いてるから。」
目から鱗だ。
当然、お客様用の食事を用意するとなると、それぞれのアレルギーの有無や、材料に対して聞くべきだった。自分のために作る食事ではないのだ。
ここまで思い至らなかった自分が、急に恥ずかしい。
「これは・・・自分でも気づくべきでした。ありがとうございます。」
「いや、料理というなら最初から渡しておくべきだった。」
「それにしても・・・すごく丁寧で、詳細に記されてますね。すごい。」
宿泊客のアレルギーの有無だけではなく、食事の好みや、宿泊中の予定や目的、言ってはいけない(?)タブーの話題まで、泊まっているお客様全員のことを詳細に書かれている。
旅館並なのではないだろうか。
尚、食事は同一のものでも構わない。アレルギーがあるお客様のみ、別にご用意。
まで読んで、ふと三神を見上げる。
「すごいだろ?あいつ・・・ほんと色んなこと見てるんだよな。」
この数時間、和真を見ているとき以外は冷たい目しか見ていなかった三神の瞳に、熱い何かが宿っているのを沙耶は見た。
「うん、本当に凄い。じゃあ、これ参考にして作るわ。」
ちなみにそこにはこれまで一週間の献立が書かれており、被らないようにも配慮されている。
「期待はしてないけど、腹は減るから。安心して作って。」
「空腹が最高のスパイス?やかましいです。寒いんだから、これ以上邪魔しないで下さいね!」
沙耶は三神の背をぐいぐい押して出口にまで追いやろうとするが、びくともしない。
「何作るか知らないけど、材料は持つ。」
「・・・へえ、意外な申し出で、裏がありそう。」
ちらりと疑わしい視線を向けると、
「力仕事になるだろ。一緒に働くなら、そういうのちゃんとカバーしろってさ。・・・あいつが言うから。」
最後の方は、囁くように呟く。
沙耶の耳にはしっかり届いていたが、沙耶は聞こえなかったふりをした。
美和子さんが好きなんですね。
そう簡単に聞けるはずの言葉が、何故か出てこなかった。
あいつ、そう言う三神の顔が、あまりに切なそうだったから。
その代わりのように、
「良く言いますね!民宿内の案内すらしなかったくせに!」
とだけは、言った。