なにげない選択
自転車に乗って、少年は家路を辿っていた。親に行かされている塾の帰りなのだ。
日が沈み、ゆっくりと辺りが暗くなってゆく。自転車が暗さを検知し、自動でライトが点灯する。
それでも道は暗かった。
ふと、曲がり角が目に入った。
これを曲がれば、方向的には多少の近道にはなるはずだ。
知らない角を、思い切って曲がってみた。
そこにあるのは、明らかに知らない景色。
少年は、気分が浮き立ってきたのを自覚した。
今までとおんなじ町、住み慣れた自分の町なはずなのに、こんな知らない景色がある。
その事が、冒険をしているみたいでなにか楽しい。
道端に、若い男が煙管を呑んでいるのが見えた。
雰囲気がカッコいい人物で、妙に目につく。
その人物の前で自転車を降りた。
彼は少年を目に映すと、驚いた様子で片眉をつり上げる。
「コイツは驚いた」
そういうと、煙管を一口呑む。
ぶはぁと煙を吐き、視線を少年に合わす。
「迷い込んだね。キミ」
むっとして少年は答える。
「別に迷ってないし。家に近いと思って、そこの角を曲がっただけで……」
後ろを振り返ると、見たことのない景色が広がっている。
「!?」
バッと振り返ると、青年がニヤッと笑みを浮かべていた。
「言ったろう、迷ったってさ。おおかた考え事でもしながらうろついていたんだろう。よく居るんだよ。近道だと思って迷い込んでくる人」
カーンと灰を灰皿へ叩き落とし、吸い盆を持って家の中へと入ってゆく青年。
「まぁお茶の一杯でも飲んで行きなよ。落ち着いてお茶を飲めば、うまいこと帰ることが出来る。美味しいよ~?」
なぜか逆らう気が起きず、自転車を家の前に停めて、上がり込むことにした。
その時初めて、その家に骨董屋という看板が掛かっていることに気がついた。
中に入ると、所狭しとガラクタが置いてある。
壺、一輪挿し、筆、屏風、タペストリー、石の沢山入った綺麗なギヤマンの箱……。
本当に沢山のものが置かれていた。
「あぁ、そこに座ってよ」
奥へとつながる暖簾の向こうから、青年がお盆の上に急須と湯飲みを乗せて出てくる。
あごでしゃくった先には、畳2畳とちゃぶ台が、モノに紛れてひっそりと存在していた。
とりあえず畳の上に腰を下ろし、興味津々に周囲を眺め回す。
「骨董屋は初めてかい?」
ちゃぶ台の角に乗っていたポットからお湯を急須へ注ぎ込み、少年にちらっと笑いかける。
「はい……。こんな所に入り込む機会なんて、そんなにないですよ」
「だろうねぇ。自分も将来骨董屋をやるなんて、キミくらいの頃は考えてなかったからねぇ」
耳を疑うようなその言葉に、少年は青年に視線を向ける。
「ホントなんですか?」
「嘘言ってどうすんの」
その瞳は、相変わらず眼鏡の向こうの細い隙間から覗くのみであるため、その言葉が真実であるか虚偽であるかは、少年には確かめようがなかった。
「はい、どうぞ。ゆっくり飲みなね」
そんな少年に、青年はにこにこと笑顔を浮かべたまま、湯飲みに入ったお茶を差し出した。
湯飲みを受け取って、ふうふうと冷ましながら、一口すする。
口いっぱいに緑茶に特有の優しい香りが広がった。
思わず、ほうと息をつく。
青年はその様子を、ニヤニヤしながら見つめていた。
「塾に行くんですけど、正直何のためなのかわかんないんですよ」
少年はぽつりとつぶやく。
「ほう」
「塾に行って、勉強して、いい大学に入って、いい会社に就職して、テキトーに結婚して子供作って……。それがどうしたの!? みたいな」
「ふんふん」
「どんな成績とったって親はもっと上を望んでくるし、頑張ったところで思うようには成績上がんねーし。それだったらしなくても一緒じゃんって考えるオレは、異常じゃないですよね?」
その言葉を受けて、青年は天井を見上げた。
「まぁ、一度は誰でも考えるよねー。そういうことはさ」
口元には、そこはかとない笑みが浮かんでいる。
「周りもさほど勉強に息巻いてるわけじゃないし、部活で体動かしたい盛りだもんね。キミの頃なんて」
「そうですよね!?」
「でも世界が狭いんだなぁ。キミの」
いつの間にやら、眼鏡の奥の細い目が、顔は上を向いたまま、少年の瞳を貫いていた。
「今のキミには手一杯。もうこれ以上はできませーんってカンジかもしれないね。でもそのキミの世界の周りには、もっと大きな世界が広がってて、そこに入ったら案外今してることって基礎の基礎。呼吸をするようにスイスイできちゃうことに様変わりしちゃうわけだよ」
大人の言うこととおんなじ言葉が並ぶ。
自然、少年の眉間にはシワが寄っていた。
「メンドクサイこと言っちゃったね」
そんな少年の様子に、クスリと笑みを浮かべる。
膝の上に肘をつき、ニヤッとした笑みを浮かべて、青年は言った。
「オレが伝えたいことはひとつだけ。キミの好きなように人生を選びなよ」
少年の眉間のシワが、不愉快によるものから困惑によるものへ、一気に質を変える。
少年には、彼の言っていることが矛盾するもののように感じられたのだ。
「キミのやりたいことでしか、キミを縛り続けることはできないよ。途中で投げ出して、中途半端に落ちぶれるのが関の山。だったら最初からやりたいことを追いかけるしか、方法がないじゃない」
少年の顔が、歓喜に彩られてゆく。
「だ、け、ど」
釘を刺すように、少年のテンションに青年が声をかぶせて言った。
「その場合、キミがその人生を選んだんだから、キミが責任持たないとダメだよ。自由にさせてもらったんだ。そうじゃなければ筋が通らない」
その冷たく光る瞳に、自然、背筋が震え出す。
「スポーツ選手を目指して勉強するのをやめる。それもまた人生。必死こいて勉強して、手堅く公務員になる。それもまた人生」
青年は言葉を切り、お茶をすすった。
少年を見据え、話を続ける。
「スポーツ選手になったら毎日楽しいかもしれないけど、体壊したらもうお金を稼ぐ手段はない。公務員になったら月々に入ってくるお金が安定してるから生活しやすいかもしれないけど、毎日おんなじことばっかりやることになって、みんな考えてることが一緒だから要らない面倒ごとに巻き込まれたりすることになる。何を選んだってそれなりのいいところがあって、同時に避けようのない欠点が存在する」
その語り口は、少年を引きずり込んだ。
彼の周りには、そんな話をしてくれる大人なんて一人も居なかった。
ゆえに彼は、青年の言葉にひたすら耳を傾ける。
「何を選んだって、なんだかなぁって思う時が必ず来るし、やって良かった! って喜ぶときが必ずある。何が正解かなんて自分が死ぬ寸前にしかわからないんだから、自分がしたいことをするしか生きようがないでしょう」
何かがストンと落ちた気がした。
今まで感じていた虚無感。けだるさ。
それらの正体が、漠然と形になって目の前で像を結びかけているようだ。
「だけど周りの大人の意見も聞かないとダメだよ」
ちょっと前なら嫌悪感を示していたであろうそんな言葉すら、今の少年には得がたい宝のように感じられる。
「なんだかんだ言ったって、周りの大人っていうのはさ。自分より沢山の経験をしてきてる訳で、いろんな世界をその身に刻んできてるわけだよ。その言葉だって、いいか悪いかは別にして、その経験に裏打ちされた言葉なんだから、無視して良い訳がない」
青年はもう一度お茶をすすり、声色をあっけらかんとしたものに変えた。
「つってもまー、親の頃とは取り囲む環境が違いすぎるし、純粋にキミを想った言葉じゃなくて、自分のコンプレックスを反映した歪んだ色眼鏡から来る言葉なのかもしれない。所詮キミの人生はキミのもの。自分の選択に自分で責任を持つしかないのさぁ」
お盆の上に湯飲みを置き、青年は手を叩いた。
「さぁさぁ、もうお帰り。外ももうだいぶ暗い。ちょうどお茶もなくなったことだしね」
いつの間にか、少年の湯飲みも、底が見えるようになっていた。
青年に倣って湯飲みを置き、バッグを背負って立ち上がる。
外に出ると、意外と大きな月が、道を照らしていた。
街灯らしい街灯もないにもかかわらず、道の凸凹はおろか、街路樹の葉の葉脈まで見えるのではないかと思ってしまうほど、夜は明るいようだった。
「災難だったねぇ。こんな所に迷い込んじゃってさぁ」
青年が、腕を組みながら言う。
少年は、自転車に跨がった。
「すっきりしました。自分のやりたいこと、考え直してみます」
「それがいいそれがいい。悩み抜いたら良いと思うよ。それもまた人生」
青年の笑顔は、月夜の中で銀色に輝いていた。
「それじゃ、失礼します」
「はいはい。その道を来たと思う方へ走ってゆくと良いよ。知ってる道にたどり着くから」
「ありがとうございました!」
「気をつけてねー」
帰りの道すがら、少年は、自分のやりたいことを、必死で洗い出していた。
少年は後に著名な研究員となり、有名な賞を取ることになるわけだが、それはまた別のお話。