第六十六話「目覚め」
「イグナート」
「ん…………」
「イグナートよ、起きたまえ」
「ん……んん~……」
「起きろ寝坊助」
「ぷべらっ!?」
スパーン!
と小気味よい音と共に左頰へ衝撃が走り、目が覚めた。
「目が覚めたか、イグナート」
「あ、ああ……あのよ、ジル・ニトラ」
「なんだ?」
「今、おまえ俺の頬に平手打ちした?」
「したぞ? それがどうかしたか?」
「いや……おまえ、前に『自分は守護する存在だから攻撃はできない』みたいなこと言ってなかったか?」
「言ったな」
「してるじゃん。頬叩いてるじゃん。わりと力強く」
「これは攻撃ではないぞ。それに、私が頬を叩いてもキミは痛くも痒くもないだろう?」
いや、普通に痛かったんだが。
頬がまだジンジンしてるんだが。
「……おまえとは一度、『攻撃』の定義について話し合わないとダメなようだな」
「ほう、そういった話は好きだぞ、私は。しかし残念だな。私は今、存外に忙しい。百年後辺りなら時間を空けられそうなのだが」
「本気にされても困るんだが」
「なんと。ウソだったのか。私を騙すとは……罪な男よ」
「おまえ絶対俺のことおちょくってんだろ」
「そんなことよりイグナート。早く起きろ。キミの為に報酬を用意したのだ。受け取りたまえ」
「くっ……」
言い返したかったが間違いなく不毛な会話になりそうだったので口を噤んだ。
俺はジル・ニトラの言う通りにさっさと服を着替えてベットから降り、部屋の中を見回した。
見た感じ、どうやらここはどこかの屋敷内らしい。
「ここは帝国内にある私の屋敷だよ。キミは魂の損傷が激しくてね。ここ一ヶ月はずっと私の工房で治療を行っていた」
「一ヶ月!?」
そんなに俺は眠ってたのか。
そういや、吹っ飛んだはずの右腕も元に戻ってる。
死ぬほど苦しかった地獄の腹痛もない。
「ヴィネラに魂の情報ごと取られたとかいう内臓も治してくれたのか?」
「ああ、復元しておいたぞ」
「すげぇな……」
「これでも元は神だからな。全損ならともかく、魂の一部だったら復元ぐらいはできる」
「へぇ……にしても、治すのに一ヶ月も掛かったのか……」
「これでも相当に短い方だぞ。というより普通だったらそもそも手遅れな状態だった」
「まあそうかもしれねぇけど、フィルの時は確か三日ぐらいで治してなかったか?」
「魂の摩耗と損傷を一緒にしてはいかんよ」
ジル・ニトラはそう言いながら部屋の隅にあるタンスから灰色の袋を取り出した。
バスケットボールがひとつ入るか入らないかというサイズの中袋だ。
「魔王討伐からの帰還、おめでとう。これが以前キミが言っていた報酬の無限袋だ」
「お、おう……ありがとよ。魔王は討伐してねぇけど」
「なに、元よりゼタルを倒すことなど期待していないさ。ヤツの気を逸らすという役目は十二分に果たしてもらった。それだけで凄まじい功績だよ。感謝してる」
「勇者含め、俺らは全員囮だったってわけか」
「もちろん倒せるにこしたことはなかったがね。私としてはゼタルの術式行使を止めることが最優先だったのだよ。奴が邪神の力を取り込んだら取り返しがつかなかったからな」
「そういや邪神の召喚やら人類の滅亡やら、色々とジル・ニトラが話してた内容と魔王の話が違ってたんだが」
「物事を円滑に進める為の方便さ。大きく間違ってはないだろう?」
「いや、大きく違ってると思うぜ……特に人類の支配を滅亡って言った件に関しては」
支配と滅亡の間には越えられない壁があるだろ。意味合い的に。
「それは見解の違いだな。絶対的な超越者による統治など、そんなものは人類の滅亡に等しいよ。空を自由に飛べる鳥を『外は危険だから』と言って籠の中に閉じ込めるようなものだ」
「……その言い方だと、ある意味では魔王が世界を支配した方が人間にとっては良い風に聞こえるけどな」
「そういう見方があることは否定しないよ。なにせ奴は魔王を倒した歴代勇者の中で唯一『殺戮の呪い』に打ち克ち、邪神を従え、人間に裏切られて尚人間を守ろうとする筋金入りの勇者だからね。さぞ過保護に人間を導いてくれるだろうさ」
「ちょっと待った。色々と意味がわからないんだが」
「この情報は規制されているからね」
ジル・ニトラはそう言いながら、さっきまで俺が寝てたキングサイズのベットに腰掛けた。
「規制?」
「そうさ。時の権力者たちにとっては都合が悪いからね。亜人族を率いる魔王が元勇者で、しかも正気だという情報は」
「……どういうことだ?」
「つまりだね、今までだったら魔王を倒した勇者は邪神の『殺戮の呪い』によって次の魔王となり、すべての種族に敵対する存在になっていた。だが奴は呪いに打ち克ち、悪魔族や不死族をその力で抑えつけ、世界から人類の敵を排除した。……すると、どうなったと思う?」
ジル・ニトラは心底楽しそうに笑いながら、ベットの上で足を組み言った。
「人類が侵略戦争を始めたのだよ。今まで魔王を倒す為に同盟関係を結んでいた獣人やエルフ、ドワーフなどの亜人族に対して、一斉にね。用意も周到で、それはそれは見事な手際だったよ」
「…………」
「事態を察したゼタルが止めようと動いたが、それもあらかじめ想定されていたのだろうね。奴は帝国に自分の妻と娘を人質に取られていた」
「その、人質は……」
「死んだよ。当時の皇帝はこれまた趣味が悪くてね。ゼタルが妻と娘を助けに来たその時、その目の前で殺したのさ。凄かったよあの時の激昂した奴の剣幕といったら。元神竜である私でさえも殺されるかと思ったぐらいさ」
「……おまえはその場にいたのか?」
「それはもちろん。私は一応、今も昔も帝国の筆頭宮廷魔術師だからね。皇帝を守らねばならない」
「…………なんで」
「ん?」
「なんで、そいつの妻と娘を助けなかった……! おまえは人間の守護竜じゃねぇのかよ!」
「ふむ」
ジル・ニトラは足を組み直し、自分の太ももに肘をついた。
「キミは何か勘違いをしているな。私は『人類の守護竜』だ。『人間の守護竜』ではないのだよ。つまり、人間という『種』を守れればそれでいいのだ。人間、一個人がどうなろうと私の知ったことではない。――無論、守ろうと思えば守れるがね」
「テメェ!」
「おっと」
思わず掴み掛かろうとした俺の手が透明な障壁に阻まれる。
「危ないな。まったく、キミは激情家だね。知りもしない他人の話でこうも感情を高ぶらせるとは」
「生憎ともう知りもしない他人じゃねぇんだよ! 魔王とは!」
「ん? ……おお、そうか、そうだな。確かにもうキミとゼタルは知りもしない他人ではないな。これはすまないね。配慮が足りなかった」
「上辺だけ言いつくろいやがって……!」
「ふむ、そのように受け取られてしまうか。残念だな。しかし、ゼタルの過去に関してキミが私に怒る筋合いはないと思うぞ? ましてや命の恩人である私に」
「ぐっ……!」
俺を使い捨てにしようとしたおまえが言うな、と思ったが……確かに俺が魔王の過去でジル・ニトラに怒る筋合いはない。
そしてジル・ニトラが俺の命を救ってくれたのも事実だ。
「……確かに、詳しい事情も知らない部外者の俺が、その当時のことでおまえに怒るのは筋違いだ」
「おお、わかってくれたか。私はキミを気に入ってるからね。嫌われたかと思って心配になったよ」
「心にもないことを」
「本心だとも。……ん? どこへ行くのだ、イグナートよ」
「さあな、わからん。……ああ、命を助けてくれて、ありがとよ。そこは感謝してるぜ」
「イグナート、待ちたまえ」
部屋の扉に向かって歩き出した俺を、ジル・ニトラが呼び止める。
「どうした? まだ話は終わってないぞ?」
「……なんでだろうな」
ジル・ニトラの話を鮮明にイメージしてしまったからだろうか。
魔王に感情移入してしまったからだろうか。
コイツさえいなければ、おそらく魔王は……ゼタルは、妻と娘を助けられたのだろう。
それを考えると、少なくとも今はコイツと落ち着いて話すことなどできない。
俺は後ろを振り返ることなく、そのまま扉を開けて部屋の外へと出て行った。




