第二百十六話「名」
直後、ジル・ニトラが燃え盛る炎に包まれる。
「お母様!?」
アイリスが慌てて魔術を使い水をかけるが、炎にはまったく影響しない。
創造神の力で作ったこの炎は、普通の炎とはまったく別の性質を持つからだ。
アイリスは水が通用しないとわかった直後、何を思ったのかジル・ニトラに抱きついた。
しかしそれでも炎はアイリスを燃やすことはなく、ジル・ニトラだけを対象に燃え続ける。
アイリスは様々な手段を用いて炎を消そうとしたが、何をやっても消すことはできなかった。
ジル・ニトラは泣き叫び絶叫するアイリスを一瞥すると、無言で再びこちらに視線を向けた。
その顔面は焼け爛れ、崩れ落ち、もはや表情などあってないようなものだった。
にも関わらず、その顔はどこか笑顔を浮かべているように見えた。
「あぁ……あぁぁ……お母様っ!!」
ジル・ニトラの肉体が真っ白な灰になって崩れていく。
アイリスがそれを両手で止めようとするが、止まらない。
やがてジル・ニトラは真っ白な灰の山になって、アイリスの足元に積み上がった。
アイリスはその場に崩れ落ちたかと思うと突然、灰の山に治癒魔術をかけ始めた。
当然それでジル・ニトラが蘇るはずもなく。
アイリスはしばらくすると立ち上がり、俺を鬼のような形相で睨みつけた。
「殺す……イグナート……よくもお母様を……!」
「……アイリス」
「殺す……殺す……殺す……殺す……!!」
「アイリス、聞け」
両手に魔術を構築し始めたアイリスを制止して言う。
「ジル・ニトラは生きてる」
「っ!?」
俺の言葉にアイリスは激しく動揺し、両手の魔術を解除した。
そして背後を振り返ると、灰の山をジッと見つめて……やがてその中に手を両手を突っ込んだ。
「あ……あぁ……!」
「それが、ジル・ニトラだ」
アイリスが灰の山から取り出したのは、小さな裸の赤ん坊だった。
「さっきの炎には『浄化』と『再生』の効果を持たせた。そのジル・ニトラは人間で、神竜だった頃の記憶は欠片もないが……魂はそのままだ」
人間の赤ん坊に転生させ、ヤツの魂はそのままにする。
それが、俺の考えた選択肢の中で一番、ジル・ニトラの未来が視えなくなった方法だった。
ジル・ニトラの未来が視えるということは、そこにヤツがいて、俺が存在しないということ。
ジル・ニトラの未来が視えないということは、ヤツが存在しないか、そこに俺が存在するか、どちらかを意味する。
どちらも肝心な部分はわからないが、しかし二択であれば後者以外に選ぶ道はない。
ヤツの魂をそのままにするのは不安だが……そこは未来の俺を信じることにする。
それにヤツの魂には『保険』もかけてある。
「そいつ……いや、その子の魂には『罪悪の炎』を入れた。簡単に言えば自分の意思で人を傷つけたりすると魂が焼かれる制約だ」
罪悪の炎は創造神を通じ、人々の集合無意識に繋がっている。
つまり何が罪悪かを判断するのは人類そのものとなる。
「人間として生きる過程で、その子の魂が変わらなければ……いずれその魂は焼き尽くされるだろう。だが、もし変わることができたなら……そのまま生き続けることができるかもしれない。本当なら俺がその子を引き取って育てたいところだが……」
俺の言葉を聞いて、アイリスは再び鬼のような形相でこちらを睨みつけてきた。
「……無理だろうな。わかった。おまえに託す。だが、もしその子の制約が解かれるようなことがあれば……そのままにはしておけない」
場合によっては今度こそ、ジル・ニトラの魂を完全に消滅させる必要が出てくるだろう。
その時、ジル・ニトラの魂を宿した少女がヤツそのものであればまだいいが、そうでなかったとしたら。
人を愛せないことを苦しみ、自らの残酷な本性を憎むような少女だったとしたら。
……それは、つらい選択になるかもしれない。
「だから、制約を解こうとは思うな。その子に制約を解かれるな。創造神の力による制約だ、まず解けないとは思うが……解けたら、容赦はしない」
「…………」
アイリスは無言で俺を睨みつけながら立ち上がると、赤子を抱いてその場から駆け出した。
魔術で身体能力を強化しているのかアイリスはあっという間に飛空城の端へ辿り着き、そのまま空中に身を投げだした。
次の瞬間、アイリスの背中に光の翼が生え、彼女は空を滑空しながらどこかへ消えていった。
続けて、黒い影のような鳥が瓦礫の下から湧き出て、アイリスを追うように飛び去っていく。
あれは……ウィズダム。ヤツも蘇っていたのか。
「……なぜ、ヤツの魂を消滅させなかった」
後ろから近づいていたゼタルが、背後から問いかけてくる。
俺は後ろを振り返ると、ゼタルに向き直って答えた。
「未来を視た。ジル・ニトラの魂を消滅させても、封印しても、ヤツは何らかの方法で蘇る。その未来に俺は存在しなかった。最悪の事態だ。でもヤツの魂を残しておけば、それは避けられることがわかった。今できる最善の方法だ」
「…………」
「ヤツはこれからも俺が見張る。また元のジル・ニトラが復活するようなことがあれば、その時は俺が対処する。だから……今は、ヤツの魂を見逃してくれないか」
「………………」
ゼタルは何も言わず、こちらに背を向けて歩き出した。
その方向はアイリスが飛び去った方向とは真逆だ。
ゼタルが通り過ぎていく中、バルドはその背中に語りかけるよう話し始めた。
「ふむ……娘の仇討ちは終わったが、もしまだ娘婿が人類を支配するなどという凶行に走るのであれば、私はそれを止めねばならんな……どうだ? 娘婿よ」
「…………」
ゼタルは一瞬歩みを止めると、再び無言のまま歩き始めた。
それを見てバルドが小さくため息をつく。
「愚問か。なれば、私の役目はもう終わりだな……おい、イグナートとやら」
バルドがこちらを向いて言う。
「ひ孫に伝えるが良い。ぬしの父親はもうしばらく後に帰る、と。後始末があるゆえ、すぐにとはいかんが……」
「ひ孫? ……誰のことだ?」
「セーラのことだ。三代目……この肉体の持ち主の娘だな。私にとってはひ孫にあたる」
バルドはそう言うと、飛空城から飛び降りたゼタルの後を追うように歩き始めた。
「お、おい、待ってくれ!」
「待たん。頼んだぞ」
バルドは背中から昆虫の羽に似たものを生やすと、それを高速で動かし飛び去っていった。
俺は飛び去っていくバルドを見ながら、肩を落として呟いた。
「それ、自分でセーラに言えよ……」
『あー……大丈夫?』
真紅の人型である彼が聞いてくる。
「事態はひとまず解決したから、大丈夫っちゃ大丈夫だけど……」
『それは良かった。ちょっと判断が難しかったからとりあえず、あの日に死んだ人を一通り復元したんだけど……余計なことしちゃったのかと思ったよ』
「……すごく助かったけど、そういうことする時は事前に相談してくれよ」
結果的には最善の方法を取れたが、一歩間違えば最悪の事態になっていた。
夢の中でもそうだったが、彼はどこかネジが外れている気がする。
「だいたいアンタ……って、そういえばアンタ、なんて名前なんだ?」
『あぁ、俺の名前は……ぷげらっ!?』
彼が妙な声を上げながら地面に倒れる。
『アナタ、いつまで『それ』でいるつもり? 目がチカチカするんだけど。さっさと実体持ちなさいよ』
『え……あ、うん……わかったけど……ヴィネラ、今なんで蹴ったの?』
『蹴りたいから蹴ったの。なんか文句ある?』
『あ、そうなんだ……ううん、文句はないけど……』
ないのかよ。
『あぁ、イグナート。お疲れさま。よく頑張ったわね。褒めてあげるわ』
「お……おう?」
『ご褒美に、みんなまとめて地上へ送ってあげるわ』
「それはありがたいんだが、まだ今後のことで話したいことが……」
と、そこまで言ったところでヴィネラが指を鳴らし、足元に一瞬で魔法陣が展開され――気がつけば俺はティタやルカ、黒紫の連中と一緒に地上へと転移していた。
●
『あれ……なんで俺とヴィネラだけ残ってるの?』
『いいから早く実体を持ちなさいよ』
素っ頓狂なことを抜かす優男を急かす。
『うん……でもなんか、不公平だよなぁ』
『は? 何が?』
『俺だけ実体とか。ヴィネラは霊体でさ。どうせならヴィネラも実体持てばいいのに……』
『わかったわ』
優男を黙らせるために、魔術で肉体を構築していく。
「――これで文句ないでしょ?」
『え……えぇ!? ちょ、ヴィネラどうしちゃったのさ!? 実体があるヴィネラとか超激レア……!!』
「うっさいわねぇ……ほら、アンタも」
『わ、わかったよ……ええと、肉体情報、肉体情報……あぁ、あったあった。これだ……っと』
真紅の人型が、懐かしい姿を形作っていく。
白いローブに癖っ毛の黒髪。
簡素な木造の杖を持った優男は、人懐っこそうな笑顔を浮かべて照れたように言った。
「……これでどうかな? っとと、うわぁ!?」
優男はバランスを崩して後ろ向きに倒れた。
「なにやってるのよ……」
「あはは……肉体を持つの随分久しぶりだからかな? 上手く立てないや」
「しょうがないわねぇ……」
アタシは片手で優男の上体を起こしながら、もう片方の手で彼の杖を奪い取った。
「え、なんで取るの?」
「これは没収」
「えぇ……なんで?」
「別世界のアタシのことなんて忘れなさい。……杖なら、アタシが新しくあげるから」
「え……えぇ!? ……う、うーん」
二つ返事で新しい杖を選ぶと思っていたアタシは、悩み始めた優男に驚愕した。
「なに? なんの不満があるの?」
「いやだって、俺、まだ名前も聞いてもらってないからさ……」
「……そこ?」
「重要でしょ。ってことで、俺の名前なんだけど……聞いてくれるかな?」
「嫌よ」
「うっ、やっぱり……」
優男はガックリとした様子でうなだれた。
「……でもまあ、今アタシ、両手を使ってるから……耳、塞げないわね」
アタシがそう呟くと、優男はとても嬉しそうに笑って――その名を、口にした。




