第百九十七話「天使」
『――様』
誰かの声が聞こえる。
幼いながらも凛とした、透明感のある美しい少女の声。
『――にい様』
体が優しく揺さぶられる。
混濁した意識の中にふと、天使、という単語が思い浮かんだ。
なるほど、確かにこの声の主は天使と形容するに相応しい。
目を閉じていても、優しく体を揺さぶる手の感触と美しい声だけでそう断言できてしまうほど、彼女は俺の心を惹きつけた。
かつて今まで、これほどまでに優しく揺り起こされたことがあっただろうか。
いや、ない。今まで天使並みの少女に起こされるどころか、優しく起こされること自体がなかった。
望む、望まないに関わらず戦いに明け暮れ、平和な時間は長く続かず。
しまいには元神竜を相手に世界の命運を懸けて戦い――って、あれ?
待てよ、俺はそういえば、まだ戦っている最中じゃ……?
「――お兄様、朝ですよ」
「……っ!?」
重大な事実に気がつき、ベッドの上で飛び起きる。
そんな俺をひとりの少女が目を丸くしながら見ていた。
スッと通った鼻筋に、ややタレ目で柔らかな印象を与える瞳。
小さな桜色の唇に、長く美しい黒髪。
俺はその少女を見て驚愕していた。
まごうことなき美少女で、まごうことなき天使だ。
だが、そうじゃない。問題はそこじゃない。
俺は彼女をよく知っている。忘れるはずがない。
……自分の顔を見間違うはずもない。
「おまえ……誰だ?」
そこには『ミコト』……つまり、真実の指輪で変身したあとの『俺』が居た。
「誰、って……お兄様、寝ぼけてるんですか?」
少女は首を小さく傾げながら困ったように眉をひそめた。
なんてことない仕草が凄まじく可愛い。
そういえば俺、変身後の自分の顔面が好みドストライクだったな。
……自分の顔にトキメクとか、気持ち悪すぎる。勘弁してくれ。
「いや、俺は寝ぼけちゃいない。で、誰なんだ? 中身は何者だ? 正体を現せ」
「えぇ……なんですか? いきなり何を……ちょ、ちょっと!?」
俺がその小さな肩に掴みかかると、少女は顔を真っ赤にして慌て始めた。
「お、お兄様!? ま……まさか私が好きすぎてとうとう、超えてはならない一線を……!?」
「……は?」
少女は口で嫌がり、体をよじって抵抗する素振りを見せながらも、なぜだか満更でもなさそうな感じで目をつぶった。
「だ、ダメです! 私たちは兄妹ですよ!? そんな、突然……困ります! 心の準備が……それに朝ですし学校もありますから、部屋から戻らなかったらお父様とお母様が……!」
「いや……」
「え、そんな短時間で!?」
「いや何も言ってねえだろ!?」
何をひとりで暴走してるんだこの子は。
謎すぎる。
「……っていうか、今さっき兄妹って言ったよな。それどういう意味だ?」
「どういう意味も何も、そのままの意味ですが……? お兄様はいったい何を……ハッ!? まさか、『兄妹? そんなの知らねえな。なぜなら、俺はおまえのことが兄妹とは思えないほど好きになっちまったんだから……』的なことですか!?」
「なんでそうなるんだ!?」
話が飛躍しすぎだ。
いや待て、そんなことはどうでもいい。
重要なのはまだ俺の戦いが終わっていないということだ。
しかし今のままではヤツには勝てない。
どうにかしてヤツに勝つ方法を見つけなければ。
ヤツは…………あれ? ……ヤツ?
「ヤツって……誰だっけ?」
記憶に濃い霧が掛かったようで、思い出せない。
俺はなぜ戦っていたのか、それも思い出せない。
「えっと……お兄様、大丈夫ですか……? 寝ている間に頭でも打ちました?」
ミコトが心配そうな表情で聞いてくる。
……そうだ。この子は、ミコトは俺の妹だ。
記憶に掛かっていた濃い霧がスッキリと晴れるように思い出した。
なぜ、俺はこんなあたりまえのことを思い出せなかったのだろうか?
「あー……ごめんミコト。俺ちょっと寝ぼけてたみたいだ」
ミコトにそう言った瞬間、頭の片隅で自分の言葉遣いに微かな違和感を覚えた。
しかしその違和感はすぐに消え、いつも通りの自分が戻ってくる。
「なんか変な夢を見てたみたいでさ」
「夢、ですか……良い夢でしたか?」
「うーん……よく覚えてないけど、悪夢かな」
すでに記憶は薄れつつあるが、確か夢の中では散々な目に遭っていた気がする。
現実の俺はこんなにも幸せなのに。
……いや、待てよ、どこか妙な違和感がある。
本当にここは現実か?
「まさかこっちのほうが夢、なんてオチは……」
頬を思い切りつねる。メチャクチャ痛い。
そして一向に目が覚める気配もない。
……ああ、慣れ親しんだこの感覚。これは現実だ。
間違いなくこの世界は存在している。
絶対に夢や幻のたぐいではない。
「そもそも俺にはスヴァローグの力で幻覚が効かないんだから、当然っちゃ当然か……」
「あの……お兄様? 朝のランニングには行かないのですか?」
ミコトが俺を見上げながらキョトンとした表情で首を傾げる。
そういえば俺は毎朝、家の周辺をランニングするのが日課だった。
「今日はやめておくよ。なんか調子が悪くてさ」
「えぇ!? ど、どどどどうしましょう!? それなら学校はお休みしますか!? 私、看病します!」
「いや、そこまでじゃないから」
大げさな妹に苦笑しながら答える。
「ただ気乗りしないってレベルだから、気にしなくて良いよ」
「そうですか……? それなら、私は……」
「日課の朝自習だろ? 偉いな、ミコトは」
そう言って頭を撫でると、ミコトは顔を真っ赤にしながら照れくさそうに笑った。
「えへ、えへへ……お兄様の、妹ですから。当然です」
「可愛いなぁ、ミコトは。外でもそれぐらい素直だったら良いのに」
この妹は家だと素直で可愛いのだが、外では最近ツンツンしているのだ。
「そ、それはだって……外では、その……恥ずかしい、ですから……」
「っ……」
モジモジしながら顔を赤らめる妹に、胸キュンしすぎてハートがブレイクしそうになる。
それと同時に『その顔でそれは勘弁してくれ!』という意味不明な叫びが心の奥底で発生した。
……なんだ、今のは。
夢で見た内容を引きずっているのだろうか。
最愛の妹に対して『気持ち悪い』と思うなんて、今日の俺はどうかしている。
「じ、自習してきます!」
俺が手で口元を押さえながら見つめていると、ミコトは恥ずかしそうに目を逸らして部屋から飛び出した。
「…………なんか変だな」
ミコトが出ていったあと、自室でひとり首を傾げる。
全体的に何かがおかしい。だが、それが何なのかはハッキリしない。
妙な感覚に戸惑いながらも学校の制服に着替え、身支度を進める。
そして最後にブレザーのネクタイを全身鏡で見ながら締めている途中、あることに気がついた。
自分の体が――小さい。
そう思った瞬間、また首を傾げる。
俺の身長は平均と比べたら結構高いほうだし、体格もどちらかといえばガッシリしている。
決して小さくはないはずなのだが……なんで俺は『小さい』だなんて思ったんだ?
「顔も、自分じゃないような」
鏡の中に映った、中性的な美しさのある端正な顔立ちを見て呟く。
間違いなくこの十八年間、慣れ親しんだ自分の顔であるはずなのに、どこか違和感がある。
「……いや、気のせいか」
鏡をジッと見ていると、違和感はいつの間にか消えていた。
どうやらこれも変な夢を引きずっていたみたいだ。
しかし以前として全体的に何かがおかしい感覚は残っている。
それが何なのかはわからないが、その感覚がジッとしているだけじゃ解消されないことだけは何となくわかる。
俺は学校のカバンを持ち部屋から出て、洗面所で顔を洗い歯磨きをしたあと、朝食を取るべく居間へと向かった。