第百九十五話「無邪気」
「え……?」
アイリスはジル・ニトラの言葉にキョトンとした表情で呟いた。
「アニマと魂を……捧げる……?」
「そうだ……このままでは……私とキミは死ぬ……」
ジル・ニトラはその顔に穏やかな微笑みを浮かべながら言った。
「そうなる前に……キミのすべてが欲しい……自らの意思で委ねられたアニマと魂は、そうでないものと比べエネルギーの変換効率が段違いだからね……」
「お母様……」
アイリスは一度目を伏せると、意を決したように再びジル・ニトラを見た。
「わかりました……お母様……」
「おお……やってくれるか、アイリス……」
「……はい、でもその前に本当のことを……聞かせてください」
アイリスは震える声で言う。
「私は……本当にお母様の非常食で……ペット……なんですか……?」
「あぁ、そのことか……」
ジル・ニトラは口元に笑みを浮かべたまま、目を細めて答える。
「そうだよ……キミは私の手足となり、やがて糧となるために生まれたのだ……」
「っ……」
「だが……それでもキミは、私の娘だ……」
ジル・ニトラがアイリスの前髪に指で触れる。
「無論、血縁という意味では違うが……私によく似たこの髪と、キミの優秀な能力……これはキミに私の因子を組み込み、生まれた時から魔術的なパスを繋いでいるからに他ならない……」
「…………」
「そして……そんなキミを、私は愛しく思っている……」
「…………本当は」
アイリスがジル・ニトラに強く抱きつく。
「本当は……わかっています……お母様には、他者を愛する気持ちはなく……私への愛情は、特殊な自己愛のようなものなのだと……」
「フフ……そうだとも……キミはやがて私に還る、私の一部だからね……さすがは我が娘、正確な分析だ……しかし、だとすればどうする……?」
ジル・ニトラはアイリスの首元を撫でながら囁いた。
「私に還ることを拒むか……?」
「……いいえ」
アイリスはその瞳から大粒の涙を流しながら答えた。
「お母様が私を愛していなくても……お母様の子守唄が、作られた記憶だったとしても……私がお母様の娘として生きた日々は本物だから……たとえ、私に向ける感情が自己愛だったとしても……」
アイリスの体が仄かな光に包まれる。
「私は……お母様を、愛しています……」
幾何学的な魔術式の光が周囲に浮かび上がる。
「『廻れ廻れ廻れ、或るべき場所へ還る為に』」
アイリスの体からジル・ニトラへ光が流れ込んでいく。
そしてその光が途絶える瞬間。
「…………生きて、お母様……」
アイリスは小さく呟いて、目を閉じた。
「……クク」
ジル・ニトラは自分に流れ込む光が完全に消えたのを確認すると、抱きついていたアイリスを押しのけて立ち上がった。
「クク……ククク……クハハハハハ! 予想以上の変換効率だ! さすがは私の作品、実に素晴らしい!」
ジル・ニトラは高笑いして動かないアイリスの頭部を足蹴にした。
「ククク……一刻を争う場面でとんだ茶番をやらされ辟易したが……やはり感情面を抑制しないで正解だったな。一方通行でも、精神的なパスがあると思いのほか具合が良い。……さて」
ジル・ニトラが右手を空に伸ばすと、ヤツの体を赤い霧のような光が覆った。
すると赤い霧の下に、光で出来た鎖のようなものが浮かび上がっていく。
「万全には程遠いが……これでやっと自由に動ける」
ヤツがそう言いながら空に伸ばした手を握ると、光の鎖がちぎれて消える。
直後、ジル・ニトラの雰囲気が一変した。
「さぁ……狩りの時間だ」
ジル・ニトラが獰猛な笑みを浮かべながら指を鳴らすと、世界に色が戻った。
同時に動き出したゼタル、ディナス、バルドが立ち上がっているジル・ニトラを見て一瞬、止まる。
「フフ……やはり生の反応を見ないことには、始まらない……」
その言葉を最後まで待たずに、バルドがローブの袖から無数の触手をジル・ニトラに向けて飛ばす。
だがそれらの触手がジル・ニトラに届く手前で、バルドは正方形の魔法障壁に囲まれた。
「虫は好きじゃないと言ったろうに」
そしてジル・ニトラが指を鳴らすと、バシュ、という独特な音と共に正方形内が真っ赤な霧で充満した。
「まったく……最後まで悪趣味な男だった……おっと」
間髪入れず斬り掛かってきたゼタルの剣を躱し、ジル・ニトラはその両腕を手刀で斬り飛ばした。
「クク、油断も隙もないな」
「ぐっ……なぜ……!?」
バックステップで距離を取ったゼタルにジル・ニトラが笑いながら追撃する。
「ハハハ! 私がキミたちを攻撃できるのが不思議か? それはもちろん――む?」
鋭く伸ばした竜の爪でゼタルに襲いかかったジル・ニトラの手が、黒光りする剣に貫かれて止まる。
その剣はゼタルの失われた左腕から直接、生えていた。
「――インペリアル!」
ゼタルが叫んだ次の瞬間。
ジル・ニトラの後頭部に、ゼタルがさっきまで握っていた剣が宙を飛んで突き刺さった。
それはそのまま頭を貫通し、ジル・ニトラの額から剣が突き出た。
「ほう――?」
ジル・ニトラが自分の額から突き出た剣を興味深そうに見る。
そしてゼタルの右腕から生えた黒光りする剣が、ジル・ニトラの首を刎ねようとした直前。
ジル・ニトラの左手がその剣を掴んで止めた。
「この剣は……ふむ、土魔法の物質創造と自らの血を混ぜて作ったのものか。そういえばキミは土の属性持ちだったな。ならば……このような趣向はどうだ?」
ジル・ニトラの目が紫色の光を放つ。
するとゼタルの四肢が徐々に灰色の石へと変化を始めた。
「キミの得意属性だ」
「貴、様……!」
「ククク……ほら、早く魔法抵抗しないと死んでしまうぞ?」
「くっ……うおおぉぉ……!」
ジル・ニトラの言葉を受けてゼタルのアニマ出力が増大するが、石化は止まらず。
ゼタルの体はみるみるうちに石化が進み、数秒もしないうちに頭の先まで灰色の石となった。
「クハハ! 神々の寵愛を受けた勇者の、最後の言葉が呻き声とは! これは傑作だな!」
ジル・ニトラはひとしきり笑うと、ゼタルの石像に小さく息を吹きかけた。
それだけでゼタルの石像は強風を受けた砂のように霧散して宙を舞い、赤い空に消えていった。
「フゥ……しかし、頭に剣が刺さるというのも随分と久し振りだな……」
そう言いながらジル・ニトラが頭に突き刺さった剣を抜こうとしたその時、ディナスが地面を蹴ってヤツの背後から斬り掛かった。
「おっと、遅いぞディナス。機を逃したな。まあ……」
ジル・ニトラは振り返って左手で振り下ろされた剣を受け止め、右手でディナスの首を掴んだ。
「いつ斬り掛かられようが、キミに私を倒せはしないがね」
「おのれ、バケモノめ……!」
「クク……キミも似たようなものだろうに」
受け止めた剣をディナスの手から引き抜き、背後へと放り投げる。
そのあとすぐにジル・ニトラはディナスを地面に押し倒した。
「この全身鎧を装備している限り、キミは人間にも関わらず不死身に近い再生能力を得る……」
ジル・ニトラはディナスの胴体に馬乗りして動きを封じながら、ディナスの兜に手をかけた。
「だがその代償として……この全身鎧すべての部位を外した時、キミは死ぬらしいな?」
「……ま、まさか」
「フフ……本当なら、四肢がちぎれ飛ぶような激闘の中で鎧が剥がれていき、やがて死に絶えるのがキミの理想なのだろうが……」
ジル・ニトラがディナスの兜を外し、背後に放り投げる。
「私は人が嫌がることをするのが大好きなんだ。というわけで、キミはただ鎧を脱がされて死ぬといい。戦わずして、ね」
「や、やめろ……やめっ……やめろぉぉおぉおぉぉぉお!!」
ジル・ニトラは笑いながらディナスの鎧を剥いでいった。
その言葉とは裏腹に、ヤツの笑顔には邪悪な悪意のようなものは感じられず。
そこには……まるで蟻を潰して遊ぶ子供のような、無邪気さが溢れていた。