第百八十九話「旧友」
「おや、遅かったねヴィネラ」
ジル・ニトラは背後を振り向き、まるで道端で旧友と再会したかのような、親しみを感じさせる口調で言葉を続けた。
「私は結界が壊れた時点でキミがすぐ来るものだと思っていたのだが」
『随分とアナタが楽しそうにしてたから、邪魔しちゃ悪いかと思って』
ふわりふわりと空中を漂いながら、ヴィネラはニヤニヤと笑いながら言う。
『それに、見ておきたいモノもあったし』
「ほう? 何かなそれは?」
『フフフ……今にわかるわよ。ほら……』
ヴィネラはそう言いながらゆっくりとジル・ニトラに近づき、その体に手を伸ばした。
「おっと、その手は食わんぞ」
ジル・ニトラが指を鳴らす。
すると例のごとくヴィネラは赤い正方形の魔法障壁に囲まれた。
そして間髪入れずに魔法障壁が赤い閃光を放ち、中に居たヴィネラが消滅する。
「まったく、油断も隙もないな」
『あら残念』
消滅したはずのヴィネラがジル・ニトラのすぐ後ろに再び出現して言う。
『楽に終わると思ったのだけれど』
「ああ……なんて寂しいことを言うんだキミは。私はキミに楽しんでもらうためだったら、長年かけて作り上げた自分の複製を、すべて費やしても良いとさえ思っているのに」
『アタシに楽しんでもらう? フフフ……冗談でしょう?』
ヴィネラの姿が一瞬ブレる。
直後、周囲の空に何十、何百、何千……いや、それ以上にも及ぶ、数え切れないほどのヴィネラが次々と出現していく。
『自分が楽しみたいだけなくせに』
「それはもちろん大前提さ。自分が楽しまず、相手を楽しませられると思うかい?」
ジル・ニトラが大きく両手を広げる。
するとヤツの足元を中心に、一瞬で闇が世界を覆い尽くした。
「これは……」
俺は周囲を見渡して呆然とした。
空を見上げても下を見てもいたるところに無数の星が輝き、太陽があった場所には巨大な月が浮かんでいる。
「……宇宙?」
「足場も空気もちゃんとあるだろう? これは演出さ。無論、元の世界を守るため、という実用性も兼ねてはいるが」
ジル・ニトラは数え切れないほどのヴィネラに囲まれながらも、余裕の態度を崩さず俺に言った。
「なにせ私たちが本気で戦えば、その余波だけで星が壊れかねないからね」
『あら、アタシはそんな乱暴な戦い方は好まないのだけれど』
ヴィネラのひとりがそう言いながら肩をすくめる。
その一方で、『他の』ヴィネラたちは全員、その両手にそれぞれ等身大を超える巨大な光球を浮かべていた。
驚くべきことにその光球ひとつひとつが、あの『神の心臓』と呼ばれた宝玉を思い起こさせるような、信じられないほど超高密度のアニマで構成されている。
「クハハ! わざわざお得意の搦め手ではなく、私の趣向に合わせてくれるか!」
『ええ、もうアナタと遊ぶこともないでしょうから、最後ぐらいはね』
「ククク、そうつれないことを言うな。お互い時間は有り余るほどある身だ。何度でも遊ぼうじゃないか。そうだ、私が新世界を作ったら遊びに来ると良い。歓迎するぞ?」
『嫌よ。どうせ悪趣味だろうから』
ヴィネラがそう言ったと同時に、無数の光球がジル・ニトラに向けて放たれる。
俺はそれを見てすぐさま全身のアニマを更に強化し、風魔法を使って後方へと大きく飛んだ。
「ぐっ……!?」
無数の光球が連鎖的に爆ぜ、その余波だけで意識が持っていかれそうになる。
宝玉が大爆発を起こした時と違ってそれなりに距離があって、なおかつ対処も十分にしているのにこれだけの衝撃があるとは……戦いの次元が違うにもほどがある。
『ああ……素晴らしい。素晴らしいぞヴィネラ』
凄まじい数の光球が爆ぜたあと、そこに現れたのは超巨大な銀色の竜だった。
ジル・ニトラが本性を現したのであろうその竜は、ヤツが自称する神竜に相応しく思えるほど圧倒的な威容とアニマを醸し出していた。
『アナタの硬さも中々よ。まあ、すぐに突き破ってあげるけれど』
『ククク……やってみるが良い!』
竜となったジル・ニトラと、無数のヴィネラが凄まじい戦いを繰り広げる。
ジル・ニトラがブレスを吐き、巨大な尻尾や爪を目にも留まらぬ速さで繰り出し、無数のヴィネラを大量に消滅させていく。
だがヴィネラは消滅させられるごとに数を増やし、数多の魔法を竜となったジル・ニトラに撃ち込んでいった。
それからどれだけの時が経っただろうか。
やがて竜となったジル・ニトラの動きは精彩を欠き、見るからにヴィネラが優勢となっていく。
『さあ……もう、終わりにしましょうか』
無数のヴィネラが発光し、超高速で次々とジル・ニトラの巨体を通り過ぎ始める。
そのたびジル・ニトラの巨体には等身大の穴が空いていった。
そしてまるで全身が蜂の巣のようになったところで、巨体は地響きと共に崩れ落ちた。
次の瞬間、宇宙空間のように見えていた周囲の光景が元の崩壊した帝国城の跡地へと戻っていく。
「クハハ……万全の私をこうも容易く下すとは、さすがは創世の魔女」
白煙と共に溶け、消えていく竜の中から人型のジル・ニトラが現れる。
「他の『私』も温存できるなどと思ってはいなかったが、まさかここまでだとは思わなかった。そうさな、次は三体分……いや、もういっそのこと残りの『私』、七体すべてを統合するか」
『ええ、そこまでされたらアタシも相当に面倒だから……もう、手は打ってあるわ』
「……なんだと?」
ジル・ニトラが宙に手を伸ばし、いくつもの穴を空間に開ける。
ヤツはそこで何かに気がついたように目を見開いた。
「まさか……」
『フフフ……そうよ』
空に浮かんでいた無数のヴィネラが消え、一体だけがジル・ニトラの背後に浮かび上がる。
『アナタが一生懸命、戦っている間にね……アナタの複製は全部、アタシがいただいたわ』
「バカな……どうやって……!?」
『アナタにできることが、アタシにできないとでも思った?』
ヴィネラは背後からジル・ニトラに抱きつき、その耳元で囁くように言った。
『異空間の座標さえわかれば、その中身を横から取るぐらいのことは……わけないのよ?』
「っ! そうか、私が記憶の継承をした時に……!」
『ええ……迂闊よねぇ。魔術的にカギを掛けているからって油断したのかしら? フフフ……アタシにとってはそんなもの、あってないようなモノなのに』
ジル・ニトラの体からヴィネラへと、急速にアニマが吸い取られていく。
「ハハハ……なるほど、キミが言っていた『見ておきたいモノ』というのは、それだったか……」
『普段のアナタなら、結界が消えたあともアタシが出てこない時点で何かおかしいと、気がついたでしょうね。でも……』
ヴィネラは穏やかに微笑みながら言った。
『今回、アナタは楽しみすぎた。それが敗因よ』
「ククク……そうか、つまりは必然、というわけか」
ヴィネラの言葉を受けて、ジル・ニトラは瓦礫の上で膝をついた。
もうほとんどアニマが残っていないのだろう、まったく抵抗する気配がない。
『さあ……アタシを裏切った報いを、受けてもらいましょうか』
ヴィネラは離れて様子を見ていた俺に手招きした。
『イグナート、ジル・ニトラにトドメを刺しなさい。そして――全部、終わりにするのよ』