第百六十一話「白目」
「あの……緊急事態ってなんですか?」
俺の腕を引いて走るミランダ先生について行きながら質問する。
緊急事態っていう響きには嫌な予感しかしない。
場合によっては緊急離脱したい。
「驚かないでっ、ください、ねっ」
「はい」
「実はっ、今さっき、我が校にっ」
ミランダ先生が息を切らしながら話す。
喋るのも走るのも遅いのはご愛嬌だ。
「帝国のっ、ジル・ニトラさまがっ、ミコトさん宛てにいらっしゃってっ」
「はい」
「はぁっ、はぁっ、そういう、ことですっ!」
「……はい?」
え、それってつまり……どういうことだ?
っていうかもうそろそろ大学校舎に着いちゃうんだが。
「ミランダ先生」
「なんですかっ!」
「緊急事態って、ジル・ニトラが私宛てに来てるって、ただそれだけですか?」
「ちょ……ミコトさん!?」
ミランダ先生はちょうど大学校舎の前で立ち止まり、深呼吸をして息を整えてから俺に向き直って言った。
「いいですか、ミコトさん。アナタが王国の由緒正しき名家である、シルヴェストル伯爵家の令嬢であることはもちろん、わかっています」
「あ、はい」
「他にも王国に一握りしかいない高ランク冒険者と交友があったり、王国一の豪商であるベックマンさんの恩人と呼ばれていたり、新進気鋭の王国宮廷魔術師であり我が校の最上級名誉講師であるセーラさんと懇意にしていたり、アドリア王国公爵令嬢かつ魔術師ギルド会長の娘で世界唯一の『七大属性使い』の天才魔術師、アイリスさんと親友であるということは重々、承知しています」
「はあ……」
なんのこっちゃ、という感じで思わず気の抜けた声が出る。
っていうかアイリスの肩書がすごい。長い。
そしてアイリスと親友うんぬん、のところに関してはあえてツッコミは入れない。
「もともとはアナタも高ランク冒険者であり、戦闘能力で修練教官すら圧倒すると聞いていますから、ミコトさん自身も大変優秀な、ひとかどの人物であることは間違いないのでしょう」
「いえ、それほどでも……」
「ですがっ!」
ミランダ先生は俺の両肩をガッシリと掴み、真剣な表情で言った。
「ジル・ニトラさまの前では……それらの要素をすべて合わせても、塵芥に等しいのです」
「……ええと」
「アナタも当然知っているとは思いますが、この大陸にある国々が長年大きな争いもなく平和を維持できているのは『生ける伝説』『調停の魔術師』『帝国の頭脳』である、ジル・ニトラさまの手腕によるものだと言われています。ジル・ニトラさまはあくまで宮廷魔術師であり『皇帝の相談役』という立場になっていますが……ここだけの話、皇帝という座は大昔から象徴的なものになっており、実質的に帝国を動かしているのはジル・ニトラさまであるというのは、公然の秘密です」
「あー……はい」
この世界で生きている以上、それぐらいは俺も聞いたことはあるけど。
「事実、ジル・ニトラさまのお名前ひとつで国が動きます。小さな国であればジル・ニトラさまのため息で消し飛ぶぐらいです。それどころか、ジル・ニトラさまは帝国の初代皇帝陛下が異世界より召喚した、神竜の化身であるという噂もあります。実際のところは誰にもわかりませんが……それだけ神聖視されるほど、偉大な御方ということなのです」
「それは……まあ……」
その影響力の大きさはなんとなくわかるけども。
アイツが本来の力を出したら、本当の意味(物理)でも小国ぐらい消し飛びそうだし。
本人の言葉を信じるなら元はマジで神竜だったっぽいからな。
「ですから、いいですね、くれぐれも、失礼のないようにしてください。ジル・ニトラさまの前でまともに立てるのは、皇帝陛下以外だと……そうですね、かの有名な勇者さまぐらいだと、そう思ってください」
「わかりました」
大げさだなぁと思いつつも、理解はできるので素直に返事をしておく。
「わかってもらえましたか! それでは急ぎましょう! 今は応接間でお待ちいただいていますが、本来はたとえ国王陛下とてお待たせしてはならない御方! 一刻も早く……」
「やあ、イグナート」
ミランダ先生の背後にある校舎から紫色のローブに身を包んだ銀髪の魔術師、ジル・ニトラが現れた。
ジル・ニトラの後ろでは恰幅の良いハゲた中年男性である学長が、ハンカチでひたいの汗を拭きながらついてきている。
「朝早くからすまないね。少し、キミに頼みたいことがあって……ああ、そういえば今はミコトだったか。ついつい忘れてしまうな」
「頼みたいこと……?」
俺が露骨に嫌な顔をすると、ミランダ先生が両手を口に当てて「はわわわわわわっ……!」とマンガのように動揺し、学長は白目を剥いて倒れた。
いやいやいや……大げさにもほどがあるだろ。
学長どんだけメンタル弱いんだよ。
「そうなのだよ。これはキミにしか頼めないことで……おっと、この気配は……?」
倒れた学長に念のため治癒魔法を掛けていると、ジル・ニトラが話の途中で後ろを振り返った。
誰か他の来訪者を思わせる口ぶりだが……俺は特に感知してないぞ? 何者だ?
――そう思った直後、二階の校舎窓から見覚えのある黄色髪の少女がこちらに受かって飛び降りてきた。
地面に降り立った瞬間、衝撃と共にバリバリバリ、と雷電を周囲に撒き散らしながらの推参である。
なんかの映画みたいで超かっこいいのだが、はたから見ると色んな意味で危険人物だ。
周りに人がいたら感電してるぞ。
「イグナートさん……今日は逃しませんよ?」
ニッコリと笑いながら立ち上がる危険人物、もとい勇者フィル。
特に周囲を警戒していなかったとはいえ、俺の超感覚に感知されないとは……随分と気配の消し方が上手くなったものだ。
ストーカーの素質がある。
「ふむ……勇者よ。先にこちらの用件を済ませても良いかな? なに、そう長くは掛からん」
「あれ、ジル・ニトラさまもいらっしゃったんですね。おはようございます」
そしてジル・ニトラとフィルが話し始めた瞬間、今まで動揺しまくってたミランダ先生はハッと正気に戻ったように自分の頬を叩いてから、恐る恐るといった様子で提案してきた。
「み、皆さま、よ、よよよよろしければ応接間にご案内いたしますが……?」
一周回ってもはや耐性がついたのだろうか、ミランダ先生は噛みまくりながらもしっかりとこちらを見て……あ、ダメだこれ、白目剥いてる。
「いや、それには及ばんよ」
ジル・ニトラがそう言って指を鳴らすと、瞬時にして周囲の景色が一変した。
空間転移……だろうか?
「ここ……どこだ?」
「大陸外にある小さな無人島の上さ。私の憩いの場所だよ」
辺りは青々しい木々に囲まれ、向かって左手には透き通った小さな川、右手には木製の小屋がある。
そして俺は小屋から伸びたウッドデッキの上に立っていた。
バルコニー……じゃないな、一階だからテラスというやつだ。
目の前にはこれまた木製のテーブルとイスがあり、ジル・ニトラはいつの間にか対面のイスに座って紅茶らしきものを飲んでいた。
周囲には俺とジル・ニトラだけしか見当たらない。
「まあ、ひとまず座ってお茶でも飲みたまえ」
「……どうも」
ジル・ニトラに促されてイスに座り、テーブルの上に用意されていたお茶が入ったカップに手を伸ばしたところで俺は止まった。
……これ、毒とか入ってないだろうな。
俺に毒は効かないが、それはあくまで一般的な毒だ。
どんな毒も絶対的に効かない、という確証があるわけじゃない。
「おや、随分と警戒されたものだね。毒なんて入ってないのに」
「あー……いや、今は喉乾いてなくてな……はは……」
「フフ、白々しい。まあ良いだろう。さて、先ほどの話の続きだが」
ジル・ニトラは紅茶をソーサーに置いて、優雅に足を組みながら言った。
「キミに『あるもの』を取ってきてもらいたいんだ」
「断る」
「返事が早いな」
「今は取り込み中でな。予定が空いたら連絡するから、その時にまた言ってくれ」
ヴィネラの呼び出しがいつくるのか不明な現状で下手に動くことはできない。
まあどっちにしろ、ヴィネラのことがなくても何かしら理由をつけて断ったと思うが。
だってジル・ニトラだし。
「ふむ、それでは困るな。言っただろう? これはキミにしか頼めないことだ、と」
「そんなことを言われても俺だって困る。今回はマジであきらめてくれ」
「どうしてもか?」
「どうしてもだ。絶対に無理」
断固として拒否し続けると、今まで怪しげな笑みを浮かべていたジル・ニトラが突然、無表情になった。
「そうか……残念だ。とても残念だよ……イグナート」