第百四十六話「土」
「起きてくださーい」
「ん……んん……」
気絶してしまった少年の頬をパシパシと叩く。
「んあ……ん……うわぁああぁあぁあ!?」
「やっと起きましたか」
「ば、ば、ば、バケモノぉおぉおおお!?」
ほとんど身動きの取れない体で身をよじりながら俺から遠ざかろうする少年。
まあ……うん、これはもうしょうがないな。
俺も実際バケモノだと思うもん、自分のこと。
「に、人間じゃないぃぃ!? 人外、いや魔族……悪魔だぁあぁああぁぁあ!?」
「そう思われても仕方ないんですが、これでも人間なんですよ私」
「た、食べないでくれぇぇ! オレを食べないでくれぇぇぇ! そんな死に方は嫌だぁぁぁ!」
「食べませんよ。食べませんから少し落ち着いてください」
「うあぁあああぁああぁぁ!? リュイ! リュイィィィ!! オレを助けろぉぉぉ!」
「んー……」
ここで痛めつけて黙らせるのは簡単だが、それは余りにも理不尽だ。
しょうがない。
メチャクチャにしてしまった森を治癒魔法で元に戻しながら、しばらく待つとしよう。
そして数分後。
「ひぃ……ひぃぃ……助けて……助けてリュイ……」
「…………」
俺は泣き叫び疲れてぐすぐすと鼻を鳴らす少年をただひたすら眺めていた。
それにしても、なんつーか……この少年アレだよな、情緖不安定というか、なんというか……。
いや、俺が原因なのはわかってるんだけど。
それにしたってひどい。
「さて……少しは落ち着きましたか?」
「うっ……うぅ……なんで……なんでオレだけがこんな目に……オレがいったい何をしたってんだよ……」
「人の話を聞きなさい」
「ひぃぃ!?」
少年に一歩近づいて声を掛けるだけで、彼は左手で頭を押さえガクガクと震え始めた。
……重症だなこりゃ。
「あのですね、さっきも言いましたが私は別に悪魔ではないので、あなたが私の言うことをちゃんと聞けば危害は加えません。もちろん食べたりもしません」
「う、嘘だ……食べないけど、魂は取るとか……結局はそう言うんだ……悪魔の手口だ……」
「……あのですねぇ」
「ひぃぃ!?」
「…………」
ダメだこりゃ。
もう方向性を変えよう。
「わかりました。じゃあもう悪魔でいいです。よくよく考えればこれから鬼、悪魔と言われてもおかしくないことをあなたに強いるわけですからね。ある意味では悪魔でしょう」
「うわああ!? 自分が悪魔だって認めたぁ!?」
「はいはい私は悪魔ですよ悪魔。……ところであなた今、空腹ではありませんか?」
「は、はひぃ!?」
「もう太陽も真上に昇って、すっかりお昼の時間です。あなた、朝食はとってないでしょう? お腹……空いてますよね?」
「うっ……いや、もう胸がいっぱいで特には……」
「空いてますよね?」
「す、空いてますぅ! お腹ペコペコですぅ!!」
「そうですか。それはよかった。では、食べて良いですよ」
「へ……な、何を……?」
「あなたの目の前にあるものです」
「…………空?」
「ああ、仰向けだとそうですね。じゃあちょっとうつ伏せになってください」
「いや……あの……骨折が痛くて……」
「…………」
「ひぃぃ!? い、今すぐうつ伏せになりますぅ!」
俺がニッコリ笑うと少年はひぃひぃ言いながら地面の上でうつ伏せになった。
「はぁ……はぁ……うつ伏せに、なりました……」
「では、召し上がれ」
「……あ、あの……悪魔さま」
「これから私のことはしばらく『先生』と呼んでください」
「……先生、目の前に何も見当たらないのですが」
「何を言ってるんですか」
俺は少年の目の前に膝を抱えながらしゃがみ込むと、地面を指差して言った。
「ちゃんとここにありますよ」
「……………………土?」
「ええ、そうです」
「…………つまり『これ』を食って死ねと?」
「いいえ、あなたがこれから幸せに生きる為です。……ああ、そういえば、今回あなたをこの山に連れてきた『意図』を話し忘れていましたね」
俺はアイリスから渡されたメモ帳を懐から出して、それを読みながら話を続けた。
「まず、あなたが今現在苦しんでいるのは、『何者にも成れない自分自身を認めたくない』という強い自意識からくる自己嫌悪が原因です。あなたのその気持ちは『自己実現の欲求』といい、人間が抱く基本的な欲求の中でも非常に満たすことの難しい種類の欲求です」
「は、はあ……?」
「人間の欲求というものは基本的に生命維持に関わる、より原始的なものほど先に現れ、それらが満たされると次の段階へと移行していきます。具体的に言えば生理的欲求、安全の欲求、愛の欲求、尊重の欲求、自己実現の欲求……そして最後に自己超越の欲求です。……ここまでは良いですか?」
「いや……ちょっと……意味がよくわかんないです……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ただこれらはそういった傾向がある、というだけで絶対的な法則ではありません。人によって個体差もあります。そして今のあなたのように、明らかに途中段階の欲求をすっ飛ばして高次元の欲求を求める人もいます。とはいえ、一度満たされた欲求は次から渇望が薄くなるという法則もあるみたいなので、あなたも昔は愛や尊重を渇望して一度満たされたから、次の段階である自己実現の欲求が現れているという考え方もあります。……ここまでは良いですか?」
「あの……全然わからないです……」
「…………」
「わからないです……」
「……ええと」
俺は手元のメモ帳に目を落とした。
こういう場合の対処は……と。
確かアイリスがわかりやすいたとえ話を書いておいてくれていたはず……お、あった。
「ええと、ですね。たとえばですよ。明日生き残るための食料を必死で求める貧民街の人たちが、『人に尊敬されたい』とか、『理想の自分に成りたい』とかは普通、思わないですよね?」
「そう……ですね」
「つまり、原始欲求が意識化している時、高次欲求は表層意識に出てこないわけです。なぜならそんな余裕などないわけですから」
「はあ……」
「だから今回の試みは人間が本来持つ原始欲求を十分に引き出し、一時的に高次欲求を忘却させ、なおかつその状態を保ち、段階を経てじっくりと原始欲求を満たしていくことにより……」
「先生、発言いいですか」
「む……なんですか?」
「ぶっちゃけ先生の言ってることほとんどわからないんですけど、つまりそれって『今までの環境が恵まれていたということを自覚しましょう』的な話ですか?」
「…………」
「だったらもう自覚したんで、大丈夫です。いくら不幸でも貧民街で生まれるよりよっぽど幸せだって気づきました。オレ完全に勝ち組でした。気づかせてもらって本当にありがとうございました」
「…………」
「だからその……すいません。もう帰してもらっていいですか?」
おそるおそる、といった感じでそう言ってくる少年。
……ええと、この段階では『本人がなんと言おうと無視して土を食わせるべし』、とメモ帳に書いてあるな。
「ダメです。食べてください」
「ひぃ……!」
「そうですね……素直に言うことを聞かないと、リュイは私が食べてしまいますよ?」
「そ、そんなっ!?」
「ふふふ、私は悪魔ですからね。良いんですか? リュイが食べられても」
「うっ……うぅ……リュイ……」
「さぁ、土を食べなさい。話はそれからです」
「くっ…………」
少年は意を決したように、地面の土を左手ですくった。