第百三十二話「夢」
「はうあ!?」
ガタン、とイスを倒しながら俺は跳びはねるように立ち上がった。
「おや、よく寝てましたねぇ、ミコトさん。授業はもう終わりですよ。……ああ、だから起きたのかな?」
教壇に立つメガネの先生がそう言うと、クラス中で笑い声が上がった。
「は……へ?」
「……バカ」
前の席に座るアイリスが小声で呟いたのを聞いて、俺は自分の置かれている状況を理解した。
◯
数学の授業が終わり、休み時間。
「アイリス」
「なによ」
すぐに教室から出て行こうとするアイリスを呼び止める。
だがアイリスはこちらに背を向けたまま、振り向かない。
「えっと……私たち、精神世界から戻ってきた……のですよね?」
俺は首を傾げながらアイリスに確認を求めた。
確か、俺は存在が希薄になったアイリスに触れた瞬間、精神世界とかいうところに入り込んでしまって、そこから出れなくなっていた……と思ったのだが。
「どうも夢でも見ていたかのように実感がないんですよ。確かにそのような記憶があるのですが……」
「…………」
「アイリス?」
「……知らないわ。夢でも見てたんじゃない?」
「あっ、ちょっと、アイリス!」
アイリスは俺の制止を無視して、そのまま教室から出て行った。
昼休み。
学食で昼食を食べた後、俺は教室へと戻るため校舎四階の廊下を歩いていた。
「うーん……」
あれは本当に夢だったのだろうか。
なんだか実感がないし、ところどころ覚えてないが夢にしては随分とリアルだったような気がする。
……アイリスの、唇の感触とか。
「でもアイリスは知らないって言うし……ん?」
廊下の窓から視界に映った、見覚えのある二人に足が止まる。
モニカとアイリスだ。
中庭で二人とも向い合って何か話している。
「何を話して……あ」
意識を集中して会話を聞く前に、モニカはアイリスの横を通り過ぎていった。
……って、俺今ナチュラルに盗み聞きしようとしてたな。
いかんいかん、自重しなければ。
◯
大学が終わり放課後。
俺はアイリスに例の精神世界のことを聞こうと思い校内を探したのだが、彼女はどこにもいなかった。
普段アイリスと同じ講義を取っている複数のクラスメイトたちから話を聞くところによると、彼女は昼休み以降から姿が見えなかったらしい。
その情報から推測するに、どうやらアイリスは途中から講義をサボってどこかへ行ってしまったようだった。
そして夜、消灯後。
寮の自室にて。
「そういえばモニカ」
「なに?」
「お昼に中庭でアイリスと話してませんでした?」
モニカは二段ベッド下段に、俺は上段にそれぞれ横になったあと。
俺はモニカに昼間のことを聞いていた。
「……見てたんだ」
「たまたま廊下の窓から見えました。なにかあったんですか? モニカがアイリスと話すなんて」
「ちょっとね」
「はい」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
しばらく沈黙が続く。
……あれ? もしかして話さない感じなのか?
俺がそんな風に思った時、モニカが口を開いた。
「アイリスがね……ハンナは、絶対に助けるって」
「絶対に助ける……?」
「そう。いつ助けるのとか、どうやって助けるのとか、なにも言わなかったけど……でも、絶対に助けるって。ハンナの魂を、救ってみせるって」
「…………」
アイリスは確か……そう、精神世界でもそんなことを言ってた気がする。
じゃあやっぱり、あれは夢じゃなかったのだろうか?
「あたしね、アイリスのことはまだ許せないし、信じられない。けどその言葉だけは、信じたい。……ううん、信じる、ことにしたの」
「……そうですか」
「だから、ミコト」
「はい?」
「アイリスを……よろしくね」
「…………」
「あの子はワガママで……冷たくて……」
「…………」
「不器用で……素直じゃなくて……意地っ張りだけど……でも、それでも……」
「…………わかりました。任せてください」
「……ありがと、ミコト」
モニカはそう言って、安堵したように息を吐いた。
◯
翌朝。
俺は自身の左半身に今までにない重みと柔らかさ、そして温かさを感じて目を覚ました。
「ん……んん……?」
「おはよう、ミコト」
「んー……おはよう……って、アイリス!? なんでここに!?」
「今日から私、ミコトと同じベッドで寝るから。よろしくね?」
「いやいやいや答えになってないんですけど!? っていうかそんなの無理でしょう!?」
「あら、ちゃんと説得して許可はもらったわよ、校長に。魔眼を使わないでだったから大変だったわ」
「説得って……」
「ミコトと同じベッドで寝れなかったら大学をやめる。そして大学を爆破する、って言ったら許可をもらえたわ」
「それ説得じゃなくてただの脅しぃぃぃ!!」
アイリスによるトンデモ発言で反射的に起き上がると、俺の目に眩いばかりの白く美しい裸体が飛び込んできた。
「…………………………は、い?」
「やだ、ちょっと……どこ見てるのよ、エッチ」
「いや……あの、なんで裸なんですか……?」
「なんでって、魔術師だもの。寝る時は裸なのが当然でしょう?」
「え、魔術師ってそういうものなんですか?」
そんなの初耳なんだけど。
「聞いたことありませんけど……って、えええぇえぇえぇえぇえええ!?」
「なによ、朝から騒々しいわね」
「いやいやいやいや、なんで私も裸なんですか!?」
「抱きついた時の感触が微妙だったから脱がしたわ」
「そんな抱き枕のカバーが気に食わなかったみたいに脱がされても!」
「どうしたのぉ、ミコト、こんな朝から……キャアア!?」
「モ、モニカ!? ち、違うんですこれは! 誤解です!!」
「あら、おはようモニカ。私、今日から寝る時はミコトと一緒に寝るから。よろしくね」
「え、え、えぇ!? ミコト、あなたとアイリスって、そういう……!?」
「だから違うんですってば!!」
「ち、違うの!?」
「違います! ほらアイリス! 校長の許可があってもさすがにこれはアウトです!」
「決めるのは私よ。アナタじゃないわ」
「私とモニカ対アイリスなんだから、多数決でこっちに決定権があります!」
「あら……いいのかしら?」
「はい!?」
「アナタがそう言うなら、この場でモニカに教えてあげてもいいのよ。前世での話だけど、アナタの所有物であるパソコンのハードディスク内、そのデスクトップ上にある哲学フォルダ6の中に入っている……」
「わああああああ! 私なんだか急にアイリスと一緒に寝たくなっちゃった! ねぇアイリスちょっと二度寝しよう!?」
自分とアイリスにガバッと布団を被せる。
そして小声で囁く。
『ちょっとアイリス! なんで私の極秘情報を知ってるんですか!?』
『なんでって、昨日精神世界で聞いたじゃない』
『あれ……じゃあやっぱり、精神世界のことは夢じゃなかったんですね!?』
『そうよ。最初はしらばっくれようかと思ったけど、でも昨日一日考えて、私決めたの』
『決めた……?』
俺がそう言うと、アイリスは布団から顔を出して言った。
「いくら精神世界でも、やっぱり初めては初めてだもの」
「それって……」
「責任、取ってね?」
アイリスはそう言いながら人差し指を俺の唇に当てて、片目をつむった。
結局、精神世界での出来事は夢ではなかった。
つまりは最後のアレも夢ではなかったと――そういうことであるらしい。