第百二十九話「黒歴史」
「それじゃあ、いくわよ」
アイリスがそう言うと、彼女の全身を虹色の淡い光が覆っていく。
それからアイリスは魔術を行使するための呪文のような言葉を歌うように唱え始めた。
今までに聞いたことのない詠唱である。
彼女の故郷の言葉だろうか。
「あっ!?」
詠唱を続けるアイリスの体がどんどん希薄になっていく。
だがしかし、俺の体にはまったく変化がない。
……こ、これ置いてかれるパターンじゃないか?
「アイリス!?」
「……ダメね」
アイリスが途中で詠唱を止めると、虹色の光は消えて彼女の体は元に戻った。
「こちら側に引っ掛かりを感じて、物理世界に戻れないわ」
「引っ掛かりって……」
「これね」
俺と繋いでる手を持ち上げるアイリス。
「私ひとりだったら戻れそうだけど」
「あ、あはは……またまたー、冗談キツイですよ、アイリスったら……」
「冗談だと思う?」
「うっ……」
「そうね、永遠にこっちで暮らすわけにもいかないし、ゆくゆくは私ひとりでも戻らなきゃいけないわね」
「そ、そんなぁ!? 私たち、ずっと一緒にいるって約束はどうしたんですか!?」
「そんな約束はしてないけど……ゆくゆくは、って言ったでしょう? 別に今すぐ見捨てるわけじゃないわよ」
「ゆくゆくも見捨てないでくださいお願いします! 私に出来ることならなんだってしますから!」
「必死ね……」
「死活問題ですから!」
「そう……じゃあ、さっそくやってもらおうかしら」
「な、何をでしょうか……?」
「決まってるじゃない」
アイリスはそう言って邪悪な笑みを浮かべた。
「私のご機嫌取りを、よ」
◯
数分後。
俺はアイリスに膝枕をしてあげながら、彼女の頭を撫でていた。
「昔ね……私がまだ小さくて体が弱かった頃、お母様によくこうしてもらってたの」
「…………」
「頻繁に熱を出して寝込んでいた私を、お母様はいつも看病してくれたわ。屋敷には使用人がいっぱい居たけど、お母様は私の看病を使用人には任せず、いつだって私の側に居てくれた。ご本もいっぱい読んでもらったわ」
「……優しいお母様なのですね」
「そうよ。今はお母様のお仕事が忙しいから中々会えないけど……でも、それもあとちょっとだから」
「あとちょっと?」
「そう、あとちょっと。……フフッ、少し喋り過ぎたわね」
そう言ってアイリスは俺の膝枕から起き上がった。
もちろん命が惜しいので、俺の右手はアイリスの左手をずっと繋いだままである。
「そんなことないですよ。もっと聞かせてください」
「それは純粋な興味が一割、私から秘密を聞き出して、ここから出るためのヒントにしたいという気持ちが九割、といったところかしら?」
「…………」
「複数の思考を同時に読み取れるのはホント、便利よね。でもこれはこれで嫌なものだわ。魔眼と違って使わなくても思考が伝わってくるもの」
「……そうですか」
「でもまあ、普通の人間から伝わってくるであろう汚い思考と比べたら、アナタはまだマシな方かもしれないわね。アナタは随分と分厚い仮面を被っているから」
「分厚い仮面、ですか?」
そんなつもりはまったくないんだが。
「そうよ。前世から現世におけるまでずっと災難に遭い続けてきたせいか、善性を強制される状況に置かれ続けてきたせいか、アナタの仮面は深層意識に到達するほど分厚いわ」
「ちょっと言ってる意味がよくわかりませんが、その仮面とやらが分厚いと何がどう違ってくるんですか?」
「そうね……例えば、生に対する執着、死に対する恐怖というのは人間の本質、本能により近い感情なんだけど、あまりに仮面が分厚いと自分の生死という結果よりも、自分の意識を優先したりするのよ」
「ええと……つまり?」
「だから、死の間際なのに必死になって助けを呼ばなかったり、自分が納得できない死を迎えようとすると生に執着するけど、納得できる時は逆に執着しなくなったり……つまり、『やたらカッコつける』ってことよ。心当たりあるでしょ?」
「カッコつけるって……そんなことは」
……あったっけ?
「あら、しらばっくれる気? じゃあ音読してあげましょうか。『本当はみっともなく泣き叫んで、リーダーに向かって助けを呼びたい。だけど、どうせ人間いつかは死ぬものだ。だったら最後ぐらいは格好つけたい。たとえその最後を知るのが自分だけだとしても――』」
「わーわーわーわー! やめて! 本当にやめて!!」
「思い出した?」
「思い出しました! 完っ全に思い出しました!」
ひどい黒歴史である。顔が火照る。
なんだよ、『たとえその最後を知るのが自分だけだとしても』とか。
どんだけカッコつけてんだよ過去の俺。
っていうか、アイリス最初は俺が連想した思考を読むだけとか言ってたけど、過去の記憶からも情報引っ張り出してるじゃねぇか。
今まで完全に忘れてたんだけどそんな黒歴史。
「フフッ、でも私、そういう『カッコつけ』、嫌いじゃないわよ?」
「はぁ……それはどうも……」
「それにアナタの、善性とはかけ離れている本質を仮面で覆っている、というのも私は嫌いじゃない……いえ、むしろ好きだわ」
「善性とはかけ離れている本質?」
「そうよ。アナタは本来、本当に人間らしい人間よ。闘争を好み、冷酷で、非情で、強欲で、自分さえ良ければ他はどうでもいいと思っているような、そんな人間よ。それを分厚い仮面で覆っている」
「……私は、そういった人間が『人間らしい人間』だとは思えませんが」
「それは価値観の相違ね。まあ男女で方向性は違うから万人には当てはまらないけど、でもより真理に近いのは私よ」
なぜか自信満々に言うアイリス。
「あなたは……人間が嫌いなのですか?」
「総合的に見たら面白い部分も多いし、別に嫌いじゃないわ。そこまで好きでもないけど。ああでも、さっきも言ったけどアナタのことは好きよ。お母様にはかなわないけど」
「…………では、ハンナのことは?」
「前にも思ったけどアナタ、随分とハンナのことを気にするわよね。んー……『孤立しがちなアイリスを積極的にクラスの輪に入れようとしていた、思いやりのある優しい少女』……ってとこかしら? アナタの中のハンナは相当に美化されているわね。外から見える行動自体は実際その通りだから、あながち間違ってるとは言えないのだけど」
「どういうことですか?」
「そうね、ちょうどいいから教えてあげるわ。――ハンナはね、私のことを利用しようとしていただけだったのよ」
アイリスはそう言いながら、その顔にうっすらとした笑みを浮かべた。