第百二十六話「炎」
アイリスと決別してから。
しばらくの間は会うたびに話し掛けてきたアイリスも、俺が頑なに無反応を貫くとそのうち話し掛けてくるのをやめた。
どんなに話し掛けても無駄だということがわかったからなのか、今まで執拗につきまとってきたのが嘘のような引き際の良さだった。
それからというもの、アイリスは大学を休みがちになった。
たまに目当てと思われる講義に出てくるが、それが終われば誰とも話すことなく消えていった。
◯
それから数週間の時が経ったある日。
講義室ではなく教室での授業で、俺が窓際一番後ろの席になった時。
選択している授業と出席番号の関係で、たまたま俺のひとつ前の席にアイリスが座った。
「…………」
「…………」
授業開始までの数分間、当然のように会話はなかった。
気不味い雰囲気の中で先生が教室へとやってきて、授業が始まる。
……もしかしたら気不味いと思っているのは俺だけかもしれないが。
授業が進んでしばらくすると、アイリスは窓の外を眺め始めた。
頬杖をついて窓の外を眺めるその横顔は冷然とした様子で、クラス内で完全に孤立している今の状況など気にも留めていないように見えた。
――今までと同じに戻っただけだもの。
そんな声が聞こえてくるかのようだった。
なのに、なぜだろうか。
その横顔がひどく儚げで、寂しそうに見えるのは。
そんな彼女の横顔をなんとなく眺めていたら、次の瞬間。
「…………え?」
思わず声が出た。
いつの間にか目の前にいるアイリスの姿が希薄になっていたからだ。
前にアイリスがやっていた半透明になる術とは明らかに違う。
横顔が儚げとかそういうレベルじゃない。
存在自体が消え掛かっている。
「ちょっ!?」
俺は思わず消えゆくアイリスの腕を掴んでしまった。
直後。
世界が、炎に包まれた。
「ぐあああぁあぁあぁぁあぁああぁああぁあぁああぁあぁああぁああ!?」
かつて今まで感じたことのない激痛に、教室の床をのたうち回る。
教室中が燃えている。
轟々と音を立てて燃えている。
その中にいて生徒たちや先生は尚激しい炎をその身に纏い、燃え盛っている。
なのに皆、微動だにしない。
のたうち回り、叫び声を上げているのは自分だけだ。
おかしい。
これは明らかに異常だ。
この世界で気が狂ってもおかしくないほどの痛みを経験してきた俺が、耐え難いと感じる苦痛。
それを普通の人間が耐えられるはずがないのに。
この一瞬で頭に浮かび上がってきたそんな意識をひとまず思考の片隅へと追いやり、とにかく治癒魔法を全力発動、次に水魔法で教室全体の鎮火をしようとする……が、しかし。
「なん……で……」
治癒魔法も、水魔法も、何も発動しなかった。
呆ける俺を嘲笑うかのように轟々と、音を立てて炎が燃える。
「ぐっ……がぁ……」
何が何だかわからない。
絶え間なく訪れる激痛にもはや叫ぶ気力すらない。
意識は朦朧とするくせに、なぜこうも痛みは十全に感覚を支配するのか。
「アイ……リス……」
そうだ。
アイリスだ。
アイリスなら。
俺は一寸先も見えないような炎の中、気力を振り絞ってアイリスの席に辿り着いた。
だが、その席には誰もいなかった。
「どこ……に……」
視線が窓の外へと向かう。
そして俺は見つけた。
眼下に見える中庭のベンチに、いつもと変わらぬ姿で本を読んでいるアイリスを。
「ぐっ……!」
燃え盛る窓ガラスを突き破り、四階の高さから転げ落ちるように飛び降りた。
地面に激突するも、衝撃による痛みは殆ど感じられない。
それよりも炎によってもたらされる激痛が何よりも勝る。
決死の飛び降りで限界を超えたのか、徐々に意識が遠退いていく。
目の前は相変わらず炎で一寸先も見えない。
教室内と同じく、外の世界もことごとく炎によって覆い尽くされている。
だがそれでもなぜか、アイリスの姿だけは見える。
いつもと変わらないアイリスの姿が。
「アイリス……!」
薄れゆく意識の中。
かすれた声で叫んだ刹那。
アイリスが俺を見た。
――そんな気がした。




