第百十七話「アイリス」
到着時間の見積もりが甘かったのか、それとも門の前で家族仲良く話しすぎたのか……多分、その両方だろう。
俺はどうやら転入初日から遅刻してしまったようだった。
とはいえ、そこまで大幅に遅れているわけではないようで、まだ教室では朝のホームルーム中らしい。
だったらそのぐらい遅刻とカウントしなくても……なんて考えてしまうのは、俺がすっかり貴族としての生活に慣れてしまったからなのかもしれない。
伯爵いわく、この国の貴族は基本的に時間というものをそこまでキッチリと気にすることはなく、たとえそれが仕事でも三十分から一時間程度のずれは当たり前だったりするらしいからな。
俺もここしばらくは大分時間にルーズになっていた。
最近ではベックマンのおかげで便利な針式時計が普及してきたようだが、それまでこの国では時計と言ったらロウソクを使った火時計だったから、そういったところも関係しているのだろう。
貴族の場合は時間に追われず優雅な生活をできるという点も関係しているのかもしれないが。
「着きました」
伯爵と夫人に別れを告げて、ミランダ先生の後ろについてしばらく歩いたあと。
ミランダ先生はある教室の手前で立ち止まり、こちらへと振り返った。
「では、これから私が呼んだら中に入ってきてください」
「はい」
ミランダ先生が教室の中に入っていき、生徒たちへ『今日から編入生がこのクラスに加わります』と言うと、教室中がざわついた。
例のごとく俺の耳だと壁を隔てていても、余裕で生徒たちの呟きが聞こえてくる。
その内容は様々だが、大体が『この時期に編入生?』という驚きと、『どんな子かな?』という好奇心の声だ。
『それではミコトさん、入ってきてください』
壁越しに呼ばれ、ドアを開けて教室の中に入り先生の隣に立つ。
大体生徒の数は三十人ほどだろうか。
よくある男子の盛り上がる声はまったく聞こえてこない。
それも当然だ。教室内に男子はひとりとしておらず、全員が女子なのだから。
王国大学は校舎が男女で分かれているのである。
「初めまして。ミコト・イグナート・フィエスタ・シルヴェストルです。時期外れの編入ですが今日から皆さんと一緒に勉強させて頂きます。よろしくお願い致します」
俺がそう挨拶しておじぎをすると、クラスの真ん中辺りの席に座っていたひとりの少女が立ち上がり、こちらへと向かって歩いてきた。
「アイリス・ノワール・ドゥーム・レディアントよ」
そう言って右手を差し出してきた少女は、一言で表すならば『異常』だった。
右目は金色、左目は銀色。
背中まで伸びた髪は日の光が当たるところでは淡い金色となり、光が当たらない場所では淡い銀色に見える。
人形のように白い肌は生気を感じられず、その身に宿るアニマも希薄だが、なぜかその佇まいには圧倒的な存在感があった。
「よろしくね、ミコト」
「えっと……こちらこそ」
差し出された右手を握り返すと、少女は微かに微笑んでから中央辺りにある席へ戻った。
……なんだったんだ、今のは。
「それではミコトさん、席に座ってください。アナタの席は真ん中の、一番後ろの席です」
「はい」
ミランダ先生がそう言うと、まるで止められていた時が動き出したかのように教室中がざわめき始めた。
よくよく考えたら今の少女が立ち上がった瞬間からクラス中が静まり返ってたな。
何者なんだ彼女は。
そんなことを考えながら指定された自分の席へ向かうべく歩き出すと、進行方向に気になるものを見つけた。
俺の行く道を遮るように横から伸びた、半透明の足である。
うん。ちょっと何を言ってるのかわからねーと思うが、俺もよくわからない。
ちなみにその足を出しているのは先ほどわざわざ立って挨拶してきた少女、アイリスだ。
机の上に肘をつき、ニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。
……うーん、これ、転ばせようとしているのだろうか。普通に見えてるけど。
いや、待てよ。
そういえば以前ジル・ニトラが俺に対して『幻術が効かない』と言っていたことがあったな。
ということは、この足も普通は見えるはずのないもので、俺だけが見えている可能性がある。
そうなるとここは普通に引っ掛かった方が自然なのか。
そんな結論に至った俺は何も見えてないフリをしながらそのままスタスタと歩いた。
結果。
バキッと、アイリスの足が折れた。
「ぅっ……!」
小さなうめき声を上げて倒れたアイリスに、クラス中の視線が集まる。
「あ、アイリスさん? 大丈夫……」
「……う、うわあああぁあぁああぁあぁ!?」
俺は背後から近寄ってきたミランダ先生の声をかき消すように大声を出しながら、アイリスをお姫様抱っこで持ち上げた。
「大変! 足をケガしてるみたい! 私彼女を保健室に連れて行きます!」
「え、ちょっと、ミコトさん!?」
俺はミランダ先生の声を無視しながら教室から飛び出した。
そして廊下を走りながら即座に治癒魔法を発動。
すると淡い光がアイリスの足を包み込み、スネの中ほどから曲がってはいけない方向に曲がった足がみるみるうちに元に戻っていく。
「あ……アナタこれ……」
「ごめんなさい! 一応これで治ったはずです! ちなみに保健室がどこにあるか聞いていいですか!?」
「……一階に下りて、ここから反対側の突き当たりよ」
「ありがとうございます!」
俺はアイリスを抱えたまま、保健室に向かって走っていった。